人生は恋愛ごとだけではない
好きです、と言われたのは数日前の事だ。
訪問先からの帰りが遅くなり、車で自宅まで送ってもらうことになった。恐縮をしつつも深夜近くに1人で帰る危険性を天秤に掛け、ありがたく甘えさせてもらったのだ。
車を降りようとした時、話があると言われた。このタイミングで上司から言われる事など、良い事だとは思えなかった。4月から異動になるのか。はたまた、本社からの呼び出しか。良からぬ想像ばかりしていたところに、「あなたの事が好きなんです。付き合ってくれませんか」と言われたのだ。
一瞬、何を言われているのかわからなかった。目睫の間には爽やかに微笑む自分の上司である男がいるだけだ。次第に事態を把握すると、思わず眉を寄せてしまっていた。
「返事は急ぎません。だから、じっくり考えてくれると嬉しい」
そう言われた後の事は、あまり定かではない。ただ、マンションの部屋に帰り、ソファに腰を下ろしたところでどんどんと現実味が帯び、頭を抱えたのが数日前の事だ。
男は上司であり、この会社の若きリーダーの1人であった。確か年齢は30代前半。だが問題はその見た目だろう。経済誌に顔が載った時から、一部ではかなりの有名人となった。つまり、とても容姿が良いのだ。高身長であり姿勢が良いからか、かなりの身長差を感じたこともある。綺麗に整えられた短髪に、眉にかかる長さの前髪。優しげに少しだけ垂れたブラウンの瞳と、スッと通った鼻筋からも分かる通り、男はハーフだった。確か、母親がヨーロッパの生まれのはずだ。やわらかな物腰と、丁寧な口調、少し低めの声は、さらに男の印象をよくしていた。
微笑みかけられたならば、多くの女性は心が傾くだろう。だがいかんせん、相手は上司だ。それに、これまで自分はこの上司を尊敬すべき人物であるとは思っていたが、異性として意識したことなどなかったのだ。
ふぅ、と息を吐き出し天を仰ぐ。
オフィスの休憩室は文字通り憩いの場だ。静かで美味しいコーヒーと軽食もある。こうして、思考を整理するには良い環境だ。
考えなくてはいけない事は他にもある。人は、恋愛ごとだけで生きてはいけないのだ。
営業という職業が自分には向いているらしく、向上心が強い故、こうして社内でもトップに近い成績を叩き出している。だが敵も多い。未だ、女性である事が足を引っ張る社会だ。
もっと効率的に出来る方法があるにも関わらず、やらない。できない。そんな奴らを相手に、どう共闘しろというのか。
いくつかの案件が頭の中に思い浮かぶ。先が思いやられる、と手にしていたコーヒーを煽った時だった。
つと視界に入った長身に、どきりとする。同じオフィスにいるのだ。いつ顔を合わせてもおかしくはない。何せ相手は、上司だ。
恐る恐る、だが確かめるように視線を向ける。果たして、そこにはーーーー。
「…なんだ?」
予想に反して不機嫌な声が聞こえてきた。そこにいたのは、かの上司ではなかったが見知った男だった。数年先に入社をしていた先輩で、互いに切磋琢磨してきたのだが特に仲が良いわけではない。何せ、この男とはここ数年ずっと、営業成績を争っているのだ。仕事の価値観がどうにも合わず、何度もぶつかり合っていた。
「いえ、別に」
あの上司かと思った。そんな事は口が裂けても言えない。何せ、この男とあの上司は犬猿の仲だ。無論こちらも上司と部下の関係性ではあるが、どうにも性格が合わないらしく、表面上は大人の付き合い方をしているようだが、あまり良い話は聞かない。
男の切れ長な瞳がこちらを見ていた。疲労が溜まっているのだろう目つきがあまりよくないが、それは縁のないメガネで少しだけ緩和されている。もう少しその険しい表情を変えれば、単なるイケメンになるはずだ。冷静でいて淡々と仕事を進める一面と、がむしゃらにやってのける一面を併せ持つような男だ。顧客の一部からはそのギャップが好まれている。
あの秀麗な上司が柔らかな雰囲気で的確に物事を言い当てるとするならば、この男はやや熱をもった瞳で思考をしてみろと宣うだろう。
すると、突然男はこちらに向かって手を出してきた。何事かと思うが、長い指の先には飴玉があった。
「…お前、疲れてるだろ」
「ーーーーーー……」
それはそうだろう。仕事でも考えるべき事が多いのに、あの眉目秀麗な上司の事も考えなくてはいけないのだ。
どうやら糖分を分けてくれるらしい。
「ありがとうございます」
あまり見た事がない飴玉だ。外側の紙はカラフルで、恐らく海外のものだ。きっととても甘いに違いない。はて、この男は甘党だったか。そういえば帰国子女だった。
カラフルな紙の中には原色の飴玉があった。口に含むと、甘さがすぐに広がる。海外のものにしては、それほど味が強烈ではない事に安堵した。
「なぁ、ちょっと話したい事があるんだけど…いいか?」
普段、仕事以外ではそれほど話さない男が、珍しい。男は隣の椅子に腰をかけた。
「はい。なんですか?」
自分と関係のない話を聞く事は、時に頭の中を整理する術になる。ちょうど良いとは言えないかもしれないが、男の話を聞いている時は、悩むべき問題が頭から消えるはずだ。
「俺たち、付き合わないか?」
「ーーーーーー…………」
いな、消えるはずだった。
吸い込んだ息を吐き出す事が出来ない。つい、傍にいる男の顔を凝視する。やはり綺麗な造作をしている。あの上司とは違う美形だ。目にかかる前髪が影を落とす。こちらを見る真摯な瞳が、どこか寂しげに感じられるのは整いすぎているからだろう。
「……付き合うって…」
「男と女として」
それはそうだろう。だが、これまでそんなそぶりどころか、仕事以外のことをしっかりと話した事もない。付き合うという言葉が出てくるほどの仲でもないはずだ。それなのにそんな言葉が出てくるという事は、
「好きなんだ」
そういう事だ。
先日も言われたのだ。他の男に。この短期間で2人の男からもらった言葉だ。かの上司と、この先達。
だがやはり、この男のことも異性として意識をした事はなかった。
「ーーーーーー……」
何も返答できず、つい端正ともいえる顔を凝視していると、男は苦笑のような小さな笑みを見せた。
「急に悪かったな。返事はすぐじゃなくていいから」
待ってる。そう付け加えると男は椅子から立ち上がった。同時にふわりと柑橘系の香りが鼻腔をつく。男のコロンの香りだと気がつきそのまま視線で追うと、ちょうど壁の向こうに違う影をとらえた。
ぎくり、とした。
この位置関係からして、恐らく今ここで行われていた会話は筒抜けだっただろう。
盗み聞きとまでは言わないが、たまたま居合わせ聞いてしまった可能性が高い。
「もしかして、お邪魔だったかな」
低く、柔らかな声。それは先日、自分に向かい「好きです」と言った声と同じ。そこには、かの上司がいた。
明らかに不遜な表情をしてみせたのは、もう1人だ。きっと彼も気がついている。先程の会話を全部聞かれていたことに。
「ーーーーいえ、別に」
男はそう言いこの場を離れようとする。その時だった。
「奇遇だな。俺もこの間、彼女に告白をしたんですよ」
笑顔で件の上司がとんでもない爆弾発言をする。すれ違う2人の間で、爽やかさと、不遜さが目の前でぶつかり合っていた。これはいたたまれない、どころの話ではない。
「そうですか。それは奇遇ですね」
先達は口の端をあげ、メガネを中指で押し上げた。
「でも、まだ返事はもらってないんでしょ?」
楽しげにそう続ける。
「なら、俺が遠慮する義理はないですね」
「う〜ん…そうだねぇ。確かに、まだ返事は頂いていないので、そういうことになりますね」
上司はわざとらしく首を傾げると、苦笑をした。
2人の目がこちらを見る。
爽やかな笑みを浮かべるブラウンの瞳を持つ上司と、口の端を上げるメガネ越しの切れ長の先達。どちらもとても綺麗な目をしている。客観的にこれらを見る分には問題ない。だがその瞳はある種の熱を含み、こちらを見ているのだ。
「取り敢えず俺は、今夜食事に誘いたいんだけど」
「じゃあ俺とは、明日の夜はどうですか?」
考えなくてはいけない。
自分は本当に、難しい問題と直面している。無論、人生は恋愛ごとだけを考えていれば良いわけではない。
だが、今は。
今だけはーーーーーー考えなくてはいけない。
自分の、恋のことを。
了