『本質商会』
こんなところに店があったのか。
まるで都市迷彩のように、その店は周囲に溶け込んでいた。
通勤で何年も歩いてきた道なのに、煙草屋と雑貨を兼ねたこの店の存在には気づかなかった。赤地に白抜きで「たばこ」と書かれた専売公社の看板だけが、過去の記憶から取り残されたようにぶら下がっている。ショーケースには何もない。空っぽなのに、妙に重苦しい沈黙がそこにあった。
廃業しているのだろう、と思いかけたそのときだった。
店の奥で、男が煙草を吸っていた。
目が合った。
とっさに目を逸らそうとした瞬間、男はニコッと笑って手招きした。
まるで見えない糸で引っ張られるように、私は店内に足を踏み入れていた。
「どうぞ」
男は煙草を指でつまみ消すと、奥に続くカーテンをくぐって私を招いた。
カーテンの向こうは、別世界だった。
黒い壁。青白い蛍光灯が一定の間隔で天井に並び、閉じ込められたような光を放っている。空気がぬるく、濃い。
「あなたがいらっしゃると思って、“本質”を取り寄せておきました。あいにく“存在”は問屋に在庫がなくて。この次にでも」
何の話だかわからない。だが、その言葉は私の耳の中で、妙に納得のいく場所にすとんと落ちた。男は長テーブルに置かれた奇妙な物体を差し出した。
それは石のように重かったが、青白く、滑らかで、どこか懐かしい手触りがした。
胎内の記憶を手でなぞるとしたら、こんな感触かもしれない。
「お持ち合わせがなければ、お代は次で結構です」
私は、何かを買わされた。名前も値段もよくわからない“本質”を。
「そういえば、“意識”は大丈夫ですか? ちょっと井戸まで下りて様子を見ませんか?」
言うが早いか、男は部屋の隅のドアを開けた。
そこには螺旋階段があった。鉄でできており、手すりには剥げかけたペンキがこびりついている。私は無言で階段を下りはじめた。
ぐるぐる、ぐるぐる、永遠のように回転しながら、何分も何分も。
時間の感覚がなくなった頃、ふいに底についた。
そこには鏡が一枚、青白い光を放ちながらぽつんと立っていた。
私は鏡の中の自分を見た。
だが、その映像は私よりもわずかに早く動いていた。
私が立ち止まると、鏡の中の私は一歩先で振り返り、
私がまだ見ていないはずの自分の背中を見せた。
——そこには、鍵穴があった。
ちょうど心臓の裏側あたりに。
「やっぱりね」
階段の上から、あの男の声が聞こえた。
「“本質”だけじゃ、あなたは動かない。やっぱり“存在”が要る」
私は振り向いたが、もうそこには誰もいなかった。
ただ、鏡の中の私だけが、笑っていた。
私は鏡の中の“私”に背を向けた。
もう一度、螺旋階段を探したが、どこにもなかった。
天井もない。壁もない。
ただ、地面だけがあった。地面なのに柔らかく、踏むたびに沈んだ。
靴底がゆっくりと沈む感覚は、地面が“記憶”でできているようだった。
気づくと、“本質”が手の中から消えていた。
あれは購入時点から、私のものではなかったのかもしれない。
あるいは、もともと持っていたのかもしれない。
財布にはレシートもない。ただ、レシートのような何かがポケットに入っていた。
【交付記録】
■購入品:本質(精製済)
■代価:自己の分割(1/3)
■未納:存在、意識(検品待)
「……分割?」
すると、どこからか声が響いた。耳からではなく、内部から。
——これは意識検査です。
——現在、あなたはどれだけ自分を構成していますか?
問いかけに対し、言葉は返せなかった。口がなかった。
代わりに、背中の鍵穴が開く音がした。カチャリ。
そこから、自分がこぼれ落ちた。
私は、私の中から抜け出した“私”を見た。
「こんにちは。あなたが意識の残りです」
そいつは私の顔をしていたが、目だけがなかった。
代わりに、眼窩の奥で小さな懐中電灯のような光がゆらゆらと灯っていた。
「ぼくはあなたの“意識仮体”です。
本体のあなたが、どこまで自己を保持できるか、ここで観察します」
私は言ったつもりだった。「これは夢か」と。
だが、意識仮体はそれに答えず、地面を指さした。
そこには、井戸があった。
本物の井戸ではない。覗き込むと、円筒形の水ではなく、記憶が渦巻いていた。
母の顔、見覚えのない街角、教室、倒れた自転車、赤いランドセル、夜の電話、数字の羅列、火、火、火——
私は叫んだ。いや、叫んだと思った。
だが、音はなかった。代わりに、意味が口から漏れた。
意味だけが空中に漂い、意識仮体の顔に吸い込まれていった。
「だいぶ、揃いましたね。あとひとつ、自己証明が残っています」
意識仮体が手を上げると、井戸の向こう側に扉が出現した。
その扉にはこう書かれていた。
《自己とは、最後に棄てるべき虚構である》
私はもう、何も持っていなかった。
“本質”も、“存在”も、“意識”さえも、どこかに預けてきてしまった気がした。
私は扉を開けた。
そこには——
……
そこには、店のショーケースがあった。
空っぽだったはずのケースには、ひとつだけ商品が置かれていた。
小さな名札がついていた。
商品名:自己
価格:記憶すべて
販売状態:再入荷待ち
背後から、あの男の声がした。
「よろしければ、お取り置きもできますよ」
私は答えた。
「いえ……もう少し、探してみます」
そして、外に出た。
都市は、やはりどこまでも変わっていなかった。
ただ、自分がどこにいたか、少しだけ曖昧になっただけだった。
私は街に戻ったはずだった。
だが、風景がやけに正確すぎた。看板のひとつひとつ、信号機の点滅する順番、路上の水たまりの形に至るまで、完全に整っていた。
いや、「整っている」というのはおかしい。
世界が、私の内部から投影されたような感触だった。
電柱に貼られた古びたビラに、こう書かれていた。
《自己を紛失された方は、至急 自己再構築課までお越しください》
《営業時間:不定》
《場所:地図に載っていません》
私は無意識にそのビラを剥がしていた。
裏面には地図のようなものが描かれていたが、それは現在の都市地図ではなかった。
いや、都市ですらなかった。
線と点で構成された図形の集合。
それは、神経回路に似ていた。あるいは、思考の断片そのもの。
次の瞬間、視界が切り替わった。
私はもう、街にいなかった。
四方を白い壁に囲まれた空間。無音。無風。
床には小さなパネルが並んでいた。
それぞれにラベルが貼られていた。
■ 幼少期の自己(3歳~6歳)
■ 社会的自己(履歴書形式)
■ 感情予備群(未使用)
■ 他人から見た自己(不完全)
■ 仮想自己(アクセス頻度高)
私はその中から、「社会的自己」のパネルを手に取った。
すると、部屋の一部が透け、会社のデスクの映像が立ち上がった。
椅子に座っているのは“私”だった。が、顔が曖昧だった。目鼻口の位置が流動的で、見るたびに少しずつ変わった。
「それは、あなたが他人に合わせて変形させた顔です」
後ろからあの男の声がした。
「思い出せないわけではなく、思い出す必要がなかっただけです。
では、“あなたの顔”を選択しますか?」
私は黙ってうなずいた。
すると、部屋の中心に、大きな球体が浮かび上がった。
球体の表面には、あらゆる顔が投影されていた。
それらはすべて私だった。
怒る私、笑う私、何かに絶望する私、仮面をかぶった私、他人の顔を借りた私。
男は言った。
「“自己”とは、ある程度まで編集可能です。
ですが、何も選ばなければ、何者にもなれません。
どうします?」
私は、しばらく球体を見ていた。
そしてようやく、一番静かな顔を選んだ。
それは、何の感情も貼りつけていない、ただこちらを見つめ返すだけの顔だった。
男はうなずいた。
「再構築、開始します」
突然、床が消えた。
私は再び、落ちた。
だが、今回は落下している感覚がなかった。
ただ、ゆっくりと、世界が私の中に戻ってくる感覚だった。
皮膚が定まり、眼球の裏に光が差し込み、
重力が“意味”を持ち始めた。
私は、私の輪郭を取り戻しつつあった。
——そのとき、ひとつの疑問が頭をよぎった。
「再構築された“私”は、元の“私”と同じなのか?」
答えは、なかった。
ただ、靴音だけが、元の世界の舗道に響いていた。
再構築された私が目を覚ましたのは、駅前だった。
見慣れたはずの場所に、見慣れない建物が立っていた。
低層で、コンクリート打ちっぱなしのような質感。
正面の看板には、こう記されていた。
《記憶売買所 - REM/EX》
【お売りください:使いみちのない記憶、古くなった記憶、他人からの記憶】
【お買い求めください:未体験の夏休み、誰かの恋人、あるいは戦争】
※記憶には鮮度と出自保証があります
私はふらりと中へ入った。
受付には、真っ白なスーツを着た中年の女がいた。
彼女は私の顔を見るなり言った。
「再構築者ですね? ようこそ。
お持ちの記憶を一度、スキャンさせていただきます」
椅子に座ると、後頭部に冷たい装置が押し当てられた。
女の目の前のスクリーンに、断片的なイメージが浮かんでは消えていく。
・指を切った夕方
・セーラー服の背中
・小学校の床の匂い
・傘を忘れた雨の日
・自分ではない声で怒鳴った記憶
・誰のものかわからない手紙
「なかなか、味わい深いラインナップです。
これは最近人気の『匿名的ノスタルジア』コースですね。まとめて引き取りましょうか?」
「売ったら、どうなりますか?」
女は笑った。
「所有していなかったことになります。
それだけです。つまり、あなたにとって“なかったこと”になるだけ」
私は黙ってうなずいた。
装置が小さく唸りを上げ、記憶がひとつ、またひとつと転送されていった。
まるで荷物を下ろすような軽さが、身体に満ちていった。
「次は、こちらへどうぞ」
女に案内されたのは、建物の奥にあるガラス張りのブースだった。
扉にはこう書かれていた。
《存在交換センター - IDENTITY DEPOT》
【ご自由に選べます:失踪者、入れ替わり、転生志望、社会的死亡者】
【交換には審査が必要です:法的自己の証明(有効期限6ヶ月)】
中に入ると、男がいた。
彼は私に数枚のカードを差し出した。
■ Aタイプ:元・小説家(自作をすべて忘れたい)
■ Bタイプ:死んだはずの人間(他人の戸籍と交換済)
■ Cタイプ:記録の中にしか存在しない人(実体は未確認)
■ Dタイプ:誰にも覚えられない人(社会的匿名性100%)
「お好きなのをお選びください。
“再構築された自己”には、“新しい存在”が必要ですから」
私はカードを手に取って眺めた。
だが、ふと気づいた。どのカードも、裏側が自分の筆跡で書かれていた。
おそらく——いや、確実に、私はすでにこの選択をしたことがある。
「これは……以前の私が?」
男はうなずいた。
「ええ。あなたが“本質”を買うより、もっと前に。
あなたはこの“存在”を一度返品されました。
忘れてしまっただけです」
私はしばらく黙ってから、問いかけた。
「じゃあ、私は誰なんですか?」
男は、曖昧な笑みを浮かべて言った。
「それを知りたくて、あなたはまたここへ来たんでしょう。
でも、安心してください。
——“あなたが誰か”より、“あなたが誰かであること”の方が重要です」
カードを手にした私は、再び都市に戻った。
いや、“都市のようなもの”に。
今やそれは、他人の記憶から組み立てられた街だった。
すれ違う人々の顔が、どれも少しずつ既視感を伴っていた。
あれはかつての同級生の笑い方。
あれはテレビで見た死刑囚の歩き方。
あれは、私の父の声を持っていた。
私は静かに歩き出した。
カードの裏に書かれていたただひとこと。
「再構築中。しばらくお待ちください。」
再構築カードを受け取ってから、私は方向を失った。
都市が、私を受け入れていないのだ。
歩けば歩くほど、建物の看板が消え、信号が変わらなくなり、空がどんどん白くなっていった。
やがて、都市の最果てに、それは現れた。
半地下構造の冷却倉庫。コンクリートの壁には無数のパイプが走り、薄い蒸気が床を這っている。
扉の上には、鉄板に刻まれた文字が貼り付けられていた。
《記憶塩蔵庫 - THE PRESERVE》
中に入ると、冷たい空気が身体を刺した。
棚には無数の瓶が並んでいた。
どれも無色透明の液体に、小さな泡のようなものが沈んでいる。
瓶のひとつを手に取ると、ラベルにこう書かれていた。
■ 記憶番号:014872-C
■ 内容:8歳の誕生日に貰った赤い自転車
■ 提出者:無効化存在(ID未登録)
係員は誰もいない。だが、天井から吊るされたスピーカーが自動音声を流していた。
——この施設は、個人の“不要記憶”を長期保存することを目的としています。
——記憶は、劣化します。熟成もします。ときに毒にもなります。
——再申請による返還は可能ですが、存在の再承認が必要です
奥へ進むと、巨大な保存槽があった。
ガラス張りのその中に、自分の記憶の断片がいくつも浮かんでいるのが見えた。
水中のようなゆらぎ。ぼやけた風景。
誰かの名前を呼んでいる声。
すべてが私のはずなのに、私ではないようだった。
「……それはもう、あなたのものじゃありません」
後ろから声がした。
振り返ると、ひとりの老人が立っていた。
しかし、顔に何の特徴もなかった。目鼻も口も、すべてが溶けたように曖昧だった。
「私は、“無効化された存在”のひとりです。
私たちは、記憶を返し、存在を解約し、ここへ流れついた」
老人は壁の向こうへと案内した。
そこには、町があった。
無音の町だった。
街灯のない道、看板のない商店、時計のない駅。
人々は歩いていたが、互いを見ていない。
名前を呼ぶ者も、挨拶する者もいない。
「この町は、自己が無効化された者たちが最後に行き着く場所です。
名前も記録も社会的認知も持たない私たちは、
ただ、この町の構成要素として配置されています」
私は訊ねた。
「でも、あなたは話している。自分を語っている。
なら、まだ存在しているんじゃないですか?」
老人は首を横に振った。
「これは“残響”です。
記録が完全に消去されるまでの、わずかなゆらぎ。
あなたも今、記録の境界にいます」
私は自分の足元を見た。
地面が、透けはじめていた。靴の輪郭がゆらいでいる。
「あなたには、まだ“選択肢”が残されている。
このまま無効化されるか、
それとも、“記憶の塩”を舐めて再び輪郭を描くか」
私は塩蔵庫に戻った。
棚から、自分の記憶らしき瓶を選んだ。
9歳の夏。遠くの親戚の家で見た、誰かの死に顔。
瓶の蓋を開けると、ふっと、懐かしい汗の匂いが漂った。
私はその液を指先で舐めた。
——その瞬間、地面が戻った。足に重みが走った。
同時に、痛みの記憶も戻ってきた。
「痛みは、存在の証明です」
背後で、誰かが言った。
「記憶は、苦しみごとでなければ、あなたのものにはなりません」
私はうなずいた。
この世界に再び戻るということは、痛みを受け入れることなのだと。
そして私は、町を出た。
記憶の塩を舐め、痛みを引き連れて、
もういちど、自分を“名乗る”ために。
私は再び歩きはじめた。
今度は、明確な目的があった。
自分を取り戻すためには、まず「名乗る」ことが必要だ。
都市の境界近く、行政区画とは異なるエリアに、ひとつの施設があった。
コンクリート打ち放し、窓なし、扉は正面にひとつ。
その上には、規則的な書体でこう書かれていた。
《名前登記所 - REGISTRY of NOMINAL EXISTENCE》
【初回登記:実費】
【再登記:理由書添付】
【第三者による名義占有は禁止されています】
中に入ると、カウンターに無人の受付端末があった。
タッチパネルには、次の選択肢が表示された。
■ 新規申請
■ 名前の復旧
■ 使用済み名義の再取得
■ 他者の名義を確認
私は「名前の復旧」を選んだ。
次の瞬間、画面がこう問いかけた。
——お名前を正確に入力してください(記憶と一致する必要があります)
私は少し考えてから、キーボードに指を置いた。
だが、手が止まった。
……自分の名前が、正確に思い出せない。
漢字はどうだったか。読みは? 他人からどう呼ばれていた?
親しかった人の声で呼ばれる音が、ぼんやりとしていた。
私は「候補検索」を選んだ。
すると、見覚えのある名前がいくつも一覧で表示された。
■ 飯島 和男(使用中:2件/未確定:1件)
■ 飯嶋 一男(旧名義・過去に抹消)
■ カズオ・イイジマ(帰化名義・取引履歴あり)
■ kazuo.iijima(仮想ID・現行通貨と連動)
すべて、自分のようで、自分ではないようだった。
突然、背後から声がした。
「お困りのようですね。名を失くされた方ですね?」
振り向くと、灰色の帽子をかぶった男が立っていた。
彼の顔には線が走っていた。まるで、顔がもともと紙でできていたかのように。
「よろしければ、“名を奪われた男たちの集会所”へお越しを。
ここでは、名前を返してもらえない代わりに、呼び方を再発明することができます」
私は彼についていった。
登記所の裏手、路地を抜けたところに、その“集会所”はあった。
薄暗い部屋に、椅子が丸く並べられていた。
皆、顔を隠し、互いを「君」「彼」「そちら」などと曖昧に呼び合っていた。
「ここでは名前が不在であることが、前提です」
帽子の男が言った。
「自己は、名前なしでも維持できるという実験的試み。
もっとも、あくまで“実験”です。
名前がなければ、再建も申請も結婚も死亡も認定されない」
私は質問した。
「なぜ、名前を返してもらえないのですか?」
「あなたが“名前を保持していた証拠”が、記録にないからです。
再構築の過程で、名義情報が未接続だった。
つまり、あなたは現在“誰でもない”状態です」
私はうつむいた。
誰でもない——
それは自由のようでいて、監獄のようでもあった。
「ただし、方法がひとつだけあります」
男が指を立てた。
「自分を、他者として登録するのです。
あなたは、“私ではない何者か”になりすますことで、
再び制度と接続できます」
私は問いかけた。
「それは……“嘘”では?」
男は笑った。
「いいえ、制度にとっては“登録されたものが真実”です。
真実である必要はありません。
名とは、記録されたものが先に立つのですから」
私は再び、登記所へ戻った。
画面を操作し、「新規名義」を入力した。
——Kazuma N.
どこかの誰かに似ている気もしたが、それでよかった。
私は「私ではない私」として、もう一度、都市に戻った。
カードには、こう書かれていた。
【仮登録:有効期限・記憶との一致が確認されるまで】
Kazuma N.として登録された私は、再び都市の地表へと戻った。
市民カードをスキャンすることで、交通機関も使用できるし、食糧供給所の配給も受けられる。
だが、何かがちがっていた。
私は、自分の名前に返事ができなかった。
ある日、呼び止められた。
「カズマ・エヌさん?」
反射的に振り向いたが、その瞬間に、自分が「彼」ではないことを強烈に自覚した。
振り向いたのは体だ。だが、心は置き去りだった。
他人の名前に反応している自分。
制度にとっては市民でも、意識にとっては未登録のままだった。
その夜、地下鉄構内に貼られた小さな紙片が目にとまった。
筆跡は手書きで、薄く滲んでいた。
【N.G.I.通信】
「記憶のない名は名ではない。
名のない記憶は呼び出されない。
我々は、記憶不履行者として拒絶する。
次回:匿名者同盟、23:45、旧信号所へ」
私は迷いなく向かった。
指定された旧信号所は使われなくなった地下鉄の一角、蛍光灯が切れかけ、駅名もすでに消されていた。
中には十数人の男女がいた。誰も名前を名乗らなかった。
皆、記憶から切り離された名義で暮らしながら、ある共通の不満を抱えていた。
「我々は、制度に名前を与えられた時点で、過去を失うのだ」
それが、集会の冒頭で語られた言葉だった。
「名は通貨になった。IDになり、選別の指標となり、取引され、奪われ、再配布される。
しかしそれは、記憶から切り離された空の器だ。
我々は記憶を取り戻すために、まず名を捨てねばならない」
彼らの多くは、合法的な市民ではなかった。
一時的に他人の名義を借りている者、廃棄された記録から不正に再生された存在、
過去に「二度目の自己登記」を行ったことで、旧自己を抹消された者たち。
その場で配られた薄いパンフレットには、こう記されていた。
匿名者同盟 5原則
名前で呼ばれないことを誇りとする。
記憶と名義が一致しない限り、それを名と認めない。
書かれたものよりも、思い出されたものを優先する。
登録情報よりも、他者との体験に価値を置く。
名に縛られた制度の外に、もうひとつの共同体を築く。
議論が進む中、私はふと口を開いた。
「でも、名前がなければ、存在の証明ができない。
それでも、あなたたちはどうやって、互いを識別してるんですか?」
静かな沈黙のあと、ひとりの年配の女性が答えた。
「記憶は交換できない。だから、私たちは“記憶で認識”するの」
「名前じゃなくて、その人との一緒に過ごした時間そのもの**を、証明にするのよ」
その言葉に、私は胸を打たれた。
記憶は私たちの中にあり、名はただの社会的ハンドルにすぎない。
——Kazuma N.
この名前も、いつか捨てねばならない。
私はようやく気づいた。「名前のない自己」こそが、最も自己らしいのではないかと。
その夜、協議会の者から、一枚のチケットを手渡された。
薄い紙に、こう印字されていた。
《次なる行き先:記録破壊者ネットワーク 本部 - THE ERASURE ROOM》
【目的:自己と記録の非対称を是正するための、最後の手段】
薄暗い地下通路を進む。
壁にはかつての公共ポスターが貼られていたが、文字は一部だけ消され、形だけが残っていた。
そこに、私の影が映り込む。影はどこか歪んでいた。まるで別人のようだった。
通路の終わりに、鉄製の扉。
「THE ERASURE ROOM」と刻まれている。
鍵はない。だが、扉は簡単に開いた。
中に入ると、数十人の男女が集っていた。
全員がマスクをしており、名前はない。
彼らは“記録破壊者”だった。
リーダー格の女性が、私を見た。
「ようこそ、再構築者。
ここは記録と記憶の境界で戦う者たちの砦。
君は“名前”を持ち、“記憶”を取り戻したかもしれないが、
まだ“記録”の呪縛からは逃れていない」
彼女は巨大なスクリーンを操作した。
映し出されたのは、この都市の膨大なデータベースの構造。
記録は無数の層になり、個々の記憶や存在を細分化し、管理していた。
「記録は世界を作る。記録は自己を支配する。
だが、記録は完璧ではない。
破壊されれば、存在は揺らぐ。記憶は自由になる」
彼らの目的は、「記録の破壊」、つまりデータの抹消によって自由な自己を解放することだった。
私は問うた。
「破壊して、何が残るのですか?
無のなかに漂うだけでは?」
リーダーは微笑んだ。
「そこが重要だ。無ではない。
記憶と存在の非対称を是正するのだ。
記録が優位に立つ世界から、記憶が主権を取り戻す世界へ」
彼らは私に一枚のカードを差し出した。
それはアクセスキーのようだった。
「このキーで、中央記録室への潜入を許可する。
君の“自己”の痕跡を消すのか、あるいは改変するのか、君が選べ」
私はカードを握り締めた。
この一歩で、私は記録の呪縛から解放されるのか、
あるいは永遠に存在しない者になるのか。
扉の向こうには、無数のデータの海が待っていた。
波打つ記録の中で、私は“自己”を問い直す。
——「私は、いま、どこにいるのか?」
扉をくぐった瞬間、空気が変わった。
記録の世界は、肉体の重力を失い、言葉の断片と記憶の欠片が漂う無限の宇宙のようだった。
私は呟いた。
「さあ、どこから始めようか」
最終章 「不在証明発行 - ABSENCE CERTIFICATE」
記録破壊者ネットワークの中央記録室を抜けた先に、
私は「不在証明発行局」と呼ばれる部屋に辿り着いた。
部屋は白い光に満ち、まるで何も存在しない空洞のようだった。
そこには、無数の書類が浮遊し、電子の紙片が静かに回転していた。
受付には機械が一台だけ。
画面には淡々とこう表示されていた。
——【不在証明発行申請を開始してください】——
「自己の不在を証明することは、
この世界において、最も完全な存在の消失を意味します。
この証明が発行されると、あなたの記録は永久に凍結され、
過去・現在・未来における全ての接続が断絶されます。」
私は手を伸ばし、申請ボタンを押した。
機械が振動し、証明書が生成された。
書類にはこう記されていた。
【不在証明書】
申請者:未登録
証明番号:∞-0000-∞
発行日:不定期
効力:永続的な存在不在を認定する
この証明は、発行された瞬間より、申請者は記録・記憶・名義・社会的存在の全てから解放される。
同時に、物理的存在の継続も保障されない。
手にした証明書は透き通っていて、ページをめくるごとに、私の影が薄れていった。
だが、不思議なことに、心は静かで安らかだった。
私は言った。
「これが、私の最終の自己だ」
不在の証明を得た私は、ふわりと浮かび上がり、
もはや誰のものでもない記憶の海へと溶け込んでいった。
だが、どこかで確かに感じた。
「存在しないことこそが、私の最も真実の姿である」
都市は背後で揺れ動き、名前のない人々の声が遠く響いた。
私の不在は、新たな自己の始まりだった。