厄介な同期
半年の新任研修を終えステラの配属先が決まった。ステラはシエラ本庁舎の7階の会計課という部署に配属された。
会計課にはステラのほかに同期の男爵令嬢バネッサ・ベーレンも配属された。研修中のバネッサは可愛く社交的でAクラスの女子を束ねているようにステラの目には映っていた。
ステラは管理係に、バネッサは出納係に配属された。課内への挨拶が終わるとバネッサは笑顔でステラに近づいてきた。
「シャロンさん、ここでは何事も実力ですから。よろしく」
ステラは悪意には敏感だった。
バネッサの笑顔に最初の婚約者アラン・アルバの母ローラの面影を感じた。ステラは「ご親戚にローラ・アルバという方はいませんか?」と聞く代わりに、「よろしくお願いします」と当たり障りのない挨拶を返した。
ステラはもう侯爵令嬢ではない。貴族のバネッサに関わらないことが最善と判断した。
配属されて数日すると、ステラは奇妙な現象に気づいた。
仕事中、バネッサが近づいてきて挑むように「実力ですから」と意味不明な言葉を吐いて去っていくことが続いた。バネッサが何を言わんとしているのかステラには全く理解できなかった。
バネッサの不可解な言動にステラが辟易していると、「ベーレンさん、私語を慎みなさい。君の上司タイラー係長が探していたよ、早く自席に戻りなさい」とステラの上司フォーレ係長が追い返してくれた。
翌日からバネッサの行動は変化した。
タイラーに仕事を習うことなく離席をくり返し、お茶を淹れて男性事務官にだけそれを配り始めた。
ステラの席の横を通るとき、バネッサは足を止め、ステラの机上を舐めるように見回し「ふぅ〜ん」と言って去っていくようになった。それをはじめて目に耳にしたステラは怯えた。気味が悪く、やめてぇ〜と叫びたくなるのを必死で堪えていた。しかし、周囲はそれに動じない。ステラは、いかなる異様な環境であっても動じずに執務をこなすことこそが、事務官として生き残れるかどうかの分水嶺なのだと結論付けた。
(お給料をもらうって大変なことね。覚悟はしていたけど……仕事内容がどうこう以前だよぉ。なんだぁこの生き物は!! これが同僚、しかも同期!? 動物園に就職した気分! いやっ、動物は可愛い……考えない考えない……)
ステラが事務官として配属され1カ月が経った。
ステラは直属の上司フォーレの下で、黙々と仕事をこなすようになっていた。
バネッサは変わらず、お茶を男性事務官に配り、執務室内をヒラヒラの服で歩き、ステラの席で立ち止まり「ふぅ〜ん」と言いながら首を左右にふる、お練り行動を続けていた。
(あっ、今日もバネッサの独りお練りタイムが来た〜。さっ、私も休憩しよう)
バネッサのお練りにすっかり慣れたステラは、それを休憩時刻の知らせと思うようになっていた。離席しようとするステラに気づいた上司フォーレが声をあげた。
「ベーレン、さん。いい加減に自席について仕事をしてください」
ステラの上司であるフォーレがバネッサの奇行をやっと制した。
遅い! とステラは思った。この1カ月、この状態を放置して今さら注意しても手遅れだと感じた。そして一気に険悪な雰囲気になったこの場からどうやって抜け出せばよいのかをステラは考えはじめた。
注意され一瞬ぽかんとしていたバネッサは、すぐ元に戻った。ここから、フォーレとバネッサの言い合いが始まった。
「ひどぉい〜! 今、バネッサのこと呼び捨てにしようとしたぁ」
「この1カ月何をしているのだ、簡易決裁も仕上げられないと聞いている」
「ひどいっ、私は皆のためにお茶を淹れて、ムードメーカーとし──」
「そんな事務分担は存在しない。書類を扱っているため執務室内は飲食禁止だと何度も言っているだろう。毎日のお茶出しは何のつもりだ! 仕事もせずにお茶を淹れ、それを配り、話術を磨いて何になる!? ここは花嫁学校ではない。社交の必要もない。ベーレンさんの行動は課内でも問題になっている」
フォーレとバネッサの言い合いは止まらず、さすがに周囲も手を止めて成り行きを気にし始めた。
「そんな……シャロンばかり優遇されて、私だってバネッサと呼ばれたいのに……フォーレ係長はシャロンばかり可愛がってる。ずるい!」
(えっ……ここで私の名前が出るの?)
「ベーレンさん、私が部下のシャロンさんに目をかけることの何がおかしいのだ?」
「私だって……私、知ってるのよ。シャロンには家名があるって……それなのにシャロンと名乗って……貴族からも平民からも大事にされてずるいっ!」
(バネッサよ、私の家名がシャロンだよ。配属内示表や事務分担表にステラ・シャロンと記載されていたよね。それに私、呼び捨てにされてる?)
職場という場所で、今までに経験したことのない低次元な会話を目の当たりにしてステラは静観するしかなかった。
「ベーレンさん、何かにつけシャロンさんに難癖をつけるのをやめなさい」
(えっ、私、何かにつけて難癖をつけられていたの?)
「えっ、ずるい。シャロンさんばかりをかばう、同じ新人なのに」
「ベーレンさん、あなたの上司は私ではない」
「えっ、でも……私の上司タイラー係長の上司であるフォーレ係長は私の上司なのに……」
「タイラー係長の上司は私ではない、組織図の見方を習わなかったのか?」
バネッサの直属の上司タイラーは、指導に従わず奇怪な行動を続ける新人バネッサを配属後3日目には見切っていた。そして、タイラーの上司がフォーレというわけでもない。両係長の上司はクレマン会計課長である。分かりやすい組織体系のはずだが、バネッサの変な思い込みは果てしなかった。
(私は、責任ある立場にはなれないなぁ〜、あんな新人を指導・教育するなんて無理だわ。たしかに、フォーレ係長にとってベーレンさんは同じ課なだけでよその子って感じよね、係違うからね。出納係はライン系、私が配属された管理係はスタッフ系……本来組織においてスタッフはラインのためにあるとはいえ……)
ステラはラインとスタッフについて考えはじめたが、2人の言い合いで思考を中断された。
「とにかくシャロンさんばかりずるいっ、訳ありのくせに……」
(ここは、保育所だろうか? 訳ありって何? これ、まだ続くの?)
「シャロンさん、家のことを隠していないよね?」
フォーレの言葉にステラは頷いた。
「ベーレンさん、君はシャロン財閥を知っているか?」
「この国でシャロン財閥を知らないのは子どもぐらいでは?」
バネッサは疑問も持たずに自信ありげにそう答えた。
「では、君は子どもと一緒ということだ」
「えっ!?」
「ベーレンさん、シャロン財閥総帥の一人娘の名はステラと言うのだよ」
「知ってます! シャロン家が展開するステラ計画は有名です」
「その一人娘は今年、この課に配属されてシャロンさんと呼ばれているのだが、同期の失礼な男爵令嬢に絡まれて、時には呼び捨てにされても黙々と仕事をしているよ」
バネッサの顔が歪んだ。
「えっ……う、嘘よっ」
(お〜、嘘ときた。バネッサよ、どの辺が嘘なのかな?)
「だ、だって、貴族学園にシャロン家のご令嬢はいなかったはず」
(いやいや、私、15歳で編入して貴族学園を卒業しているし……逆に、ベーレン男爵令嬢を私は知らないのだけど……)
「ベーレンさん、だから何だというのだ? 貴族全員が貴族学園に通うわけではない。記憶と思い込みで判断するのは危険だ、そういう判断基準は大きなミスにつながるぞ! 配属内示一覧を見直しなさい」
(そうそう、記憶と思い込みで判断するのは確かに危険! それにしても、業務以外でこんな騒ぎを起こして評価を下げかねないのに……)
バネッサを見てなんともいえない気分になったステラは、職場の人間関係は狭く浅くすることが適切だと判断した。
フォーレからのバネッサへの叱責は止まらず、噛み合わない2人の会話は耳障りで、ステラはこの場にいるのが嫌になってきた。
「君は仕事に対しても、同期に対しても著しく礼を欠いている。
それとも、貴族の君は上級市民や平民に何をしても良いと思っているのか? ここはシエラ都庁舎の事務官室であって王宮の夜会ではない。身分に関係なく、仕事をこなせる者が評価される。研修で習っただろう?」
バネッサは周囲の痛い視線に気づき、差し出された事務分担表を手に取り確認した。新規採用者としてステラ・シャロンの名を確認した。
フォーレは下を向いているステラに声をかけた。
「シャロンさん、嫌な思いをさせたね。少し休憩してくれ」
「(やった、解放される)はい。5分したら戻ります」
「ベーレンさん、1カ月にもわたる休憩は終わりだ。仕事に戻りなさい」
「…………」
フォーレの指示に従いステラは庁舎内のカフェに冷たい飲み物を求めて離席し、バネッサはフラフラと自席に戻った。
このあとバネッサは、自席で座っているだけの時間を過ごした。バネッサの頭の中は自分の失態で満たされていた。
(あ~、下位貴族が叶わない侯爵家の出身、今は貴族だけでなく王家までが一目置くシャロン財閥の一人娘だったなんて……。そんなに恵まれていて、なぜ王都事務官採用試験を受けたの?)
自席に戻ったバネッサは仕事をすることができなかった。配属されてから仕事を全くしていなかったため仕事がわからなかった。しかも、配属時に渡された書類もとっくに机上から消えていた。バネッサに教えるよりも全てを被った方が楽だとタイラーが判断した結果だった。バネッサは危機感を持つどころか広くなった机上を喜んだ。
バネッサ・ベーレンは男爵家令嬢だが事務官という道を選んだ。貴族の中では下位とされる男爵位の父は領地を持たない国に所属する文官であった。転勤が多く、ベーレン家は国内を転々としていた。
その転勤先で男爵位を理由に肩身の狭い思いをすることも多かった。王都の事務官になれれば独身寮もあり転居から解放され、爵位による肩身の狭い思いから多少なりとも解放されると考えたバネッサは、王都シエラの事務官職に唯一の希望を見いだし猛勉強の末に採用試験に合格した。
研修クラス分けで成績上位者のクラスに入れなかったバネッサは落胆した。自分とSクラスの女子の差を知りたいと講師に詰め寄ったこともあった。社交を削って猛勉強した自分より勉強に時間をさける貴族令嬢はいないはずと思ったバネッサは、Sクラスのクラリスとシャロンを平民だと思い込んだ。
研修期間中、毎月開催される2クラス合同の課題発表の日。
ステラはリシャールが完璧にした課題を壇上で発表していた。それを見ていたAクラスのバネッサが思わず呟いた。
「平民なのに頭が良いのね」
「君は平民と一緒に働くことを選んだのに何てことを!?」
「レオン、今の発言は……別にそういうことではないのよ……」
同じクラスの子爵家三男のレオンに本心を知られてしまったバネッサは慌てて弁解した。
「バネッサは、シャロンさんのことを平民だと思っているの?」
「違うの?」
「かつての侯爵家の令嬢だよ」
「えっ、貴族学園に侯爵家の令嬢なんていなかったはずよ」
「確か15歳の時に編入してきて──」
(侯爵家の庶子ね。それで、家名を名乗れないのね……少し成績が良かったからって……見てなさい!)
バネッサはレオンの言葉に耳を傾けることはなく、自己承認のためにステラの全てを否定した。
やっとのことで男爵位を保持したベーレン家は庶子を忌み嫌う傾向があった。その影響と変な思い込みだけで理由なくステラを攻撃していたことにバネッサは気づいた。しかし、上級市民や平民を下にみるバネッサにはステラに対する謝罪の気持ちはなかった。
(シャロン財閥と繋がりを持てる機会を逸したというの? 怒っていたのはフォーレ係長だけだ。シャロンさんは何とも思っていないはず。同期なのだから、仲良くしてあげようかしら)
バネッサの思い込みは強く、立ち直りは早かった。
一方、ステラは庁舎内のカフェ・ポラリスに向かい喉を潤し、会計時に次回から使える割引チケットを貰い、嬉々として休憩時間を終えた。
この日、終業の時刻になるとバネッサはステラの席に近寄った。
「シャロンさん。お詫びにお茶でも一緒にどうかしら?」
(なぜ、勝ち誇った感じなの? 悪化している? 危うきに近寄らず!)
「せっかくですが、今日はこのあと用がございまして──」
「私の誘いは受けられないの?」
バネッサのきつい口調は、執務室中に響いた。
「ベーレンさん、シャロンさんは用があると言っているだろう。その態度を改めなさい」
フォーレがバネッサとステラの間に入った。
「私は仲良くなろうと……」
「ここは学園ではない。シャロンさん、先に帰りなさい」
「どうして! フォーレ係長は私の邪魔をするのですか──」
(もう何なの? この人、ヘンよ! この場から、逃げなくては……)
バネッサを足止めしてくれるフォーレの姿が、ステラには幼稚園教諭に見えた。上司って大変ねと思いながら、お先に失礼しますと頭を下げてステラは足早に帰路についた。
ルーティンを大事にするステラは書店を巡ってから帰路の途中にあるカフェ・シャウラへと足を向けた。書店を出たところからその姿をバネッサに尾行されていると気づくことなく。