9話 世界はゴードの都合を気にしない。
9話 世界はゴードの都合を気にしない。
頭の中で念じる。
感情という暴れ馬を、華麗に平伏させる。
ゴードの肉体は、普段の重労働で徹底的に鍛えられているので、荷物持ち程度、体力的な面でいえば造作もない。
精神的な面でも、十年近く下層公務員をやっていたゴードからすれば、この程度、我慢できないことではない。
だが、やはり、思う。
(なんか……死にたくなってきたな)
この世界にきてから、一日に108回は思う。
煩悩など、もはや何もない。
そこらの悟った気になっているだけの僧侶よりも、よほど無欲。
酒が飲みたい? 女を抱きたい?
――どうでもいい。
そんなことよりも楽になりたい。
その切実な懇願だけが、心の底で渦を巻いている。
坊さん連中は『お経』なんかを唱えていないで、寿司屋で働けばいいんだ。
(寿司屋で働く和尚。まさしく生臭坊主! いかんな、本格的に頭がおかしくなってきた)
ゴードは、そこで、頭を振って、
(探せば、もっと劣悪な境遇で生きている者も大勢いる。俺はマシなほう……)
などと必死に自分を慰めるが、いかんせん、このねっとりとした絶望は御しがたく、ここ最近のゴードは真剣に自殺を検討していた。
(死ねば、朝がくるのに怯えなくてすむ。『死ぬほど眠いのに起きなければならない』という地獄から開放される)
本音という悲鳴。
とことん追い込まれると、最終的に人は、大概『死ねばどうにかなるんじゃないだろうか?』と考え始める。
『この閉塞・停滞・苦痛・苦難・絶望から解放されるはずだ』と錯覚しはじめる。
(……あの頃も、似たような事を考えていたっけ)
ゴードはふと過去を思い出す。
十年前。
虚無を始めたばかりの頃――まだまだ弱かったころ、自分より強い者が多数存在していた頃の事を。
(負けるたびにノドが千切れるほど叫んでいたなぁ。ムチャクチャな負け方した直後は、いつも、絶望に包まれて、死にたくなった。今思えば、たかがゲームに、そこまで必死になってどうするんだって普通に思うけど……あの頃は、虚無だけがすべてだったから……)
敗北という苦痛から抜け出す方法はひとつしかなかった。
(強くなること)
より正確に、より完璧に。
すべての技を、すべての動きを、完璧に、完全に、指に、頭に、神経に、細胞に叩きこむ。
(そうして、俺は、神の領域まで上り詰めた。そこまでいけば、理不尽な敗北はなくなった。無知ゆえの『分らん殺し』に慟哭を上げることもなくなった)
たとえ負けても、その敗北を、確かな一歩だと認識できるようになった。
この相手は、自分を倒せるだけの努力を積んだのだと、心底から思えるようなった。
(高次の戦闘では、結果がどうであれ、程度の低い絶望などは感じない。相手の努力を称賛・感嘆できる域にまで昇りつめれば、ボコボコにされても晴れやかな気持ちになれた)
だが、今はどうだ?
(そもそも、寿司職人になりたいわけじゃない。ぶっちゃけ、どうでもいいんだ。旨い寿司が握れようが、握れまいが)
食の世界には、純粋で明確な勝ち負けがあるわけではない。
それが気に入らない。
(味の違いなんて、この世界でも、一部の通しか理解できていない)
ゴードがテキトーに握った寿司と親方が魂を込めて握った寿司の間には、比べるのも失礼な明らかで確定的な差がある。
しかし、その違いを明確に理解できるのは、きわめて敏感な舌を有する一部の特別な人間だけ。
寿司に精通していない大勢の一般人は、恥も外聞もなく、当然のように『どちらも普通に美味しい』という感想を口にする。
味の識別など、特殊な才能を別にすれば、宝石を見極める目と同じで、特別に磨かれた教養の一つでしかない。
(明確じゃないから面白くない。だから、寿司の世界を究めたいとは思わないんだ。やる気がでないんだよ。だから上達なんてする訳がないんだ。――そんなの言い訳にすぎない? 確かにそうだ。だけど、それがなんだ? 俺にやる気と興味を抱かせなかった時点で、そっちの敗北だろ。少なくとも、俺の中ではそうだ。そうじゃない? アホか。手前勝手な価値観を俺に押し付けるなよ)
価値観。
主観。
基準。
グローバルスタンダード。
教養というカテゴリ内で好き勝手なラインを引くのも結構だが、強要はしてくるなよ。
(親方たちが求めている味の極みって、結局、主観の平均値じゃねぇの? そんな、個人単位でも秒単位で移り変わる諸行無常な、言わば世界単位のズレの公約数みたいなもんを、必死に求めて、本当に意味あるか? 意味のあるなしを問うているわけではない? じゃあ、ほんとに、押しつけてくんなよ、その意味のあるなしではない、手前勝手なアベレージなんてもんをよぉ)
「――あなた」
そこで、唐突に、マイが、腐敗したゴミを見る目を向けてきて、
「敗者のにおいがするわ」
「……は?」
「なにも成し遂げられない者のにおいよ」
「……」
「あまり近寄らないでちょうだい。その腐臭をうつされてはたまったものじゃないから」
優雅に、しっしと片手を振りながらそう言って、自分から距離をとるマイの背中を見ながら、ゴードは苦く笑った。
(死にてぇ)
楽になりたいと、魂が叫ぶ。『目の前のクソ生意気な女を殺してやりたい』という負の感情さえ飛び越えて、非生産的でフラット極まりない『魂の安息』のみを求めてしまう。
(末期だな)
溜息をつく。
だからといって世界は止まらない。
世界はゴードの都合を気にしない。