3-2
日が傾きかけた午後、弥の部屋に2人はいた。
豹変した弥は澪と共に下校した。学校が救急車を呼ぼうとするのを拒否し、二人は病院へは行かずまっすぐ弥の家へ行き、部屋で無言のまま見つめ合っている。
壁際に寄せているベッドに腰掛けた弥。勉強机の椅子に座った澪がその正面にいる。澪は親指を中に入れて両手の指を猫のように丸めて膝の上に載せている。
沈黙が部屋を支配している。その中、まっすぐに弥を見ている澪の瞳は真剣だ。
『少し気まずい。』弥は尻の据わりが悪い思いだった。本来なら姿の豹変した弥のほうが取り乱してておかしくないのだが左頬に受けた痛みが心の鎮静剤となっているようだ。
澪がようやく口を開いた。
「全部、話して」
弥は無言で澪の瞳を見つめたまま。話してと言われても何を話せばいいのか分からなかった。弥には妙にリアルな夢を見ていることしか話せることがない。そして今日どうしたことか夢で見た少年に変化するという不可思議なことが身に起こった。まるで今自分が夢の中にいるようだった。
すると澪が弥を見つめたまま言った。
「私、最近変な夢を見るの。」
弥はぴくりとかすかに反応した。澪の唇に注目する。次にどんな言葉が流れてくるのか。
「どこだか分からないけど、暗くて、寒くて、石でできた部屋、冷たい床と壁だけで他に何もないところに独りでいるの。」
「声を出そうとしても出ない。なんでそんなとこへ来たのかも分からない。淋しくて、心細くて、」
「誰かの名前を呼んでいるんだけど声にならないから全然分からない。」
弥の口からジャンティの記憶が流れてきた。
「そこリーミンがいた部屋だ。」
「え?」目を丸くする澪。
「遠い北の果てに『魔』の城があってそこにアデナで消えたリーミンが閉じ込められていた。」
「それも夢で見たの?」
「いや、そんなのは見てない。けど、なぜかわかる。どうしてだろう。」
自分でも不可解で謎が解けない弥に澪は恐る恐る問いかけた。
「あ、あなたが、ジャンティとかいう人だから?」
「俺は弥だ。ジャンティじゃない。」
否定する弥に澪はこう告げた。
「でも、夢の中の私には、どんなに怖くても必ず『彼』が来てくれるという期待が心の中にあるの。」
『彼』という一言に弥は心をえぐられるような感覚を覚えた。まるで失恋したときのような悲しみしかない感覚だ。
ダークブロンドの髪をした弥をまっすぐに見つめながら、澪は言葉を繋ぎ続ける。
「今朝まではその『彼』が誰だか分からなかったけど、今は分かる。」
「あなたなの。ジャンティ。」
弥は困惑した。自分は自分であってジャンティなどではない。でも今の姿は毎日鏡で見る自分ではない。夢の中で見た少年そのものだ。
夢の中ではリーミンがどうなっているのかまだ分かっていない。にもかかわらず澪の話した夢の部屋はリーミンが幽閉されていた場所だと断言できてしまうのだ。理由は分からない、ただそう記憶しているとしかいいようがない。何一つまともに説明できない。
澪は目の前にいる少年が自分の好きな弥であって欲しいと願いつつ、姿は夢の中で待つ『彼』であることに心で反発していた。悪い夢なら早く覚めて欲しいと願った。
目の前にある顔を見て涙ぐむ。
弥はそんな澪の手を握り落ち着かせようとする。
弥は澪の手を握りながらじっと彼女の瞳を見つめて、
「夏休みになったら俺、北海巨島へ行ってくる。」そう告げた。
「北の果てといえば北海巨島かもしれない。よく分からないけど、そこに行けば何か分かる気がする。」
「でも、どうやって?旅費は?」
「リゾートで住み込みのバイトする。」
「バイトなら夏休みの間ずっと向こうにいられるし、お金も稼げる。それであちこち回ってみるよ。」
弥は我ながら上手いことを考えたものだと内心自負した。それを聞いた澪は、
「なら私も行く!一緒にバイトする。2人でならできることが増えるでしょ。」
澪の顔に笑みが戻ってきた。
「えっ、でも?」
「大丈夫!」澪は二つ返事だ。
「だって俺たち高校生だし、その、バイトとはいえ、2人だけでってのは・・・」
弥はなにやら妄想してしまったらしい。
澪はそれを察して頬を上気させた。
「婚前旅行じゃないのよ、ばか!」
「そういうことは高校を卒業するまで無しなんだからねっ!」
弥はベッドから腰を浮かして「卒業したらいいの?!」鼻の下が伸びている。今まで尋常ではない状況に2人で落ち込んでいたとは思えない顔だ。
澪は顔を真っ赤にしてごにょごにょと弥に聞こえるか聞こえないかの声で、
「卒業したら私たち成人だし、大人なんだから、それくらい・・・」
俯いて膝をもじもじさせていたかと思うと、
「ばか!!」
澪のねこぱんちが弥の顔面に炸裂した。
弥はうしろにのけぞり壁に頭をしたたかにぶつけた。目の前にチカチカと光る小さな天使たちがラッパを吹きながら8の字を描いて飛んでいるのを見た。
澪はそれを見て真顔に戻り、「あ、ごめん!そこまでするつもりじゃ、」と椅子から立ち上がり弥の顔をのぞき込んだ。
「きゃっっ!!」弥の顔を見た澪が小さく叫んだ。
「弥、顔!顔!そうだ鏡、鏡、鏡」自分の鞄から鏡を取り出すと弥の顔を映してみせた。
弥の姿が元に戻っている。目を丸くしてじっと鏡に映る自分を見ている弥。
「弥!」
うれし涙を浮かべて澪は弥を抱きしめた。