入学、そして初回授業
冬の終わりを告げる風が、街の屋根瓦を軽やかに滑り抜ける。
グレイン伯爵家の離れにある書斎、その一隅でアイリスは膝を抱えていた。
手元には、王国紋章と金の封蝋で閉じられた一通の書状。
封を開けると、淡い光が魔導紙の縁をなぞり、そこに文字が浮かび上がる。
《アルカナム魔法大学 入学許可証》
魔導工学部 魔導工学科
合格者:アイリス・グレイン殿
入学期:春暁の月第一週より
その瞬間、心の奥底で何かが音を立てて崩れた。
孤独な努力、誰にも理解されなかった構文魔法への執念。
「変人」と囁かれた背中を、何度押し返したか知れない。
けれど今、その全てが意味を持った気がした。
「……受かった」
ぽつりと漏れた言葉に、誰も答える者はいない。
だが、窓の外では風が踊っていた。
まるで、新しい世界へと彼女を誘うように。
扉が軽くノックされた。
「アイリス、おめでとう」
兄のエイデンだった。彼は、やや不器用に微笑んで、一枚の布地を差し出した。
それは、魔法大学の制服だった。
深い藍に銀の刺繍、右袖には“ギアと羽根”を模した魔導工学部の紋章。
「君がずっと目指してた場所だ。胸を張れ」
「……ありがとう、お兄様」
アイリスは制服を抱きしめるように胸に当て、静かに目を閉じた。
――まだ誰も知らない。
この少女が、やがて世界の魔法技術を根底から変える存在になることを。
春の陽光が学都アル=レメルを包み込んでいた。
王都から列車で数時間、魔法と技術の粋が集まるこの街には、今期の新入生たちが全国から集まっている。
アイリス・グレインは、学院制服の襟元をそっと整え、学院正門を見上げた。
――アルカナム魔法大学。
王国で最も格式高く、最も実力主義で、最も変人が集まると言われる場所。
大理石の門には古代ルーンでこう刻まれている。
“Per Scientiam, Liberatio.”
――知識をもって、世界を解放せよ。
その言葉に、アイリスはふっと微笑む。
誰もが彼女を変わり者と呼んだ。
だがここでは、変わり者こそが生き残る。
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講義棟・西翼棟。アーチ状の天井に、魔導結晶の照明がゆるやかな光を放っている。
ここは、魔導工学部の講義室でも最大級の〈講義室A〉。今日は「魔導工学概論」の初回授業だ。
前方に立つのは、魔導工学の重鎮――ハルヴィス=シュトラウド教授。
厳格そうな風貌に白銀の髭、背筋はぴんと伸びているが、その眼光には静かな情熱があった。
黒板代わりに浮かぶ魔導板に、教授が魔力で図式を描き出す。
一振りで魔導蒸気機関、二振りでルーン制御回路、三振りで魔導人形の心核構造が表示された。
「……魔導工学とは、“魔力”という不確定な資源に、“構造”と“法則”を与える試みだ」
教授の声は穏やかだったが、言葉の重みが教室に満ちた。
「魔法は、しばしば感性や才能に依存する。だが工学とは、それを再現可能な仕組みに落とし込む学問だ」
「我々はこれまで、“ルーン刻印”によって魔力の流れを定義し、“魔導結晶”でその波長を制御し、“固定式装置”で魔法を安定運用してきた。──これが、いまの魔導技術の基盤である」
魔導板に、複雑な結晶回路図とルーン陣が浮かび上がる。
「だが、それらはいずれも“事前設定”に頼るもの。状況に応じて行動を変える“柔軟性”を持たぬ。
変更のたびに、職人の手でルーンを書き換え、結晶の波長を再調整せねばならん。──この非効率さが、我々の最大の課題だ」
学生たちは一様に真剣な表情で聞き入っていた。
そのなかで、アイリス・グレインはノートの余白に数式と詠唱構文の断片を書き込んでいた。
教授はふと、学生たちを見渡して、続けた。
「……さて。今期の入試で、興味深い論文を提出した者がいた。
“構文魔法による条件分岐と動的魔法制御”──あの論文を書いた者は、ここにいるか?」
ざわつきが広がる。皆がアイリスを見た。
彼女は躊躇なく、静かに手を挙げる。
「私です。アイリス・グレイン」
シュトラウド教授の目が鋭く細められた。そして、静かに頷く。
「……見事だった。君の論文は、我々が“固定構造”に縛られていることを、理論的に突きつけるものだった」
学生たちの間でざわめきが走る。だが教授は続けた。
「私は長年、魔導工学に“柔軟性”を持たせる手法を模索してきたが、正直、君のようなアプローチを考えたことはなかった。
魔法を“言語”とし、条件分岐や関数によって構造化するという発想は、まさに新しい時代の入り口かもしれん」
アイリスはその言葉を静かに受け止めた。
「とはいえ、それはまだ未踏の領域だ。構文魔法には、制御の曖昧性や魔力暴走のリスクもある。
だが、挑戦をやめる理由にはならん。君がこの学科にいる限り、我々はその可能性を正面から扱う」
教授は、教壇の端に浮かぶ演算盤に一枚の魔導紙を表示させた。
そこには、かつてシュトラウド教授が若い頃に記した、未完成の魔導構文があった。
「……私は、かつてこの手で、“魔法を設計する術”を夢見た。
それを現実に変えるのは、私ではなく、君のような若者なのかもしれん」
そう言って、教授はにわかに笑みを浮かべた。