必中のクロスボウ その2
人間同士が揉み合っている気配は暗くても音で分かった。暴れている誰かを複数人で押さえようとしている。衣擦れの音と靴が屋上を打つ小さな低い音の中に、固い木の塊のゴツッという音が混じっていた。ランスはクロスボウが床にぶつかる音だと判断した。
ランスは音のする方へ寄ったが、誰を蹴ってよいのか暗くて分からなかった。4人か5人は揉み合っている。呻き声は聞こえるが、離せだのちくしょうだのといった罵倒を言わないので見つけにくい。揉み合いに参加する気にはなれなかった。そのうち屋上生活者の1人が狙撃手の腕を取って別の1人が別の腕に抱き付いたので身動きが取れなくなりおとなしくなった。ランスは、「よし。よくやった」と年少の雰囲気の残る高い声で言い、落ちているクロスボウを遠くに蹴ってから自分も狙撃手の上に乗って押さえつけた。
押さえつけられた男はやっと、「くそ、離せ」と言った。
これだけの状況証拠があればこの男の命は助からない。この数ヶ月でランスもカイヤ組に手を出してきた人間がどうなるかは見てきた。「全員、離すなよ。報酬は約束する」ランスは男の体にできるだけ体重がかかるようにのしかかりながら言った。屋上生活者のそれぞれも、狙撃手の両腕、両足、胴、首にそれぞれ乗っていて、押さえつけてからちゃっかり参加した者も含めると7,8人が参加していた。
ちなみに水が豊富なビリオンなので屋上生活者との密着といえど臭いはそこまで酷くない。
屋上に転がっているクロスボウに近づく屋上生活者の影が見えたので、ランスは、「それには触れるな!」と言った。盗もうとした屋上生活者はビクっとして慌ててクロスボウから離れた。
1人で対応していて徐々に不安になってきた頃に、建物の屋上にひょっこりと顔が現れた。路上にいたカイヤ組の面々だった。「お、ちゃんと押さえたか」2人の男が屋上に上がってきた。
よっこいせと上がってくるときに漂う雰囲気で、2人の男がこの場で狙撃手を殺すつもりなのが分かった。こういうのは雰囲気で分かる。ランスだけでなく野次馬の屋上生活者たちもこのあとの展開を理解した。取り抑えていた屋上生活者たちの力が抜けて、1人また1人と狙撃手から離れていった。ランスはどかなかった。狙撃手もランス1人なら振り落とすことができたはずだが何もしなかった。じっと屋上に俯せになっていた。
カイヤ組の1人がナイフを抜いた。刺してから尋問するのか尋問してから刺すのか、どっちなんだろうとランスがそれを見て思ったとき、その先輩の目に短いクロスボウの矢が音も無く突き刺さった。クロスボウの矢だと分かるのは矢が短すぎたからだ。ほとんど尾羽までめり込んで右目に羽が生えたようになった。「う」と先輩は呻いて手に持ったナイフを落とすと自分の目を押さえて蹲まった。
もう1人の先輩が姿勢を低くした。
ランスは矢の飛んできた方向を見ようと振り返った。暗い屋上の凹凸が視界に広がっているだけで、クロスボウを構えた人影は見えなかった。ランスは伏せて構えているのだと思って目をこらした。それから判断が遅れたが慌てて狙撃手の上から離れて屋上の床に転がって伏せた。
顔を上げたとき、偶然も手伝って矢が飛ぶ不思議なシルエットを見た。ビリオンの街は松明や魔法の明かりで通りが照らされている。屋上はそれらの下からの明かりに照らされて空に向かって徐々に暗くなっている。ランスが見たのは通常より遅いクロスボウの矢が横方向に視界を過ぎていく姿だった。下からの光を受けて白くなり、建物の上を通るときにはふっと黒くなる。そして目で追えるほどゆっくりと、まるで海岸線を飛ぶ海鳥のように優雅にカーブを描いてこちらに飛んできた。実力行使で庇えるほどの時間の余裕はなかったので、ランスは半分間に合わないと覚悟しながら、「伏せろ!」と言った。
膝を曲げていた先輩はそこから更に低くなるために屋上に身を投げ出した。頭のあった位置——矢は正確に背後から先輩の首を狙って飛んできていた——を通りすぎた矢はそこからまた方向を滑らかに変えて、上に誰も乗っていない狙撃手の首に刺さった。狙撃手はびっくりした顔になって口を大きく開いた。その口から血が大量に溢れた。何も声が出せないようだった。喉に刺さった矢を掻き毟ったかと思うとゴボゴボと咳をして倒れて滅茶苦茶に暴れた。そしてすぐに動かなくなった。たくさんの血が屋上に血溜まりを作った。
何かの魔法だな。ランスは思った。矢が追尾のような飛行をするが速度はそんなにない。
目撃した矢はぐるっと回り込むような軌道を描いていたのを思い出し、なんとなく発射地点を予想した方に顔を向けると、まさにクロスボウを構えた人影が1ブロック向こうの屋上で動いていた。ブロックが違うので屋上伝いに直接は行けない場所だ。距離では30メートルもない。間には家が1軒と大通りがあるだけだ。
ランスは指を差し、「あそこです」と言った。
先輩もそちらを見た。「野郎ぉ」
屋上の黒い人影はクロスボウに矢を装填する動作をしていた。下に向けて鐙を踏んで弦を引っ張り上げる仕草だ。遠目だがあまり力を入れているように見えなかった。簡単に引いてすぐに矢をレールに落としている。通常のクロスボウなら両手で弦を掴んで(背筋測定のように)歯軋りしながら全力で引っ張り上げるか、専用の歯車式の巻き上げ機を使うくらい弦を張る。矢が短いから尚更だ。そういう雰囲気がまるでないのが気になった。普通の装填の半分くらいしか力を使っていない。普通に考えればその人影が軽々と弦を引けるとんでもない怪力の持ち主でない限りスカスカのビヨンビヨンで5メートルも矢は飛ばないだろう。
ランスは落ちているのを盗まれるのを防いだクロスボウに近付いた。そちらのサイズは普通で肩幅くらいの弓に長いレールが付いている。射とうと思ったが矢が無かった。
装填を終えた人影がこちらにクロスボウを構えた。
ランスは慌てて屋上に這いつくばった。
人影は小柄な男のようだった。背が低いが身のこなしの印象から子供ではないとランスは判断した。髪を短く刈っているのがシルエットからでも分かった。金属の反射光は見えない。黒ずくめの格好をした暗殺者とみて間違いなさそうだ。
ここでじっと身を隠していてもしょうがない。
「おらぁ、かかってこいやあぁ」ランスは慣れてない怒声を発して立ち上がった。わざと胸を張って挑発する。
人影はクロスボウをこちらに向けた。ランスは射るかどうかを見守らずに隣の建物に飛び移った。これで間にあるのは幅10メートルほどの通りだけになる。
賭けに勝った。
飛び移っても人影はクロスボウを構えたままだった。「どうした、こらぁ。射って来いやあ」屋上をずんずんと進んで距離を詰める。
こっちにも屋上生活者がいて、ランスが通ると怯えたように転がって道を開けた。
通りを挟んで向かい合った。
相手の顔は見えなかった。シルエットがクロスボウを構えた格好のままじっと動かない。
ランスはちらっと下を見た。通りには店が通りに張り出したオーニングがあった。屋上からその上に下りれば怪我をしないでも済むかもしれない。その下に何があるか分からないが夜だから飯屋か酒屋のテーブルのはずだ。武器屋や金物屋ではないはずだ。
すぐに視線を戻した。
人影はこちらにじっと狙いをつけている。
「俺はカイヤ組のランス・ガードだ。お前は誰だ!」
ランスが言うと通りを歩いていた人が足を止めて見上げた。
人影はクロスボウを構えたままだった。
「こそこそして名も名乗れない卑怯者か!」ランスの声にはまだ14歳のあどけなさが残っていた。
人影は構えを解き、クロスボウを下に向けた。「ふざけるな。俺の名前はシュリフィール・デック・フィーラー。カイヤに伝えろ。絶対に殺すと」
相手の声は震えていた。子供ではなく成人男性の声だった。暗殺者らしくなかった。切迫感というか必死さがあった。
ランスは言った。「怖くないなら下りてこい。そこの通りで1対1で決着をつけようじゃねえか」
シルエットだけだがシュリフィールとかいう男が怯んだのは分かりやすく伝わった。これなら途中で射たれる心配はない。
「待ってろ。俺がそっちに行く」
ランスは身を乗り出すと、オーニングのある壁の屋上に両手を掛けてぶら下がり、あまり時間をかけずに覚悟を決めて飛び降りた。通りで見ていた市民がわあと声を上げた。ばきっどかっという音がしたがランスは無事に通りに転がり、立ち上がるとシュリフィールのいる建物の中に飛び込んだ。