構文という異端
「──どうして、意味を理解しないまま詠唱するの?」
その言葉に、空気が凍ったように感じられた。
夕方のグレイン邸の書斎。
高い天井に響いたアイリスの声は、静かすぎて逆に鋭利だった。
目の前には、彼女の兄──エイデン・グレイン。
深紅の制服に身を包んだ彼は、端正な顔立ちに静かな知性を宿した青年だった。
魔法大学を飛び級で卒業し、王国魔導省の特別顧問に就いた天才。
父の跡を継ぎ、軍と学術の両方に通じる“次期伯爵”として期待されている。
そんな彼が、眉をひそめて口を開いた。
「アイリス。魔法とは“構造”ではなく“感応”だ。言葉はあくまで媒介。内容よりも、魂と魔力の同調が本質だよ」
アイリスは机の上に投げ出された古い詠唱書を睨みつけながら、独りごちる。
「Ignis exuro vitas hostium──初見だけど、語幹が近い。Ignis、イグナイト……火。Exuro、たぶん“燃やす”。vitasは“バイタル”と近いから命……。hostiumは“ホステイル”、敵……ね」
言語は違う。でも構造と“語幹の共通性”から意味は予測できる。
「この魔法言語、完全に構文ベース……しかも、ラテン系構造言語に近い。未知言語でも意味を推測できるくらい、法則性が明確なのよ」
「何を言っているんだ……?仮にそうだとしても、誰もそれを意識してはいない。“そう教わったから、そう唱えている”だけだ」
エイデンは机の上の分厚い魔導書を閉じ、椅子から立ち上がった。
「魔法とは、歴史と感覚の積み重ねだ。構文だの、分岐だの……そんなものに囚われていたら、本質を見誤る」
アイリスは静かに立ち上がり、兄を見つめた。
「それって……“仕様書を読まずにコードをコピペする”のと同じよ」
一瞬、エイデンの表情が止まる。
アイリスの脳裏には、前世での記憶が鮮やかに蘇っていた。
誰かが書いたプログラムを、誰も読まず、誰も直さず、ただ惰性で使い続ける現場。
その中でエラーが出るたびに責任をなすりつけ合い、本質は誰も見ていなかった。
「詠唱を分解して、構文を解明して、意味を再定義する……。
それって、魔法の“中身”を理解しようとする行為じゃない?」
沈黙が落ちた。
窓の外では夕陽が落ちかけ、魔法灯がゆっくりと点灯を始めていた。
エイデンは、何かを言いかけたが──それをやめた。
代わりに、書斎の片隅に積まれた文献の中から一冊の古びた書物を取り出した。
「……これを使うといい」
差し出されたのは、古代魔導言語の構文解析に関する論文だった。
民間ではほとんど知られていない、研究者の草稿。
「本当に構文を追うつもりなら、まず“ルーン系統”から調べた方がいい。今の詠唱言語より、はるかに構文が明確だ」
「……いいの?」
「気が済むまでやってみろ。ただし、正式に魔法大学に進むには、成果を示す必要がある」
言葉は厳しかったが、その瞳はわずかに笑っていた。
兄は、彼女の“異端”を完全には否定していない。
むしろ、それを“試す価値がある”と判断したのだ。
──この兄もまた、魔法という世界を“読んで”きた者だ。
ならば、自分は“書き直す者”になろう。
アイリス・グレインは、胸の奥でそう決意した。