錆びた槌の音
リュミエール――。
北方諸国と中央交易圏を結ぶ大河〈エルダ〉に面し、商人と旅人、魔術師と冒険者が集まる、多彩な色を持つ都市。
石畳の通りには朝な夕なに馬車が行き交い、中央広場では吟遊詩人が竪琴を奏でる。路地裏には怪しげな薬屋や、掟知らずの情報屋も潜む。多くの者が夢と欲望を抱えて流れ着き、そしてまた去ってゆく――そんな、少しばかり騒がしくも魅力に満ちた街だった。
その街の西区、賑わいから少し外れた坂道の途中に、小さな武器屋があった。
木製の看板には風雨に削られた文字で《炎の牙亭》とある。派手さのない佇まいだが、かつては名うての冒険者も通ったという、老舗の鍛冶屋だ。
店主の名は、ガルド・ヴァーグ。
年の頃は五十手前。背は高く、髭は濃いが、どこか影のある眼差しをしている。
その日も、彼は変わらず火床の前に立っていた。
「……ふむ。やはり、芯の通りが甘いか」
火花を散らしながら、打ちかけの剣をじっと見つめる。鍛鉄に含まれる魔力導管が理想の位置に流れていない。技術としては些細な問題だ。熟練の職人なら容易く修正できる。
だが――今のガルドには、それができなかった。
「駄目だな。俺はもう……錆びてしまった」
ぽつりと漏らした言葉は、鍛冶場に吸い込まれて消えた。
* * *
ガルドがかつて名を馳せたのは、十五年前のことだ。
冒険者として名を成した後、負傷を機に剣を置き、鍛冶師へと転身した。
当時、彼が作る武器は“使いやすさ”と“耐久性”に優れ、特に近接戦を得意とする冒険者たちから高い支持を得ていた。なにより、彼は“使う者の力量”に合わせた武器を選び出す目を持っていた。
“魂を宿した剣”とまで評されるほどだった。
だが、そんなガルドも年を取り、街の流れは変わった。魔道機械の台頭、量産兵装の普及――それらがもたらした便利さに、多くの冒険者は流されていった。
そして……あの日のことが、ガルドをさらに沈ませた。
* * *
それは半年前。
一人の青年が工房に現れた。
「……あんたが、ガルドさんですか?」
その声は若く、少しだけ不安げだった。
彼の名は、カイル・エストレア。冒険者ギルドに登録されたばかりの新米だ。
だが、何より印象的だったのは――彼の瞳だ。曇りのない、真っ直ぐな光。
「武器が、欲しいんです。けど、どれを選べばいいのか……わからなくて」
そう口にしたとき、ガルドは珍しく胸が熱くなるのを感じた。
この街に来てから幾度となく武器を求める者を見てきたが、これほど迷いと覚悟が混ざった目を持つ者は珍しかった。
工房の奥に眠らせていた一振り――魔剣を彼に見せたのは、ほとんど本能だった。
「これは、特別な剣だ。魔力を吸収し、使い手の魔脈に応じて刃を変化させる。だが……癖が強い。誰にでも扱えるものじゃない」
そう言いつつ、どこかで期待していた。
この若者なら、もしかすると――と。
「それでも、使いたいです。この剣が、俺の命をつないでくれるなら」
その返答に、ガルドは頷いた。
《レヴァルド》は、彼の最後の“誇り”だった。魔石の選定から刃の曲線、鍔の重みまで全て自ら仕上げたもの。売るつもりなどなかった。だが、その時は違った。
これが“武器屋”としての、最後の仕事になるかもしれない――そんな予感すらあった。
* * *
そして数週間後、ある噂が届く。
カイルが、北の渓谷で魔獣に襲われ、重傷を負ったというのだ。
生死の境をさまよい、辛うじて仲間の魔術師が回収したらしい。
その話を耳にした瞬間、ガルドの胸を貫いたのは、怒りでも悲しみでもない――ただひとつ、“後悔”だった。
《レヴァルド》は強力な剣だ。だが、魔力制御に長けた者でなければ、暴走を招く。
「俺は……あの若者に、死の可能性を渡したのか」
その夜から、槌を振るう手が震えるようになった。
“選んだ責任”が、指先に重くのしかかっていた。
以来、作る剣は冴えを失った。
常連は離れ、街の若い鍛冶師たちの工房に客を取られる日々が続いた。
そして、今夜。
ガルドは静かに店の帳簿を閉じた。
「……もう、いいだろう」
焼けたように乾いた声で呟いた。
この工房を、畳もう。
職人として、ここで終わりにしよう。
カイルには、一言だけ報告しよう。自分のせいで、彼を傷つけてしまったこと。剣を売った責任を取って、店を閉じること。
それだけ、伝えればいい。
* * *
夜が更け、リュミエールの街が静まり返る。
鍛冶場の隅で、男はひとり、火の消えた炉を見つめていた。
明日を迎えるその前に――
ガルドは、もう一度だけ槌を取ってみようかと思った。