第8話 凶器
《波戸絡子の行動記録》 2333年4月18日 午前9時36分
「刀は被害者が指輪として着けていたんですよね?」私は、まだ議論したげなセンゾを消し、刑事に尋ねる。「なら、亡くなった瞬間に『警告』が出るのでは?」
「死体もヒト、ということでしょう」刑事は答えたが、すぐに「いや、実に生意気な……、曖昧なことを申し上げました」と私に神妙に頭を下げることで井出ちゃんから軽い笑いを引き出した。「禁忌は、この研究棟の中で刀がヒトの手から離れることです。相手に意識がなくても、遺体でも、ヒトであれば指輪の受け渡しは許されます。それと、刀にしろ、指輪状態にしろ、手に接触していることがポイントなので、こう、剣豪のように、腰に佩くのは駄目です」いつの間にか井出ちゃんから刀を返却してもらったのか、刑事は鞘に納まった刀を押し込むようにベルトに差した。もちろん、刀から両手は離れている。
次の瞬間――
「警告します」と『標識板』型の【プロペ】が立ち上がり、音声を発した。「敷地および研究棟内では、ヒタチドウの刀は常時、手で触れていなくてはなりません」と、警告事由を明らかにする。
刑事は、ほら、こんなふうに、という感じでこちらに笑顔を向ける。
それで私は『よろしいのですか、警告を受けてしまって』などと慮った言葉は、かけない。刑事の横で井出ちゃんが左手に嵌めた指輪をこちらに示しているのが見えたからだ。ニセモノによるデモンストレーションだと見当がついていた。
「ですが、刀から手を放した際に起こる事象を正しく再現していらっしゃいます」と脳内でフラボノが評価を与えた。
先ほど刑事も言っていたが、『当該敷地および研究棟内で刀を手放したことに対する警告』は現時点までに1件も報告されていない。
そして、その判定および報告は【TEN】が担っているので、見逃しや漏れはない。
「ちなみに」フラボノの声が頭の中に響く。「ヒタチドウの刀は、刀身から持ち手部分までが実物であり、鞘は【マシン】による装飾――先ほど森岡刑事が仰ったように、あくまでおまけです。そちらは『凶器』の要件を満たしません。なので、鞘を装着したままの刀で対象(人間)を撲殺しようとしても、『【マシン】製の物による攻撃』と見做され、その殺害行為の実現は妨げられることでしょう」
具体的には『攻撃が相手に届く前に、見えない壁に遮られてしまう』という感じだろう。
たとえ相手が己の殺害を希っていても、だ。
ついでにもうひとつ、ルールを復習しておこう。
重要なルールだ。
『殺人事件における凶器は、原則として、当該行為をおこなった使用者――すなわち殺人者本人にしか動かせない』
――というもの。
もちろん、これは地球上の視点に限った話だ。
月面から見れば、床に置かれた凶器も地球と同じ速度で回転し、太陽をひとつの焦点とした楕円軌道上を動いていると見なせるから、『地球が凶器を動かしている』ように見えるが、そういう話ではない。あくまで地球上の話で――
っと、いきなり話が逸れたか……。
繰り返すが、凶器は殺害実行犯にしか持ち運べない。
けれど現在、殺害現場であるはずのこの部屋に刀(指輪)は存在しない。
矛盾するようだが、これは先の条文には『ただし、事件捜査員は【TEN】の監視のもと、凶器を動かすことができる』といった内容の補則(同条第2項)があるためだ。
具体的に言うと、『変死体発見』の通報を受けた官憲が現場に赴き、調べ、殺人事件と認定し、その旨を裁判所に報告することで、【TEN】の監視のもと、捜査員が『凶器』を持ち運ぶことができる。そうでないと、たとえば、科学捜査研究所に凶器を持ち込んで解析することができなくなってしまったり、今回の場合で言えば、『凶器を装着した遺体』を運べなくなってしまったりするわけで、まあ、当然の措置だ。前述のとおり、これらの手続きには常時【TEN】のチェックが入っているので不正が入る心配はない。
ちなみに『凶器』は遺体の指から外さずに科捜研に運ばれてから――つまり、『敷地内で刀を手放したら警告』のルールから逃れた場所で分離したそうだ。死者には占有意志がないので、『凶器を動かせる』犯人はもちろん、『【TEN】から許可を得た』捜査関係者であれば指輪を外すことは許されたようだ。以上の説明をフラボノが「正しい」と保証したことも追記しよう。
「凶器に指紋は?」と、おそらく21世紀の鑑識係のコスプレだろう、青色の作業着に身を包んだセンゾがぶっきらぼうに問う。
「ありませんでした」刑事は律儀に答えたが、今は24世紀である。凶器に付着した指紋や現場に残した痕跡など【マシン】に依頼すれば完璧に消すことができる。逆に言えば、【マシン】による現場の清掃は証拠隠滅や犯人隠避にはあたらない、というわけだ。
ただし『犯行時の凶器の状態を、以降保つ』という法律があるので、凶器そのものの修繕や破壊は禁じられる。『いつ凶器になるのか?』というと、犯罪要件の成立――つまり、『被害者の死』をもって成立する。被害者が死ぬまでは凶器は誰にでも運べるが、死んだ時点でそれは犯人にしか動かせなくなるわけだ。……う~ん、まぎらわしい記述をしたが、先に述べた『凶器の破壊や修繕の禁止』は、被害者に『致命傷』を与えた直後から始まる。でないと『被害者が死ぬまでにまだ時間がある。そのあいだに凶器を粉々に破壊してしまおう』と考える輩が現れかねない。要するに『指紋や足跡、血痕の拭い去りなどとは比べものにならない、看過できないほどに強烈な証拠隠滅』を禁じる措置で『特例』にあたる。まあ、そもそも『凶器の破壊』が許されてしまうと、とんでもないことになる。なにしろ『凶器は犯人にしか動かせない』わけだから、それを粉微塵にしてばら撒いたり、誰かに飲ませたり――なんて想像しただけでかなり、特に『法的』に面倒な事態になる。なので、前もって【TEN】が禁じているわけだ。それと、余談だが、自殺の場合、その生命を奪ったツールは『法律上の凶器』とは見なされないので、第三者がいくらでも動かせるし、隠滅することも許されている。
「犯人は被害者を殺害したあとに凶器を指輪型にしてその手に嵌めた。そうすることで第三者に遺体を運ばせることを禁じさせた説――は面白くないなあ……」と井出ちゃんは考える素振りで数秒固まったが、「あ、分かった!」と突然大きな声を出した。
「なにか閃きました?」真横で大声を浴びた格好の刑事だったが、おくびにも出さず、笑顔を浮かべ懐の深い対応をする。
「検死の結果、被害者を板を使って運搬した形跡――つまり、遺体をこの部屋から出すことはできなかったんですよね?」井出ちゃんは目をキラキラさせる。「なら、部屋自体を動かした、というアイディアはどうでしょう? そもそも動かせるように建物が設計されていた、とか」
話が飛躍した――が、井出ちゃんは気にする様子もなく、いや、むしろ私たちの戸惑いが嬉しくてたまらないという感じで、宙に【マシン】で研究棟の模型をつくり、片方の3階部分をもぎとり、もう片方の屋上に重ねるように乗せる。要するに2階建てと4階建てに組み直したものをこちらに提示した。「それか、あるいは」と彼女は研究棟を元に戻して、片方はピンク、もう片方をオレンジに染めてから、その3階部分だけを交換した。「このように任意の部屋を交換できるようになっている、とか?」
「なるほど、それが出来るとなると――」センゾがミニチュア研究棟の屋上に降り立つように現れ、話を引き取る。「いついつの時間帯に誰々が現場に行った行ってないのアリバイが崩れることになるわけな」
「まあ、そもそも『行った行ってないのアリバイ証言』をまだ聞いていないので、先取りの形になってしまいますが」井出ちゃんがいつもの品のある笑顔のまま、声だけ自嘲気味なニュアンスをつくって答えた。さて――と彼女は言葉を紡ぐ。「凶器は被害者が亡くなった時点で犯人以外の者は動かせなくなる、というルールがありますが、これは直接犯人が凶器を持ち運ぶことに限定したもの。さすがに『部屋ごと、その中に置いてある凶器』を動かすことは禁じられるでしょう」
井出ちゃんは言ったが、それが禁じられるのは部屋を動かす機構に【マシン】の影が認められるからだ。例えば凶器を手押しカートの中に入れて、犯人が自力でカートの手すりを引っ張るなら、凶器に手で直接触れていないにも関わらず、おそらくカートは動かせるだろう。面白いのは犯人がこのカートを坂道で手放した場合、それがどんな急斜面でも『カートはその場から動かず止まってしまう』ということだ。凶器を持ったまま犯人は地から足を離して――つまりスキップしながら逃げることもできるが、犯人が凶器を放り投げようとした瞬間――凶器が指から離れた瞬間に『空中』に留まってしまうことに、おそらく、なる。この辺りは関連する条文をそれぞれ矛盾しないよう素直に解釈することで導かれる単なる予想なのだが――「そのシミュレーション結果はおおむね正しいです」と脳内にフラボノの声が響いた。「ただし、状況によってはそもそも指から凶器を離すことが許されない、ということもあるかもしれませんのでご注意を。それと、今回は実行されずに済みましたが、もし殺害実行者が『凶器』を所持したまま『板』や『戸』などの使用を試みた場合、『機械を介しているが、あくまで当人による移動行為』と捉えられ、その使用を許されたようです」
それは特別不思議なことではない。
たとえ凶器を所持していたとしても(他人が操縦する)航空機などに乗って移動できる――そのような移動が許されることが、前もって【TEN】によって示されている。それを踏まえれば、『凶器持ち』が板や戸を使えたとしてもおかしくはない。理に適っている――とまではいかないが、当該行為が法的範疇内であることに違和感はない、という感じだ。
「ですから――」と、井出ちゃんの『研究棟変形可能説』はまだ続いているようだ。「致命傷を受けた被害者が息を引き取るまえであるなら、【マシン】を用い、部屋ごと指輪を嵌めた被害者を動かすことは可能かもしれません」
「なるほど」刑事がどこまで本気か、感心した顔で言う。
「完全にアリバイが崩れたな」とセンゾが鼻を鳴らす。
「この研究棟にそのような仕掛けはありません」フラボノが、今度はきちんと目に見える姿で現れた。「少なくとも、これまで森岡刑事が説明してくださった『事件の条件』を揺るがすような建物の変化はありませんでした」
ややこしい言い方をする。
要するに『徹頭徹尾、研究棟はその形状を変化させていない』ということだろう。
「ですが、さすが井出先生。面白い着想です」刑事が褒めた。「だとすると、この研究棟のどちらかの2階が実は本来1階で、あの、外から見たときバッテンだった通路は、並べ直すと同階同士を結ぶ単なる渡り廊下になる、ということですね?」と潰されたはずの彼女のアイディアを膨らませた。
それに引きずられて私も、あるいはあの『バッテン』は、なにか引力を暗示したモニュメントで、そのままだと研究棟同士が磁石のようにくっついてしまうから、あえて片方の2階と1階を逆にすることで反発力を生じさせ、接近を妨げている、という説はどうだろう、などと空想した。このように1・2階にそれぞれ相反する極性があるとすれば、3階は言うまでもなく、中性――中立な立場になる。だとすると、ここを訪れた人間が1階から3階に向かう行為は、陽から生じ、陰に入り、中庸を保つ――という『それっぽい』儀式になっているのかも、などと。
そこまで考えて私は妄想を閉じる。
発展性がないので見限った、という感じだ。
ちょうど井出ちゃんたちのほうにも、ひと段落ついたような気配が見えた。
わずか数秒の沈黙だったが、それを潮時とみたか、刑事は私たちを促し、再び2階へと案内する。




