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第30話 解答編

 《波戸絡子の行動記録》 2332年4月18日 午前11時22分



 敷地にシンプルな東屋あずまやを生成。

 屋根を支える4本の柱越しに、外の風景は見えるし、環境音も届けられるが、人の声は、中に居る私と井出ちゃんと森岡刑事のものしか聞こえない設定。

 そこで行なわれる刑事への解説は、私の脳から『貴方』の気配が消えた時点から数えて13分後だろうか、『犯人が分かった!』と主張した井出ちゃんに任せることにした。

 

「まずは前提の確認。犯行が可能だったのは当該敷地に入ることができた6名。そのうち、これが間違いなく他殺であり、自殺でないことから、被害者である吟見氏は除外。そして【エイリアス】を用いた聴取結果により、狭池氏のシロも確定しています。残りは目下もっか逃亡中の4名。ここから真犯人を絞るにあたって注目すべきは――」井出ちゃんはそこで少し溜めた。「配置です」

「配置、ですか……?」と森岡刑事が繰り返す。

「事件時間帯、誰がどこにいたのか――という配置です」井出ちゃんはすっかり名探偵気取りか、落ち着き払った態度で答える。

「なるほど」そう頷いた刑事は考える表情をつくり、「う~ん、配置……」と唸った。けれどそこから発展する思考は生まれなかったようだ。「……ですが、配置が分かったところで、結局、4名のうち誰にでも犯行は可能――になるのでは?」


 言いたいことは分かる。

 誰がどこにいようが、犯行推定時間帯に被疑者4名全員がそれぞれ一度は『現場』に足を運んでいるのだ。

 『機会』という点においては、たしかに刑事の言うように『誰にでも犯行が可能』に思える。


「ここで重要なのは――まあ、複数あるのですが」と井出ちゃんは笑顔で雰囲気を適度に弛緩しかんさせてから、言葉を継ぐ。「とり立てて重要なのは、ずばり『3時間以上無人の状態が続くと、研究棟が萎む』というルールの存在。それともうひとつ、『ヌルマユさんが研究棟を作ってから、事件が発覚し警察が到着するまでの間、一度も研究棟は萎まなかった』という事実の2点です」

 井出ちゃんはそこで刑事の相づちを待ったようだが、彼は頷くだけで言葉を発しなかった。察したように後輩は口を開く。

「事件当日の午前0時以前からずっとB棟に居た狭池さんは、『正午前後』にA棟に向かったと証言して【エイリアス】からシロをもらっています。その際の『狭池さんがA棟に到着した時刻』には幅があって、午前11時50分から午後0時10分までの20分間と曖昧にアナウンスされていました。ここで、彼が『窓』を使いA1に飛んだ時、ちょうど『戸』を回転させて入って来たツミマツさんと鉢合わせ――合流したと証言し、やはりシロが出ていることに注目しましょう。一方【TEN】は正午――つまり午後0時ジャストからA・B両方の研究棟の出入り口である『戸』の開閉記録を開示してくれましたが、そこには、この時のツミマツさんの入棟記録が記されていません。これにより、ツミマツさんは午後0時より前にA棟に入ったこと――つまり、狭池さんのA棟到着が午後0時以前であることが確定します……」そこで井出ちゃんは「お分かりですか?」と刑事に声を掛けてから、さらに続ける。「このあと合流するクツキさんにしろヌルマユさんにしろ、どちらも、上から――A3から降りてきました。つまり、事件当日、正午の時点で6名中5名がA棟に入っていた、ということが確定しているんです……。さて、そこから再びB棟に人が入ったという『確証』があるのは、準決勝開始の十数分前――午後3時10分~同時20分の間に『一人で試合を観たい』と『窓』から飛んだヌルマユさんの記録が最新となります。ということは、正午以前に5名がA棟に入ったのち、ヌルマユ氏がA2の窓を使ってB1に飛ぶまで、3時間以上が経過していることになります」

「あ~、それだとB棟は萎んでしまいますねえ……」呑気な声で言って、刑事は頷く。「じゃあ……、ええと~……、えっ……?」直感的に結論に達したのか、彼は自分のその着想を疑うかのように口ごもった。

「いったんまとめましょう」井出ちゃんは余裕に満ちた態度で【プロペ】を呼び出すと、私たちにそれを提示した。


 ■


『正午まえ』       狭池・山棚田   『B2 窓』→『A1』

             積松       『敷地 戸』→『A1』

             (この3名の合流以降に正午を迎える)

             上記合流した3名 『A1』→『A2』

             『A2』に狭池、山棚田、積松が集結。


『午後3時10~20分』 無眉       『A3』→『A2』

             『A2』に狭池、山棚田、積松、無眉の4名が集結。


             無眉「一人で試合を見たい」と言い、

             無眉       『A2 窓』→『B1』

              

『午後3時20~28分』 犬京足      『A3』→『A2』

             『A2』に狭池、山棚田、積松、犬京足の4名が集結。

             

             以上、敬称略。


 ■


 刑事の視線が【プロペ】から離れたのを見てか、井出ちゃんが口を開く。

「逃亡者4名のうち、『正午から午後3時の間、狭池さんと共に3名でA2に居た』と【エイリアス】で保証されているヤマタナダさんとツミマツさんには当該時間帯B棟に向かうことは不可能。同じく『午後3時以降』にA3から降りてきて、やはり狭池さんたちと合流したクツキさんとヌルマユさんも駄目――」

「となれば――」私は促す。

「となれば、正午から午後3時過ぎまでB棟に滞在することで『膨らみ』を維持した人物はたった1名に絞れます」井出ちゃんは普段より1段階クリアな声を使っていた。「被害者である吟見さんです」

「……なるほど」刑事の唸りがこもった声には『その主張を認めざるを得ない』というニュアンスがよく表現されていた。

「そして、その吟見さんは最終的にA3で殺害されました」井出ちゃんはさらに続ける。「【TEN】お墨付きの『人類主導の検死』によって、どこか別の場所で殺害されてからA3に運ばれたのではないことが分かっていますので、犯行現場は間違いなくA3で確定です。ならば当然、被害者は生きたまま――いえ、もっと厳密に『斬られる前に』どこかのタイミングでA2を通過しなくてはなりません。それが出来たのはいつか?」

「う~ん、被害者は一度も狭池さんと『同じ空間に居なかった』のだから、準決勝後に4人の勝ち残り戦が行なわれたあとですよね? それが終わったあと――狭池さんがB1に戻ったあと、でしょうか?」刑事は少し上に視線を向けながら、ひとつひとつ思い出すように言った。

「異論はありません」井出ちゃんは上品に微笑む。「これで犯行時刻が決定的に絞れました。ですが、その前に細かいところを詰めていきましょう」彼女は、指輪を嵌めた左手をこちらに示すように肩の高さまで掲げる。「凶器となったヒタチドウの刀は、このように指輪型の形状に変化させることができて、たとえばこんなふうに腕を組めば他者の目から隠せますが、【エイリアス】によれば、狭池さんの『拡張した嗅覚』は誤魔化せません。敷地はもちろん、研究棟の『同じ部屋』にあれば、彼の嗅覚は感知するとのことでした」と、手品のように指輪を消す。それが無くなったことで、細く長く形の良い彼女の指の美しさが強調されたように私の目には映った。「さらに【エイリアス】によれば、狭池さんは事件発覚の2日前、当該敷地および研究棟にそれぞれ入場・入館してから、吟見氏の遺体を発見するまで、被害者も刀も見ていない――感知していない、ということでした。それに加えて、刀に関して二つルールがありました。一つは敷地および研究棟内では刀は必ず誰か『ヒト』が手に持ち――手に接触させて、所持しなくてはいけないこと。もう一つは、刀を持ったまま『窓』は使えない、というもの……」さて、と井出ちゃんはそこで少し間を置く。「狭池さんは、準決勝観戦が始まる前に逃亡者4名全員の姿を見ています。先の【エイリアス】証言により、この時点で彼らの誰も『刀』は持っていないことが確定しています。となれば、その時点で刀を所持できたのは、B棟で『膨らみ防止のストッパー』となっていた被害者・吟見氏ただ一人となります」

「……なるほど」少しの沈黙のあと、刑事が呟いた。

「そして――」と井出ちゃんは言葉を継ぐ。「このB棟に滞在することで建物の萎みを阻止していた被害者が、『殺される』ためにA棟に向かうには、刀を所持しているため『窓』を用いることは叶わなかったし、ログが残るので『戸』も『単独』では使えませんでした」


 けれど、実際には被害者は刀と共にA棟3階に存在したわけだから――


「……一時的に刀を預かった共犯者――いや、協力者がいた、と?」刑事は怪訝そうな面持ちで言った。

「午後3時過ぎまでB棟の萎み防止の『ストッパー』の役目を果たした被害者と、のちに彼の命を奪うこととなる刀が、どのタイミングでA棟に渡ったか、大別すれば2つのパターンに収束します。『午後3時以降』にB棟にやって来た『協力者』にいったん刀を託し、自分はB2に上がり『窓』でA棟に飛ぶ。『協力者』は回転戸の開閉ログが残るのを承知でB棟からいったん敷地へ出てA棟に戻り、両者はA1で合流。その際に被害者に刀を返還したパターンと、そもそも、そんな面倒はせずに二人で『回転戸』を使ったパターン。言わずもがなですが、『戸』の開閉ログには何人乗っていようが、開閉を命じた代表者の名前しか記録されませんので。それを悪用したパターンですね。『窓』を使ったか否かの違いだけ……。いずれにしろ、そのようなアシストが可能だった『協力者』はただ一人に限定されます」

「ヌルマユ氏、ですか……」と、ため息と共に刑事がその名を口にした。

「はい」対照的に井出ちゃんは透きとおる凛とした声で答え、頷く。「協力者の条件――これを端的に表現すれば『午後3時以降、そして準決勝が終了するまでに敷地からA棟へ入場できた人物』となります。午後3時以降に自由行動できたもう一人の人物であるクツキさんはこの条件から外れます。当該時間帯、クツキさんが戸を開けた記録はありませんし、最終的に彼はA棟から外へ退出しています。『異門退去』のルールから見ても除外です」

 刑事は『さっきからオレ、なるほど、ばっかり言ってるなあ』と自省したのか知らないが、言葉を返す代わりに呻きながら何度か頷いて見せる。


「では、いよいよ、犯人の特定に移ります」井出ちゃんは本題に入る姿勢。「一人ずつ検証していきましょう」

「あー、そうか、ヌルマユ氏が犯人ってわけじゃないんですね?」刑事が軽く笑った。

「それを確かめるための検証です」彼女は微笑みを返す。「繰り返しますが、被害者が殺害現場であるA3に向かった――向かうことが出来たのは『勝ち残りバトル大会』が終わり、『匂い感知器』である狭池氏がA2からB1に飛んだあとです」

 井出ちゃんそこでいったん言葉をめることで、説明に空白――段落を設けた。

「では、まずは一番目の退去者、ヤマタナダさんから」彼女は再開する。「『勝ち残りバトル大会』で最初に負け、A1からいったん敷地に出たヤマタナダさんは、B棟入り口で待ち、『2番目の敗退者かつ退出者』であるツミマツさんが出るタイミングで再び入場することが可能でした。言わずもがなですが、これはログ上では『ツミマツ氏が建物内側から認証した』とだけ記録されることになります。さて、そのようにしてB棟に入ったヤマタナダさんはB2で待機。『マップ』で狭池さんたちの動きを監視し、狭池さんが『窓』を使うタイミングで――あるいは、それよりも前でも平気ですが、A1に飛びます。そこで刀を持った被害者と合流、無人となったA2を抜け、二人はA3に上がります。依頼殺人――いわゆる『嘱託しょくたく殺人』だったのか、被害者から刀を受け取り、これを殺害。そして4番目に退出するクツキさんとA1で合流し、一緒にA棟から退去すればログに『名前』は残りません。よってヤマタナダさんには犯行が可能でした」

 彼女は品よく、口元から数センチほどの空気を静かに吸って続ける。

「次にツミマツさん。先ほど申し上げたとおり、狭池さんがB棟に戻るまで被害者を殺害することはできません。なので、敗退後はログどおり、一度外に出ます。そこから『3番目の退出者』であるヌルマユさんが外に出るタイミングで中に、B1に入ります――いえ、入れはしますが、この時点で狭池さんはすでにB2に居ますので、彼の目を誤魔化してA1に行けるかというと、狭池氏証言『準決勝視聴後、B2に戻ってからクツキが窓を使って飛んだあと、翌日A棟に向かうために窓を使うまで、2階には自分一人だった』により、B2に上がれません。つまり、犯行現場のあるA棟には向かえません……」そうですねえ、と井出ちゃんは呟いてから、「自明ですが一応検討しましょうか。ツミマツさんが『4番目の退出者』ことクツキさんがA棟から出た際に、入れ違うようにA棟に再入場したパターン。これは再入場こそ可能ですが、それ以降、警察が到着するまで誰も『戸』を開けた記録はありませんので――」

「逃げられない」刑事が言葉を引き取る。「袋の中のネズミってやつですね」

 そもそもツミマツはクツキたちと時を同じくして『午後6時48分』に敷地からバトル世界に入ったという記録があるわけだから、時間的にはクツキが研究棟から退去した時点で、彼も一緒に研究棟の外にいなくてはならない。

「自明の自明ですが――」と、井出ちゃんはさらに根拠を付け足すつもりのようだ。「そもそもクツキさんがA棟の戸を開けるとほぼ同時に死亡推定時刻が終了します。この『ヒトが見繕った検死結果』に対し、【TEN】は『正しい』と保証していますので、動かせません」

「やっぱさあ~」とセンゾが出てきて、妙に悔しそうな態度で続ける。「せっかく回転戸なんてモンがあるんだから、A1に潜んでた吟見をツミマツが出るタイミングでいったん敷地に出して、そこで殺して、また誰かが出てくるタイミングで中に入れて――とか、色々やりたかったなあ……。死体もアタマと胴体、ムダに切り離したりしてさあ……」

 私が言うのもなんだが、前に聞いたような話をしている。

 いや、ちょっとだけアップグレードしているか。

 これが21世紀の人の思考の特徴なのかもしれない。

 日進月歩というか。

「そうですね」と寄り添う声色で井出ちゃん。冗談ぽい笑顔をセンゾからこちらに流す。「ちなみに、その説は『被害者の遺体は、致命攻撃を受けて以降多少自力で動いたが、板を使った形跡は認められなかった』という検死結果、および『被害者の遺体はA3で発見された』と『A3に移動するにはA2から板を使用する以外の方法はない』という事実により、否定されますね」と丁寧に潰してから、「というわけで、ツミマツさんには犯行は不可能でした」そう結論した。 

 私が何も言わないせいか、刑事が何度目となるだろう、「なるほど……」と呻くような深い相づちを返した。

 そろそろ21世紀人なら飲水などで口を潤したくなるタイミングなのかもしれないが、現代人にはそのような生理的な不都合はない。

 いや、厳密にはあるのだが、【マシン】が気を利かせて自動的かつ完璧に解消している、という感じだ。

 だから、というわけではないが、井出ちゃんはなめらかな滑舌のまま続ける。

「次にヌルマユさんですが、彼は『勝ち残りバトル大会』終了後に狭池さんやクツキさんと共にB1に向かい、三人で数分ほど雑談したのち、『戸』を認証し、敷地に出ました。『私が板でB2に上がろうとしたとき、ツミマツはまだB1に居た』と『B2に上がったあと、クツキ以外の誰とも会わなかった』という狭池さんのシロ証言がありますので、雑談後のヌルマユさんはもうB2に上がれません。そして先ほど見たように彼にも『4番目の退出者』ことクツキさんと入れ違いで再入場する『機会』こそありましたが、状況から言って、それを実行した形跡は認められません。よって、彼も犯行不能」

 また刑事が唸った。

「最後はクツキさんですね。『勝ち残りバトル』終了後、狭池さんたちと一緒にB棟に飛んだクツキさんは『ああそうだ、自分はB棟から外に出られないのだった』というような主旨の発言をし、狭池さんとB2に上がり、この到着の30秒以内に彼の見ている前で『窓』を使い、A棟に戻っています。開閉ログによれば、A棟に飛んだクツキさんはおよそ2分強ほど棟内に滞在していたこと――すんなりと退出しなかったことが分かっています。さて、この数分でA3まで上がっていき、被害者を殺害する猶予はありそうに思えますが……、いかがでしょう?」

「いかがも何も『出来る』んじゃないですか?」と刑事は言ったが、私たちの反応で察したらしい。「え、出来ないんですか?」

「はい、出来ません」楽しそうな顔で井出ちゃんが頷く。「何故、でしょう?」

「う~ん……」刑事は『真剣に考えた』と主張するのに充分な時間唸ってから、「駄目だ、分かりません。お手上げです」と言った。

 私からすれば、相手に花を持たせるような、あざとい仕草に映ったが、井出ちゃんは満足したように決め台詞を口にする。「【エイリアス】です」


 そのとおり。


 その可能性は【エイリアス】が潰している。

 

 当該箇所は、先ほども登場した――

 

 『狭池がB棟2階に戻り、犬京足が『窓』を使いA棟1階に飛んだあと、翌日になって狭池が窓を使うまで、研究棟2階には狭池以外存在しなかった』というところ。

 

「【エイリアス】は決して間違えない」井出ちゃんは常套句から始める。「なら、この証言後半にある『研究棟2階』とはA2・B2双方を含んだものとかいすのが道理です。逆に、これ以外の証言について【エイリアス】は、たとえ重複で見苦しい表現になってしまうとしても、逐一『A棟の何階』とか『B棟の何階』などとしていました。どう解釈されても判定結果に支障がない場合、注釈を省略するのが【エイリアス】の特徴のようです。ここは額面どおり受け取るしかありません」

 刑事は、これまで以上に大きく唸ったが、今回ばかりは音色が違った。

 『ん~……? 納得が……、いか、ない、なあ……』という不服そうなニュアンスが見事に表現されていて、私は吹き出しそうになった。


 ちなみに【エイリアス】聴取視聴の際にも断ったが、文章を簡潔明瞭にするため『研究棟』と省略しているものの、実際の証言記録には『東京都本郷区88-64と定義された敷地にある研究棟』と逐一注釈が入っている。なので、日本のみならず世界のどこかに存在しているであろう『それ以外の研究棟』と混同するおそれはない。切り離されている。


「……こだわるようですが」しばらくして、おずおずと刑事が口を開いた。「これは、狭池氏の拡張された嗅覚が、十メートルも離れた、しかも壁で遮られているA2の様子すら感知できたということでしょうか? それとも『当該時間帯、A棟B棟併せた研究棟2階には狭池氏しかいなかった』という『事実』を知っている【TEN】の……、メタ視点でのヒントというかアドリブというか……」

「どちらでも」井出ちゃんは『考えるだけ無駄だ』と言わんばかりに、けれど上品さをもって、切り捨てる。

 刑事がこちらに視線を流した。《彼女、波戸先生に似てきましたね》と苦笑する感じ。

 意図的に私の真似をしたのか、あるいは、私たちはもう知り合ってから1年以上が経つ。多少なりとも影響を受け、口癖がうつったのかもしれない。20世紀の名作と呼ばれるドラマを観ると『恋人の時』と『夫婦の時』で言葉遣いを巧妙に変化させているものがある。たいがいの場合、夫のほうがより影響されるのか、女性的な言葉遣いになるパターンが多いよう散見される――と話が逸れた。


 いずれにしろ、井出ちゃんの言うとおり、『【エイリアス】は間違えない』のだから、刑事の問いは、少なくともこの論証においては、無価値だろう。

 【エイリアス】が『そうだ』というなら、我々は『じゃあ、そうなんだな』と無条件で従うしかない。

 であるからこそ、24世紀の殺人事件は『理屈』で解ける、とも言える。


 ……まあ、とはいえ、私の思いつきの妄想を述べるなら、ひょっとしたら狭池の拡張された嗅覚は、同じ空間に居る人間の匂いを感知できる『だけ』ではなく、そもそも、敷地ないし研究棟にいる全員の現在地を、匂いによって感知できるのかもしれない。どこに誰がいるかが正確に『分かる』のなら、『任意の人物と一度も同じ空間に入らなかった』ことも同様に分かるはずだ。なので、狭池にこのような能力が備わっていた場合、【エイリアス】による狭池の拡張された嗅覚の説明は、もしかしたら言葉足らずだったかもしれないが、ウソはついていないし、間違ってもいない。そして無意識下で全員の居場所が分かるからこそ、刑事に促されるまで、狭池は一度も『マップ』を使わなかったし、吟見の居所を気にしなかったのかもしれない――と、これらは先に断ったが、あくまで妄想である。確証なんて言葉が恥ずかしくて使えない秘めやかでパーソナルな領域内での話だ。


「ともあれ」井出ちゃんの声で私は妄想を切り上げる。『終わり』は近そうだ。「この判定結果により、B2から――狭池さんの見ている前でA1に飛んだクツキさんは、実はもうA2に上がれません。当然、現場であるA3には向かえないわけです。よって彼にも犯行は不能。ゆえに、犯人はヤマタナダさんで確定です」と彼女は断言した。「狭池さんとヌルマユさん、クツキさんがB1に飛んだあと、そこでしばらく――数分でしたか、三人は話し込んでいます。このあいだにヤマタナダさんは被害者を連れてA3に上がり、殺害したのち、A1でクツキさんと合流、退出したのでしょう。すべてが『彼ら』の計画通りなら1分も掛からないかも知れませんね。とどのつまり、時間的猶予はありました」

 井出ちゃんは一度そこで軽く息を吸い、吐いた。

 間を置いた。

「以上のように、被疑者4名のうち、3名には絶対に犯行が不可能でした。そして、残りの1人には犯行可能性が残されています」そこで彼女はこちらに涼しげな、けれど力強い視線を向けた。「よって、犯人たりうるのはヤマタナダさんです」

「それが――?」私は促す。

「結論です」心なしか井出ちゃんは胸を張ったように見えたが、常時姿勢の良い彼女にしてみればデフォルトなのかもしれない。「いかがでしょうか?」と彼女はこちらに笑顔をつくって見せた。「『優・良・可・不可』で言うと?」

「う~ん、4段階も要らないな」私は少し被せ気味に言った。「簡単な事件だったし」

「では?」

「『可・不可』で言えば、『不可』」

「えっ!」予想外だったのか、井出ちゃんは両肩をビクッとさせて驚く。「……え、どこが?」

「それを自力で見つけることが一番鍛錬になるんだろうけどね~」私はいつものようにまっとうに答えない。「刑事さんは? 分かりますか?」

「あっ、これを即答できれば、大逆転のチャンスですね?」と表情を明るくしてみせた。「……ということは分かりますが」

「そのリアクションも『不可』ですね」私は『21世紀初頭の俗悪バラエティ番組』が好きなので、この手の採点がどうしても厳しくなってしまう。刑事の今後のために「様式美に囚われ過ぎて、発想に不条理な飛躍がないから」と理由も添えてやった。


 そんなタイミングで、井出ちゃんの拗ねたような表情、その視線にぶつかる。

 私は多少の甘さを自覚しながら、「キミのアイディアには、おおむね同意だけど、一点だけ検討が足りない箇所があるね」と言った。言ってから、つい『キミ』呼ばわりしてしまったことに気がついた。業務中の弁護士はお互い『先生』呼びが原則なのに。

 後輩の舌は微かに『足りない?』と動いたようだが、閉じられた唇がほとんど動かなかったせいか、声も聞こえなかった。

「井出先生は――」今度はちゃんと『先生』付けで呼んで、二人の聴き手に一度だけ視線を送ってから私は始める。「3時間以上無人だったはずのB棟が萎んでいないことから被害者の居場所を推定しました。ほかの5名には不可能だから、吟見氏の肉体がB棟の萎みを妨げた『ストッパ』になったと決めつけました。ですが、私たちはもうひとつ、ストッパたりえる存在を知っているはず」

「……もうひとつ?」井出ちゃんがおうむ返しにする。今度はその声が聞こえた。

「ええと――」A棟、と聞き間違えられないよう私は柄にもなくしっかり発音した。「たとえ死体が存在していたとしても本来なら研究棟は萎んでしまう。けれどそうなっていなかった……。その理由は何だっけ?」

「凶器があったからです」井出ちゃんがすかさず返す。

「そう」と私は頷いてみせる。「――であるならば、もしB1に『凶器』が置いてあったのなら、それが『ストッパ』の役目を果たしてくれますので、被害者の所在は不問となります。井出先生曰くところの配置――が崩れるわけです。当然、最初から吟見氏は殺害現場となるA3に居てもおかしくありません。だとすると『勝ち残りバトル』の最中に犯行が可能となり、やはり被疑者4名の誰にでも犯行は可能となります」

「矛盾してます!」井出ちゃんが声を高くした。「B1に凶器が存在するなら、そもそもその時点で犯行が完了していることになります。死亡推定時刻にも齟齬そごをきたしますし……、とにかく時系列がめちゃくちゃになります!」

「『矛盾している』というセリフというか文言は、数学分野ならともかく、現実ではなかなか使う機会はないよ。いや、『正しい用法で使える場面が現実には滅多にない』かな?」リバイバル作品を鑑賞するたびに思うことだからか、私はすらすら答えることが出来た。「だから、こちらの返答としては『じゃあ、矛盾しないように考えてみて』だね」

「ああ、そういうことですか!」先に刑事が気づいたようだ。井出ちゃんが不意打ちの花火を確認するように隣の彼に振り向き、見上げた。「あの時、B1に『別の事件の凶器』があったかもしれないと?」


 井出ちゃんがそれに対してリアクションをするまえに――


「だとしたら?」私は促す。「その可能性は否定できますか?」

「警察の、水も漏らさぬ精緻な捜査により、現場からそのような凶器は見つかっておりません」面目躍如、森岡刑事がすぐに返した。「なので――」

「では」私は言葉を被せることで強引に発言権を得る。「まず、外部犯――第三者が関与してしていないことを証明していただきましょう。たとえば捜査員の中に別事件――いえ、まだ発覚していないのですから、『別殺人』と言葉を定義しましょう。別殺人の実行犯がいて、捜査の隙を縫って『別凶器』を回収した、という可能性はいかがでしょうか?」

「『当該凶器を運べるのは殺害実行者だけ』『未発覚の殺人は、発生後72~73時間以内に【TEN】が通報する』という法的な観点から。加えて『波戸先生が犯人を限定したと宣言した時点から73時間前に、この敷地に入ることが許されたのは6名だけ』であることから、第三者の関与は否定されます」と、本来優秀であるこの刑事はすらすら答えた。

「そもそも捜査員には不正が出来ないよう、あるいは、他者からそのような『あらぬ疑い』が持たれぬよう、【TEN】の監視がついています。たとえ捜査員が犯人自身だとしても凶器の回収など不可能です」と井出ちゃん。

「なるほど」私は井出ちゃんのほうを向いて、「認めましょう」と頷いた。彼女の理屈のほうが説得力があるように思えたからだ。「では、『他殺の自動通報制度』により、たとえばこの敷地が定義される前に、偶然この土地に第三者が凶器を捨てていて、知らずヌルマユ氏がその上に被せるように研究棟B棟を建てた――などという説も否定されるわけですね?」

「はい、ここが定義されたのは11日正午。もう一週間も前の話です。そのような不埒ふらちな第三者及び凶器が存在したなら、最大でもその73時間後――14日のお昼の時点で通報がなされているはずです」井出ちゃんが力強く答える。

「ちなみに現時刻においても通報などはないようです」と刑事が付け加えたが、あまり意味のない報告だ。

 ともあれ、これで、敷地が立ち上がる前に第三者による殺人事件があった可能性――つまり、『第三者が使用した凶器がストッパになった説』は消えた。

 『別殺人』があり、それに用いられた『別凶器』が、吟見殺しの際にストッパとして『敷地内』に存在したなら、その『別殺人』が可能なのは敷地に入れる6名に限られる。


「では、この6名のうち――」私は問いを投げかける。「警察の捜査が行なわれる前に『別凶器』を回収できた人物は存在したでしょうか?」

「先ほどと同様の理屈で、被害者である吟見さんとそもそも逃亡しなかった狭池さんには不可能です」と井出ちゃん。「残るは逃亡者4名となりますが……、その検討の前に、まずはこの『別の殺人に用いられた凶器』こと『別凶器』の性質を定義したいと思います。そしてその特性の一つ目として、『別凶器』はヒタチドウの刀と違い、『研究棟内に自由に置ける』とします」

「んんん?」と最初刑事は唸ったが、すぐに合点がいったのか、はいはいはいはいと頷く。「なるほど、『広義敷地内ではヒタチドウの刀は常時ヒトが所持していなくてはならない』というルールは、文字どおり『ヒタチドウの刀』に限定したものですからね。『別凶器』はそのような制約に掛からない幅広いモノとして定義したほうが漏れがない、と」はいはい、と一人納得したように頷く。

「もうひとつ、この『別凶器』は狭池さんの拡張嗅覚にも感知されない、という性質を追加します。【エイリアス】が提示した狭池さんの拡張嗅覚の特性には、やはり『ヒタチドウの刀は――』という条件限定の一文がありましたので、それを踏まえた定義です」井出ちゃんがこちらを見たので、私は頷きを返す。「さて、そのような特異な性質をもった『別凶器』が、狭池さんが不在の間、建物が萎むのを防ぐ『ストッパー』としてB棟内に存在したと仮定します。そして、通報を受けた警察が到着するまえに『それ』が回収されたということは、事件当日の正午過ぎから『勝ち残りバトル戦』終了後に狭池さんが戻るまでにB棟に行けた人物に限られます。すなわち、クツキさんを除いた3名」

「除く必要はないね」私は指摘する。「別凶器を敷地内に持ち込んだクツキ氏は、B1の外壁にそれを貼りつける。『凶器は犯人しか動かせない』という原則から、研究棟のほうを動かせば、凶器は宙に留まり続け、そのまま外壁をすり抜け、建物の内側に浮き出る――かもしれない。あたかも壁に飾りつけているかのようにね。逆に、外からB棟を押し動かすことによって、B1に飾ってある凶器を外に引き出すことも可能」

「そんなこと出来るのですか?」刑事が驚きを含んだ笑顔で訊いてくる。

「出来ない、という保証はまだ頂いておりません」私は口の端に微笑みを忍ばせ、返す。


 さらに言えば、調査中フラボノは『研究棟の形状は変化していない』ことを保証したが、『研究棟は動かされていない』とは断言していない。……まあ、壁をすり抜けるは『形状変化無し』にギリギリ抵触する気もするが。


「さておき」私は続ける。「そのような手段が許されるなら『正午過ぎから狭池氏が戻るまでの間に、B棟に行けたか否か』という条件は無意味化します」


 この場合、両棟を結んでいた『X』型の通路は『これで固定しているから建物は動かせない』という視覚的なミスリードの役割も果たしていたことになるわけだ。


 刑事は私と目が合うとフッと笑ったが、すぐに苦笑いを浮かべ、手を振る。「ご心配なく、今さら建物が動かせる仕様かどうか調べるなんて無粋ぶすいな真似はしませんよ。話の流れからいって、波戸先生の『難癖』はこちらの手持ちの情報だけで否定できるのでしょうから」

「そうですね」と井出ちゃん。「どちらにしろ、このうち3名が敷地を退出したのは、敷地内から直接バトル世界へ飛んだ1回のみです。『バトル世界に入る際、所持していた凶器はその場に置いていく』というルールもありますから、もし凶器を隠せたとしても敷地内に限定されます」

「ご報告したとおり、研究棟ないし敷地内にそのような物はありませんでした」すかさず森岡刑事が言い添えた。

「異論はありません」私は認める。

「ですが――」と井出ちゃんは困った顔になる。「残りのヌルマユさんは『いったん敷地の外に出て』からバトル世界へと飛んでいます。彼には外に『別凶器』を持ち出し、どこかに隠すチャンスがあった……」


 ヌルマユが『別の殺人』の実行者であり、そこで用いた『別凶器』をB棟に持ち込んでいたなら、それが『ストッパ』となるし、『準決勝は一人で観たい』と言ったタイミングで『別凶器』を回収することもできる。そして、それはヒタチドウの刀とは違い、『狭池の鼻』に感知されない性質を持っている――かもしれない。まあ、もちろん、回収後にいったんB棟から敷地に出る機会があったわけだから、その辺りに放っておいてもいい。逃亡の際に再回収できるから支障はない。


 さて、井出ちゃんは『ヌルマユなら別凶器を外に隠せる可能性がある』としたが、そもそも彼なら『別殺人を行なうこと』も機会的に可能だ。『まだ』潰されていない。というのも『他殺体は市民の通報がなければ、事件発生後72~73時間後に警察機関へと自動通報される』というルールがあることを思い出してほしい。一週間前にヌルマユが敷地と研究棟をつくったあと、ほどなくして『敷地を出て』いる。再度入場の時刻は記録されない仕様だから、いつ戻って来たか分からない。たしか狭池がB棟内でヌルマユに会ったと証言し、【エイリアス】からシロをもらったのは『15日の午後11時ごろ』だったはず。現時刻からせいぜい60時間ぐらい前だ。それ以前に誰かがヌルマユと敷地や研究棟で会った、見かけたなどという情報はない。要するにヌルマユには『現時刻から遡ること72時間以内に敷地外で殺人を行なえるチャンス』が残っている。


 この可能性を潰せなければ、私が冒頭に示したとおり、吟見本体はB棟で『ストッパ』の役目を果たさなくてよい――つまり、最初から殺害現場となるA3に居ることが出来るから、『吟見=ストッパ説』を前提として井出ちゃんが示した『ヤマタナダのみしか犯行が成しえなかった説』は瓦解することになる。


 井出ちゃんは腕組みし、沈思黙考の様相。


 私から『不可評価』を受けたとき、どこか検討が浅い箇所があるだけで、まさか吟見殺しの犯人が異なる――なんて可能性が残っているとは思っていなかったのだろうか。彼女は真剣な顔つきにはどこか自省の色が浮かんでいるように思えた。まあ、ただの恣意的な印象だが。


「井出先生の思考能力をかんがみるに――」中空に、ぽんっとフラボノが現れ、『20世紀にイメージされた人工知能』みたいな片言で喋り出した。発声に合わせ、なぜかメガネの下の目の辺りが赤く点滅する。ちなみに、そんな彼の言葉は、本来なら『イデセンセイノ――』というカタカナ表記が相応しいと思うが、『貴方』側の事情をおもんぱかり、視認性を優先した。「あと334秒もあれば反論可能な状態に到達すると思われます。ですが、それまでの待機は『時間の無駄』と評価します。なので、波戸先生、ちゃっちゃと解説してください」

「では、お言葉に甘えて――と言ったものの、ちょっと長くなるんだけど」井出ちゃんの抗議を無視して、私は続ける。「さて、【エイリアス】により、ヌルマユ氏を除く逃亡者3名、プラス狭池氏――の計4名が敷地に入ったおおよその時刻は、証言により明らかになっています。そして、やはり【エイリアス】により、狭池氏は、同じ敷地や研究棟の同じ部屋にいる被害者やヒタチドウの刀があれば、『本人の実感はない嗅覚』で感じ取れること。かつ、敷地に入ってから遺体を発見するまで、被害者も刀も『感じ取れていなかった』ことが保証されています。それらを踏まえて当時の狭池氏の行動を検証していきましょう」そこで私は森岡刑事にちらりと視線を送った。「刑事さんが追加で聴取した内容です。15日の午後5時ごろ、狭池氏がこの敷地に訪れた時のこと。まず、先の3名と『だいたい同じ』と見なせるタイミングで敷地に入りました。全員がB棟を選択し、入場。ここから自由行動となり、狭池氏はすぐにB2に上がり、『窓』でA1へ飛びます。そこからA2、A3までいったん上がって、A2を介し、A1に戻ります。つまり、狭池氏はA棟の全部屋を踏破――網羅もうらしたわけです。けれど被害者の姿も見ていないし、刀も感知していない……。そして、彼は『A棟唯一の出入り口』であるA1に居座ったわけですから、敷地は当然のこと、もしB棟に被害者がいたとしても、狭池氏に気づかれずにA棟に入ることはこの時点では出来ません。いわばB棟に閉じ込められていたわけですね。さて、午後11時過ぎになって狭池氏はいったん敷地に出て、それからB棟に入り直しました。そして、B1からB2、B3と昇りましたが、やはり、被害者も刀も感知していません」

 私はそこで少し間を取った。

「ではお訊きします」と再開させる。「もし仮にB棟に被害者が居たとして、A1から敷地経由でB3に上がってくる狭池氏の嗅覚をかいくぐってA棟に渡る方法はありますか? あるとしたら、どのようなパターンが想定できますか?」

「成否を問わず1つだけです」井出ちゃんは美しい声で即答した。21世紀人みたいに『久しぶりの発声で声がかすれる』なんて可愛げはない。「『マップ』を使って狭池氏の現在地を確認しつつ、彼がA1から敷地に出たタイミングで、被害者がB2の窓を使って、A1に飛ぶパターン。ですが、この入れ違い説は『刀』により否定されます」

「刀を持ったまま『窓』は使えない。つまり、B棟にいる被害者が『窓』を使うには、いったん誰かに刀を預けなくてはならない。一方、A1から敷地に出て、B3に上って来た狭池氏は、けれど『同じ空間にある刀の存在を感知していない』わけですから、B棟もしくは敷地で刀を預かったとされる人物は、A2かA3か、あるいは、敷地の外で狭池氏とのニアミスを回避していなければならない理屈になります。ところがA1を経由せずにA2・A3に入る方法がないこと、かつ、狭池氏がA棟の全フロアを見回ったあとにA1に居座ったことから『A2・A3で回避説』は否定。さらに狭池氏が敷地に入ってから、被害者を除く4名全員と顔を合わせていること、かつ、それ以降、彼らが敷地退出したという記録がないことから、『刀を預けられる人物』がいないことが確定。ゆえに狭池氏が15日午後11時過ぎにB棟に来たとき、被害者はまだ敷地外にいたことも、やはり確定します」

 理屈の咀嚼そしゃくのために数秒、間を空けてから、さて――と私は続ける。

「これがどういう意味を成すかというと、関係者6名の敷地への入場日時が決定――いえ、限定された、ということです」井出ちゃんに倣うなら『配置』の限定だ。「最初にヌルマユ氏が敷地に入ったのはそれが定義された11日の正午。その何時間後に彼は敷地を出ましたが、いつ戻ってきたかは不定。数秒後かもしれないし、現時刻から60時間ほど前に狭池氏と会話したというシロ証言があります。その直前かもしれません。いずれにしろ、その再入場が現時刻から72時間以内に行なわれたものなら、今も【TEN】からの通報がなくてもおかしくないわけで、要するに『別殺人』が行なわれ、『別凶器』が生み出された可能性が残ってしまうこととなります」

「困った状況になるわけですね」刑事は苦笑いをしてみせる。

「ええ」私は頷き、『敷地入場順』に話の筋を戻す。「狭池氏の証言およびログによれば、このヌルマユ氏が敷地を出たおよそ4日後に狭池氏たち4名が入場。【エイリアス】により、その時間もほぼ特定されています。次に被害者ですが、先ほどの理屈により、彼の入場はこの4人より以前では決してなく、それ以降だと確定しました。つまり、この敷地が立ち上がった11日正午から、狭池さんたち4名が到着する15日の午後5時まで、敷地に入れた人間はヌルマユさんただ一人となります。そして研究棟にはルールがありました。『3時間無人だと萎む』というルールです。無人状態では3時間で萎んでしまう研究棟が、【TEN】いわく『けれど作られてから一度も萎まなかった』という事実から、11日の午後5時にいったん敷地から出たヌルマユ氏はその3時間以内、遅くとも同日の午後8時前ぐらいには研究棟に戻っていた、ということになります。さて、敷地には登録した6名しか入れないので、ヌルマユ氏が別殺人を起こすためには当然敷地の外でなくてはなりません。そして、彼が外に出ることが出来た下限は11日の午後8時前まで。もし仮にその限界値で別殺人を行なったとしたら、『通報ルール』により、遅くても73時間後の14日の午後9時には官憲に通報が届くはず。ですが、そうですね……、ここは井出先生には申し訳ないけれど、調査の最中、個人的に私はフラボノに確認していました。『彼』曰く『本日4月18日の時点でロラミエ氏以外の他殺体発見の通報はない』と」ただし、先ほど刑事から『現時点で他殺体発見の報告はない』という話を聞かされたわけだから、私の解説の前に、井出ちゃんが気づいてもおかしくはなかった。充分なチャンスはあげたつもりだ。「ともあれ、『別殺人』における【TEN】の通報時刻――その最大下限である14日の午後9時以後をもって、そのような通報はないのですから、少なくともヌルマユ氏は敷地外で誰かを殺害することは出来なかったということになります。よって――」

「百歩譲って『別事件』や『別凶器』が存在したかもしれないけれど」と井出ちゃんが引き継ぐ。「その『別凶器』をこの敷地内に持ち込めることは出来ない。ゆえに『別事件の凶器がストッパーになった説』も否定、ですか……」

「『ヌルマユ氏による』という前提条件が抜けてる」

 と、私が指摘すると――

「え、だって、他にどんな可能性が?」井出ちゃんは驚いてみせる。

 その非難するような彼女のリアクションが可笑しくて、私は吹き出しそうになった。「もう半分答え言ったようなもんだけどね。もちろん、吟見さんとは言わないよ。彼には別凶器を隠しおおせる手段がない。すると残りは――」

「……狭池さん?」自信なさげに彼女は口にする。「……ですか?」

「そう」と私は頷いてみせる。彼がここに来たのは15日の午後5時ごろだから、まだ72時間経っていない。まず『資格』がある。

「狭池氏には――」私は始める。「別凶器をB棟に残しておくことも、それを勝ち残りバトル後に回収することも可能でした。そして、『別凶器』には形状が指定されていません。たとえばこれが糸やヒモ状の物で、犯行はそれを用いた絞殺だったとするなら、吟見氏の遺体発見後、狭池氏はそのヒモのような別凶器をぐるぐる小さく丸めて飲み込んだりすることは可能だったのではないでしょうか? だとしたら、果たして捜査員はそれに気づくでしょうか?」

「おそらく【TEN】に依頼し、狭池氏の身体検査を行なえば発見できたと思われます……」刑事は言う。「ですが、そもそもの話、狭池氏の持ち物検査や身体検査のたぐいは実施していません」

「でしょうね」私は話は引き取る。「少なくとも『身体検査を行なった』という報告を私は聞かされていません。事件にあたった捜査員の方々を弁護するなら、通報どおり――狭池氏の証言どおりにB3で吟見氏の遺体と凶器であるヒタチドウの刀が発見されたこと、それと【エイリアス】聴取によって狭池氏が『吟見殺し』の嫌疑から完璧に外れたことなどもあって、その必要性を感じなかったのでしょう。ただ、これは捜査の怠慢ないし不備と言って差し支えないと思います……。我々が、本来このような捜査手順が適切であったか否かを判定する監査員であることをお忘れなく」と、とってつけたようにクギを刺しておいて、「ですが人権保護の観点からはそこまで責められたものではないと考えます」とも言い添える。官憲の権力が強くなり過ぎるのは、私たち弁護士にとっては歓迎すべきものではない。「そもそも『アナタは今までに人を殺したことはありますか?』などと【エイリアス】に問うことを【TEN】は禁じているので、もし【TEN】に狭池氏の身体検査を依頼しても、断られる可能性は存外高かったと想像します。まあ、私が刑事さんの立場だったら、なんとかして狭池氏が別凶器を所持していなかったか探る方法を考えますが」

「分かった!」突如井出ちゃんが叫んだが、すぐに人形のように(とはいえ24世紀の人形はたいがい動くが)止まってしまった。

「井出先生?」刑事は驚いて、そう聞き返した。

「いえ、分かっただけです、これから確認して……」と井出ちゃんは【プロペ】を呼び出し、操作する。その作業は数秒で終わった。そして私に意味ありげな視線を向けてくる。「……やっぱり」

「なんですか? なにが分かったんですか?」刑事が尋ねる。

「狭池氏が別凶器を所有していたか否か。誰あろう波戸先生が確認しています」

「え?」刑事はまた驚き、「いつの間に……」とこちらを見て軽く吹き出してから、井出ちゃんに「え、え、どこですか?」と彼の行動記録らしい『ノート』を呼び出し、ぱらぱらめくった。

「一度目の【エイリアス】聴取視聴後です」井出ちゃんは拗ねたように口を少し尖らせたが、声色には反映されなかった。「波戸先生が刑事さんに尋ねています。いわく『では、当該敷地および研究棟内から、遺体やら凶器やらすべて運び去ったあとに狭池氏の聴取が行なわれたのですね?』というところ」

 刑事は確認するためか、ええと、と唸りながらノートをめくる。

 羽ばたきのような紙の動きが止まるのを見てか、井出ちゃんが続ける。「その問いに対し、他ならぬ森岡刑事が『はい』と肯定。そこに――」


 宙にぽんっとフラボノが現れる。

「それを【TEN】は『正しい』と認めます」と状況を再現してくれた。


 【エイリアス】を用いた聴取を受ける際、被験者である狭池氏は当然『研究棟内』に居た。

 けれどその聴取が開始されるよりも前の段階で『研究棟内に存在する凶器は《すべて》運び去った』と【TEN】が断言したわけだから、棟内にまだ滞在していた狭池は『別凶器』など所持していなかったことになる。


 念のためにまとめるが、B棟にストッパとして置いておいた『別凶器』を、狭池は回収こそできるが、『事件発覚後』に彼は一度も棟の外には出ていないという『事実』から、『別凶器』を研究棟の外へと隠すことが出来ないという理屈になる。狭池がどこかで使った『別凶器』が存在するなら、それはいくら【マシン】を使用しても遠隔移動も破壊や消滅も許されないから、棟内か肌身離さず持っていなくてはならないのに、前述のとおり、そんなものは無かった――と【TEN】が太鼓判を押してくれたわけだ。


 蛇足だが、もし被害者である吟見が『別殺人』を起こしていた場合、警察の目をかいくぐり『別凶器』を隠せおおせる場所は、狭池同様『自身の服の中か体内』くらいしかない。ところが『凶器は当該殺人実行者にしか持ち運べない』というルールにより、別凶器を隠した持った吟見の遺体を他者が動かすことは禁じられる(実際には、吟見の身体や衣服のどこかに絶対に動かないめちゃくちゃ重く硬い部分があって、結果として遺体の位置を動かせない、という感じか)。けれど、実際そんな奇妙ことは起こらず、無事官憲は遺体を搬送できたわけだから、諸々遡って、吟見は別殺人を起こしていない、という結びになる。


 これで『本案件に関連する別凶器』の存在が否定された。

 事件当日、B棟の膨らみを防ぐ因子となりうるのは、被害者のみ。

 

 以上を踏まえると、冒頭、井出ちゃんが示したように『被害者は、勝ち残りバトル終了後にA3に上がった』ことが確定。

 ゆえに、それを殺害できるのはヤマタナダだけと限定された。

 

「とりあえず私が考えられるのはここまで」『貴方』の気配をほとんど感じられないことを逆に自信にして、私は断言する。「ここまで検討したら『可』だったね。簡単な事件だったし」


※事件捜査編の続き――エピローグは34話から、となります。

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