必中のクロスボウ その3
街の人間は娯楽に飢えていた。通りに下りるのに時間がかかったので、ランスがカイヤ組を名乗って決闘を申し込んだのを聞いた人が集まって歓声が湧いていた。やーれ、やーれというコールが起こっていた。誰が何をやれというのか。
オーニングの下は食事のテーブルで客も何人かいたが落ちる前に避難していて実害はオーニングの支柱くらいだった。料理を手に持って避難していた。文句を言ってくる客も店員もいなかった。
入った建物はレストランで、ランスが屋上はどっちだと聞くとウエイトレスが2階に上がって左の窓の外とぶっきらぼうに言った。2階に上がってその通りに進むと窓の外がベランダになっていて、そこに梯子か付いていた。そして妙な展開だったがレストランの客らしき男達が列を作り、その梯子で屋上に上がっていたのでそこに並ぶことになった。ランスを見て梯子に手を掛けていない列の後ろは彼に譲った。梯子を登っていた男は下を見てランスを見るとペースを上げた。ランスの横にいた客が、カイヤ組が行くぞと声を上げた。
屋上からの不意打ちを警戒する雰囲気ではなかった。そのまま前の男に続いて屋上に上がると、手にジョッキを持った野次馬が数人と、服がボロボロで屋上生活者だと一目で分かる格好の男達がいて、梯子を登って顔を出したランスのことを全員が見ていた。そして男達の輪の中心にクロスボウを床に向けた状態で突っ立っている背の低い男がいた。
ランスは拳闘試合にリングインする闘士よろしく梯子の上から軽くジャンプして屋上に踊り出た。
屋上にいた男たちがわーっという歓声と共に手を叩いた。レストランの屋上だけでなく、周囲の建物の屋上にも人が上がってきていた。
明かりは少ないがシュリフィールの姿は見えた。短髪の黒髪、裾のゆったりした黒いズボンに黒の短衣。シャツは白ではないが黒でもない暗い色だ。身長が14歳のランスより低い。肌や目の色は分からなかった。クロスボウ以外には刃物がなく丸腰に見えた。腰に何も差していない。年齢は30代に見えた。
屋上に上がってきた周囲の野次馬たちをちらちらと見て落ち着かなさそうにしていた。
「どうすんだ、こら。素手でやるのか?」ランスは言った。「武器がねえなら貸してやるぞ」
「俺の武器はこれだけだ」シュリフィールは言った。「これが外れたら俺の負けだ」
互いの距離は10メートルもない。外すような距離ではない。矢を見切れるような距離もない。そもそも明かりもない。急所に当たるかどうかの話でしかなかった。
ランスは服の下に胸当てを装備していた。無意識にその胸を手で撫でてしまい、ランスは自分で自分の失態に気づいて舌打ちした。
「よし」ランスはその場で近づかずに両手を広げて腰を落とした。左右どちらにも飛べるようにする。「射ってみろ。外したら次の矢は射たせねえ」
うおおおおと野次馬が湧いた。
ランスは振り返らなかったが、後ろから聞こえる物音で人が次々に屋上に上がってきているのは分かった。注目されて顔が紅潮して口元がニヤつくのを抑えられなかった。落ち着かないふわふわした気分だ。
まだ少年の駆け出し冒険者にいい年した大人が飛び道具を向けようとしている絵面なのでどちらが卑怯者か分かりやすい。
シュリフィールが手に持ったクロスボウに次の矢は装填されていた。それを持ち上げてランスに向けるとランスの後ろにいる野次馬は左右に散り、他の野次馬の興奮は最高潮に達した。
構えたシュリフィールはクロスボウを扱い慣れている様子がなかった。重さに引かれて体がふらついていた。表情にも覚悟が見えなかった。そして構えておいて、どういうわけか躊躇してまた構えを解いてクロスボウを床に向けた。
ランスは一気に距離を詰めた。あとになって考えると、急に動くよりゆっくり近づいた方が安全だったかもしれない。しかしその時は勝機を見つけて素早く動くことしか頭になかった。
距離を詰められたシュリフィールは慌ててクロスボウを構え直した。その射線を避けて左に飛ぶと、そのままランスは肩から相手に体当たりをした。シュリフィールは吹っ飛んだ。手からクロスボウが離れて空に飛んだ。あっというまに勝負がついた。
野次馬がうおおおと歓声を上げた。倒れたシュリフィールの周りにいた野次馬たちは訓練された兵隊のように迷いなく彼を押さえつけた。何人かが押さえつけられた彼にストレス発散とばかりに殴る蹴るの暴行を加え始めた。お咎めなしなのを分かっている市民の遊びだった。ランスは好きにさせた。「殺すなよ」とだけ言った。「聞きたいこともあるからな」あまりその注意が届いたようには見えず、野次馬の暴行の勢いは変わらなかった。子供のランスに言うことを聞かせるほどの迫力はない。
蹴られているシュリフィールを見ながらランスは顎に手を当てた。カイヤ組に恨みがあるにしても囮を使うのは手が込んでいる。そのくせ相手の目を見ると殺すのを躊躇したりで暗殺者にしては不慣れだ。カイヤ組の高いみかじめ料とその割に不真面目な仕事ぶりには不満を溜めている人間も多く、かっとなった奴が殴りかかってくるというのはよくある。しかし狙撃暗殺となると話は別だ。本職ではない冒険者か何かが、どういう理由かカイヤ組に手を出してきたというところだろうか。恨みでないなら金だろう。
ランスは人混みにまぎれながら屋上の並ぶ周囲を見回した。他にもいるかもしれないが暗くて分からなかった。とりあえずまだ仲間がいるかもしれないと考えることにした。多人数で夜の狙撃作戦など不自然なのでありえないが用心に越したことはない。
できればこの場を離れたかった。しかしカイヤ組の誰かが来るまで待たないとまずいだろう。ランスは飛んでいって屋上の床に落ちたはずのクロスボウの方を見た。どこにもなかった。誰かが持ち去ってしまっていた。
ランスは腰を下ろし、ボコボコと殴られみるみる顔を腫らしていくシュリフィールを見ていた。鼻血が出て目の周りが紫になった頃に野次馬の暴行が止まった。死なない手加減はみんな分かっていた。そして屋上にカイヤ組の先輩が現れた。通りでクロスボウの狙撃を受けた先輩とは別の冒険者だった。見覚えはなく、名前も分からなかった。
「うちに喧嘩を売ってきた馬鹿ってのはどこのどいつだ?」
「そこにいます」ランスは言った。「囮も向こうにいます」
冒険者はランスの言った囮のいる方をちらっと見て、すぐにシュリフィールに顔を戻した。「こいつはなんだ? 鉄芯会か?」
「まだ口を割っていません」
「へっへっへっ。そうか」先輩冒険者は心底嬉しそうに笑顔を浮かべた。「お前の手柄だからな。拷問はお前にやらせてやるぞ。名前はなんていうんだ?」
「ランスンスです」ランスは言った。
「ランスンスか。好きに痛めつけていいぞ」
返事に困る言葉だった。拷問をやりたいわけではないが拷問が苦手な優しい人間だと思われると冒険者ギルドの中ではやりにくくなる。やりたくなくても任せてくださいと請け負うのが正解だった。間違えて殺してしまってもそこはあまり問題にならない。やるときは拷問もやる人間だと認められないといけないのだ。
ここにランスの矛盾があった。人に命令されるのが嫌でやりたくないことをやらされるのが嫌で冒険者になったのにやりたくない拷問を自分の意思でやる選択をしてしまう。ナメられないためにはみんなが見ている前で拷問するのは必要だ。そして14歳のランスにとってナメられない事はやりたくないことをやらない事より大事だった。自分でも気づいていない矛盾だった。
「分かりました」彼はシュリフィールへと近付いた。頭は高速で回転していた。拷問ってどうやるんだ? 殴りつければ依頼主を吐くんだろうか?
なるべくゆっくり、時間をかけて歩いた。しかしシュリフィールとの距離は近かったのですぐに手の届く距離に到達してしまった。頭はパニックを起こしていた。口が乾き、手が震えた。「くそっ」思わず舌打ちが小さく漏れてしまった。借金取りや脅迫で振る舞う先輩を真似るしかなかった。
ランスはシュリフィールの黒髪を掴んで顔をぐいっと上げた。「おい、ナメなよ」
シュリフィールはランスの顔に唾を吐いてきた。唾はランスの顔にかかり、彼は思わず目を閉じた。顔に唾を吐かれるのは初めてだった。そして初めてだったのでシンプルに激昂してしまい、髪を掴んだシュリフィールの頭を屋上の床に思い切り打ち付けてしまった。反射的な攻撃だった。派手な音がまるでしなかったが、嫌な手応えが伝わってきた。鼻が折れたり歯が折れたり、何か顔のパーツが壊れた感触があった。
シュリフィールの頭を離さないようにして、反対の手で目にかかった唾を拭いた。生々しい不快な臭いが鼻を突いた。
おー、と見学していたカイヤ組の先輩が声を掛けてきた。偉そうだけど誰なんだよお前は。ランスは思った。
「お前は誰なんだよ」ランスは言った。
シュリフィールは鼻血を流して喋りにくそうに言った。「カイヤに伝えろ。地獄に落ちろと。ビリオン中の人間がお前を狙ってると」
「鉄芯会だって狙われてる」ランスは言った。
「よしよし。そこまでだ」後ろからカイヤ組の先輩が声をかけてきた。
ランス自身に自覚はなかったが、子供がどんなに拷問しても迫力がなかった。見守っていたカイヤ組の先輩——名前はバリスラーンボジヘ——はすぐにこりゃ駄目だと見切りをつけて割って入ったのだった。「まだ早かったな。あとは俺たちがやる」
先輩はそう言ってランスをシュリフィールから離した。そういう扱いをされるとやりたくなかったのにムキになってしまう。「やれます。大丈夫です」
「いや、いい。向こうに行ってろ」
取り付く島もなく、ランスは拷問の蚊帳の外に置かれた。
先輩はしばらく痛めつけていたが、ランスの見ている前で面目が立たないと思ったのか、尋問に焦りが出るようになった。そこでランスはいたたまれなくなって、「ちょっと顔を洗ってきます」と言ってその場を立ち去ることにした。
また梯子を下り、2階のベランダからレストランに入って、通りに出た。野次馬と共に見覚えのあるカイヤ組の人間も何人か集まってきていた。話し掛けられたりはしなかった。
ランスはレストランの屋上を見上げた。もちろん縁に立っている人間の背中くらいしか見えなかった。
宿に向かうためにその場を離れた。寝るつもりではない。銀の手斧亭から離れた場所の店で、この抗争の話を聞きたかった。