第3話 ■読み飛ばし可なバトル編■ 女侍
《ソメナイの行動記録》
木々の間を駆け抜けた不染井の眼前に広がる光景。
湖だ。
走ってきた不染井はその勢いのままに湖面に頭から突っ込んだ。
高くジャンプして飛び込まない。そんな時間的精神的猶予はなかった。身を屈め、最速で水中に逃れるような、魚雷めいたダイブ。
肺が動きを止めるほど冷たく澄んだ水――だが、ここはバトル世界。そのような身体的支障はない。穏やかな快感に代替される。
視界も良好だし、耳に水が入る心配もない。
不染井は『手』のない左腕も使い、足はドルフィンキックで、水面から23度くらいの角度を付け、潜る。
数メートルほど深さを稼いだら、あとは腕を休めて音を消し、キックに専念する。
まもなく水の色が変わる。
静かだ。
途中、弾丸みたいに回転して、周囲に異常がないこと――追跡がないことを視覚でも確認して、さらに沈む。
余裕が生まれたこともあってか、気まぐれに泥の被さった湖底にタッチしてから、浮き上がる。
ようやく60秒の冷却期間が終了したようだ。ガンブレードの再生成も可能になっている。
飛沫を立てないように息を止め、すーっと水面から顔を出すと、水際で留まっているゴケネコの姿を見つける。
30メートルほどの距離があるか。
向こうもすぐに、こちらを認識したらしい。
大股に足を開いて仁王立ち、肩をいからせ、頭だけ前へ項垂れた彼女は唸っているようだ。
その表情はやはり前髪に隠れて見えないが、なんかかわいい佇まいだな、と不染井は口元をあげた。
あのサラサラで細く柔らかそうな髪が、抱き寄せた拍子に自分の脇にこすれたらさぞかしくすぐったいだろうなあ、と想像し、軽く身震いした。
さて、『空蝉の術』を使ったことが分かるように彼女も忍者だ。
同じく忍者である不染井が見せたような『着衣泳法』も、あるいは『水面を走る』なんてことだって、あの身体能力だ。造作もないはず。
なのに水際で踏みとどまっているということは『水中では不染井には勝てない』ときちんと理解しているからだろう。
不染井がラッコのように水面に仰向けに浮かんでも、これを『離れ小島』に見立てて、攻撃を兼ねた跳躍を試みる――などという『いかにも』なことはしてこない。
膠着状態。
不意に痺れた。
見るといつの間にか、そばに小舟が漂っていた。
そちらに顔見知りの女侍型、一本木レイが乗っていて、湖水を介して先ほど不染井を痺れさせたであろう雷を宿した刀を仕舞うところだった。
21世紀で言うところの『萌え袖』というのか、着流しの、ゾウの耳みたいに幅の広い袖に隠され、またしても不染井は彼女の愛刀『雷切』の刀身を見損ねた。
「……殺すつもりで雷を発したのですが」納刀後、舟の上からレイは静かに言った。
「なんで?」水の中から、不染井は素直に尋ねる。
レイは忙しなく着物を探り、懐からハンカチを取り出すと、それで口を押えた。
どうやら笑いを誤魔化しているようだ。
「なに笑ってんの?」指摘しながら、不染井もつられて笑ってしまいそうになる。
「『なんで?』はこちらのセリフです」レイは気を取り直し、まだ笑みの残る口元、声で尋ねてきた。「なぜ雷で死なないのです?」
「汚れた水を飲み水に変えるっていう古の忍者の知恵がさあ、このゲーム世界ではスキル化されてるんだけど、私、それを発展させて、『周囲の水を純水に変化させる』っていうことしてんの」不染井は説明する。「純水は絶縁体でしょ?」
けれどその障壁を『雷切』はやすやすと乗り越えてきたわけで、その威力たるや――と不染井は改めて刀身が見たくなった。
「ニビィ対策ですか?」レイは、今大会も不染井が倒せなかった西欧の雷使いの名前を出してくる。
「ん~ん、電気ウナギ対策」強がりではなく、これは本当のことだった。この湖の底深くに棲息していることは承知していたし、実際、先ほど目視で確認済みだ。
「なるほど。私はてっきり、まあ、下賤な忍者がすることですから、オナラを周囲に撒き散らすことで……」
と、言葉が震え出したところでレイはまた口を押えた。
たしかに純水と同じく空気も絶縁体のはずだが――
「いや分かんないけど、オナラって電気通すんじゃないの?」不染井は言ってみる。
想像したのか、ムフ、とレイは吹き出してから、「ではオナラした瞬間にお尻にカミナラが落ちたら……」
「カミナラって」
二人で声を合わせて笑ってしまった。
ふと視界の端で、ゴケネコが背を向け森の中に消えたのが見えた。
まるで自分たちの笑い声で退散したように思えて、それがなんだか仲間外れにしたみたいで、不染井は少しだけ気が咎めた。律儀にレイの許可を得てから、自力で小舟にあがる。
ほどなくして不染井の脳内に『戦闘終了』のメッセージが流れたが、切断された左腕の自動復元はなされなかった。
このゲーム世界では、あまりにも強烈な攻撃によりできた傷は勝手には治らない。
回復アイテムか、治療系のスキルか、いずれかを要する。
不染井がガンブレードを呼び出すと、いつものように視野の片隅にカウントダウンの表示が現れる。
そして脳内に『5秒以内にガンブレードに溜まっているエネルギィを《放出》するか《吸収》するか選択してください』という警告音声が流れる。刃の形状にも変化がある。普段まっすぐな剣の柄の部分が、雨傘の持ち手みたいに曲がって、あたかも『ガンブレードをライフルに見立てて構える』と、ちょうど湾曲した柄の人差し指を置く位置にトリガーが出現している。このトリガーを銃器のように後ろに引けば、刃の先端から光弾ないし光線が放出されるし、前方に倒せば、敵を斬りつけた際に獲得したその『エネルギィ的なもの』はガンブレードと不染井の肉体へと吸収され――ゲーム世界ふうに言えば、不染井は『回復』することになる(同様に刃の修繕もなされる)。選択の猶予時間は前述のとおり5秒で、時間切れになると、刃は暴発。再度呼び出すのに60秒の冷却時間を経なくてはいけないというペナルティを受ける――らしいが、不染井は試したことはない。暴発は記録として残されるため、試すことすら忌避しているのだ。
さて、5秒のうちに選択しなくても、ガンブレードを消せば、カウントダウンはいったん中断される。ちなみに戦闘中に一度消した得物を再び呼び出すにはやはり前述の冷却期間を経る必要がある。今は戦闘中ではないので消すも呼び出すも自由自在――だが、非戦闘時でも暴発のカウントダウンからは逃れられない。
不染井は『エネルギィ的なもの』で形成されたとおぼしきピンク色に発光するトリガーを人差し指を使って前に倒し、吸収を選択。
刃と彼女の身体が光り、左手が復元される。
(左腕復元)
なんとなくそんな言葉が音として記憶に残っている。幼少のころに観た21世紀のアニメのリバイバルモノかなにかで見聞きしたセリフだろうか。うっすらそのような憶えがある。
「一方的にやられてたようにお見受けしましたが」レイが言う。「ちゃっかり奪っていたのですね。なんでしたっけ? 『相手を斬りつけた際に奪ったエネルギィのようなもの』でしたっけ?」
「あの子から? まさかぁ!」不染井は吹き出しそうになる。「水の中でサカナ斬ったの」
「罪つくりな」レイは悲嘆するように言い、首をふる。「というか、サカナからでも奪えるんですか? エネルギィのようなもの」
「ん~、自分以外の生きとし生けるものなら、ね」不染井は刃を示す。「だから迂闊にこれでお料理できないよ」
そのジョークがお気に召したのか、ふふふ、とレイと笑った。
『当エリアからプレイヤーネーム・ゴケネコの離脱を確認』
その音声メッセージはレイにも聞こえたようだ。
「つけ狙われているようですね」まるでその非が不染井にあるかのようなレイの口ぶりだった。
「みたいだね~」
けれどテキは負ける覚悟で水の中まで追って来なかったから、『一回負けたら』あるいは『一回勝てば』気が済む、ということかもしれない――そう、彼女は推測した。「数日前からかな?」不染井は会話を続ける。まだ残っている戦闘の高揚が後押しになった感じだ。「狙われるような心当たりはまるでないんだけど」
「キャラ被りだからでは?」
レイの即答には冗談のニュアンスが含まれていたが、不染井は、なるほど、と妙に腑に落ちた気がした。
実は先日のバトルカップでも、不染井はゴケネコと同じようなモノクロの制服姿、髪もショートで参加していたから、そのとおり、似ていないこともない。
(まあ、それにしてはあまりにもスペックが違いすぎるけど)とも思った。
ゴケネコの圧倒的なあのスピードは、瞬間移動などの特殊なスキルを用いているわけではない。
単純に『足が速い』のだ。
ガンブレードを真っ二つにした技もそうだ。
あれも攻撃系の特殊なスキルではなく、『爪』を生成武器にした、名もなき通常攻撃だろう。
単に『力が強い』だけ。
そして守りは空蝉できっちりカバー。
おそらくほかに隠し玉はないだろう。
いや、そもそも用意する必要がない。
単純明快だ。
このような身体能力を前面に押し出したシンプルなスタイルは、今回のバトルカップでもよく見かけたし、実際、汎用性も高く、猛威をふるった。自らにも、そして相手にも、迅速な動き、認識、思考、判断を要求するタイプ。いわゆる『プレイスピードが速い』と評されるタイプだ。いざ目の当たりにすると想像以上に対策も立てづらく、まさしく不染井が目指すべき理想形――完成形のような気もするが、どういうわけか、そそられない。
このゲーム世界特有の『状態のリセット』を掛け、全身ずぶ濡れ状態からすっかり平常に戻っていた不染井は、舟から身を乗り出し、湖面に復元したばかりの左手を伸ばし、水をすくってみる。
手からこぼれ落ちる水の『無形』こそが、自分の目指すべき形であるような気がする。
いや、それだけではなく、濡れた手のひらが、肌が、光でうっとりするほど美しく照らされるのも、水の素敵なところだと彼女は思う。こういう、水を纏った状態こそが、人間本来の姿なのでは、と妄想したりもした。
「ところで」片手で櫓を操りつつ、レイが尋ねてきた。「あの『ウツセミノジュツ』というやつはノーコストで出来るものなのですか?」
「え? あー、なんか、こういう、変な丸っこい物体が……」不染井は咄嗟に言葉が出ず、親指と人差し指をくっつけたり離したりして『輪』を何個かつくって見せる。
「空蝉に使う丸太を縮小したアイテム、通称『タネ』が必要です」宙に青色の折り紙を何枚も使って組み上げたような、ハヤブサ型の使い魔が現れ、代わりに答えた。『彼』は単2乾電池サイズに小さくした丸太を8本ほどヒモで括ったものを不染井の濡れた手に落とす。「ちなみに今の不染井様は、ワタクシの特殊スキル『托卵』を利用している最中ですので、『タネ』や忍者職固有武器である『クナイ』の『自力』での持ち込みは禁じられています」落とされた『タネ』を不染井が手で受け止めようとすると、触れた瞬間、幻のように消えてしまった。「私が確認したところ、ゴケネコ女史は両手首に巻いたミサンガにそれぞれ1個ずつ『タネ』を括りつけていましたね」動体視力の低い不染井にも、相手がミサンガらしき腕飾りを巻いていたことは見えていた。白地に『ピンク・青・黄・緑』のパステルカラーの模様が入った可愛らしい物だった。けれど、そこに『タネ』が結ばれていたかとなると、自信がない。「それと、『タネ』の所持数には上限があります。ゴケネコ女史の上限は8つですね」
「あれを倒すには9回殺さなくてはいけない、か」フッと女剣士は笑った。「お姉さまの腕では至難の業ですね」
彼女は不染井を『お姉さま』と呼ぶが、両者に血縁関係は――少なくとも5親等以内にないことは確認済みだった。
「アンタなら楽勝だろうね」不染井が少し笑いの含んだ声で言うと――
「ええ。サムライには『神速居合』がありますので」
と、常套句で返してくる。
空蝉の術は自動防御スキルである。
自発的には出せず、『敵味方問わず、自分以外の誰かの攻撃が、自分の身体に到達する』ことを条件に勝手に発動する。
具体的には、術者が攻撃を受けた十数フレーム後(1秒=1024フレームと定義されたゲーム内の単位系。あくまでヒトがシステム理解のために導入したもので、本質的ではないことに注意)に発揮され、煙と共に術者本体を任意の物体――ゴケネコの場合『丸太』と入れ替える。
持っていたタネはここで消費することになる。
丸太と入れ替わった術者はこの瞬間、意識――ものを考えたり出来るものの、存在を失くしている。
実体を失くしている。
そして、この『当たり判定』のない虚体と化した術者は、512~3072フレーム以内に、丸太の出現場所から半径3メートル以上、6メートル以内の『空気以外に何もない』領域に、やはり煙と共に『実体化』する仕様だ。
当然、その位置は術者が選べるが、選ばずにタイムアップを迎えた場合、敵から最も遠い位置をゲームシステムを統括する【TEN】がランダムに選び、出現させる。
ちなみに、術者が受けた(ように見える)攻撃は、丸太がまるまる肩代わりするので、本体側はノーダメージとなる。
実のところ、この性能は自動防御系スキルとしてはかなり優秀な部類に入るのだが、不染井は関心がなかった。『おそらく創作が出典であろう忍術』はなるべく使いたくない主義なのだ。忍術の本質は精神と身体の操作術にある、と彼女は信じていた。
さて一方、侍固有の0フレーム剣技である『神速居合』は、発動した瞬間、それ以降に行なわれるであろうあらゆる自動防御スキルを無効化する――という破格の特長がある。つまり『神速居合』に対し、『空蝉の術』は発動しない。それが首斬りのような致命攻撃なら即死だし、そうではなく、指を斬り落とすような『様子見』であっても発動しない。具体的なプログラムの処理としては、攻撃が発動した瞬間に『攻撃完了』とされてしまうため、空蝉の『《攻撃を受けている》術者と丸太とを入れ替えて――』という条件付きの命令が割り込む機会が潰され、スルーされてしまう感じだろうか。完全に『空蝉』を無効化できるわけだ。
ゆえにゴケネコのあの圧倒的な速さに翻弄されずに、神速居合の有効範囲に捉えることが出来さえすれば、サムライであるレイなら難なく一刀のもとに斬り伏せることができるだろう。それはある意味――
(ひどく退屈――だと思うんだけどね~)
「で? なに?」不染井はそのような感想をおくびにも出さずに尋ねる。「なんか用があって来たんでしょ?」
「ええ」レイは頷く。「先ほど【TEN】による討伐イベントの開催が発表されました」
「ま~た殺人?」反面嬉しそうな顔で不染井は言うと、【プロペ】を呼び出し、現実世界のニュースをチェックする。「今度は4人ね……。で、まずは誰を斬ればいいわけ?」
「誰も」レイは愉快そうに目を細め、口角をわずかに上げた。「指示があるまで、誰とも会敵するな、ということです」




