8.元・王女は現役の王女殿下と出会う
それから、リンの生活は一変した。
リンは毎朝四時に起床し、日の出の間を二時間以上かけて掃除する。それから手早く朝食を取り、午前中は三日節で王宮にくる貴族専用の控室のうち二つを掃除する。それから手早く昼食を取り、また貴族専用の控室を一つ掃除する。
それから出来る一時間の休息はロザリーさんの部屋でロザリーさんの止まらないお喋りを聞きながらお菓子を楽しむことに費やし、それが終わったら今度は異様に広い三日節で使う何個もある平民用の控室を四時間かけて掃除する。それから遅くに夕食を食べ、眠りにつく。
この生活は、リンが最初に考えていたよりも大変だった。
確かに、日の出の間から太陽が昇る光景は絶景だった。見ると朝の眠気が吹っ飛ぶくらいの絶景だ。
しかし、今までに比べて睡眠時間は短いから午後は眠くて眠くて仕方ないし、メレーヌとも時間が合わなくて一言も話せないしで、この生活は開始三日でリンの精神を追い詰めていた。
このままでは心が折れてしまう。
それを回避するため、リンは何かポジティブなことを考えることにした。
それは、この仕事を頑張れば給料が上がるということだった。
給料を上げよう、給料を上げよう。給料を上げて、三日節に素敵な物を買うんだ。そして、メレーヌにも何かプレゼントを上げよう。
そう考えることに集中して、リンは挫けそうになりながらも必死に新しい仕事を頑張ることが出来るようになっていた。
そうすると、次第にリンの精神にも何だか余裕が出てきた。緊張も緩和してリラックスしながら掃除を出来るようになったし、最初はとても怖かった警備の人たちも、動かない面白い石像ということで楽しみながら眺めることが出来る境地にまで達した。まあ、何の境地なのかはよく分からないけど。
仕事が始まって一週間がたつと、リンはこの仕事が好きになり始めていた。
しかし、何事もうまくいくと思うと問題が発生するものである。
リンに、大きな問題が発生したのは仕事を始めて一週間と二日目の時だった。
リンがいつもと同じ朝の四時に掃除をしようと日の出の間に入ると、そこには先客がいたのだ。
それは、一人の女の子だった。
日の出を見ているのか、窓から外を眺めていて顔は見えない。でも、後ろ姿だけでとても位の高い人物だということは分かった。
ほっそりとした体には、薄いレースで作られたのさわやかな水色のドレスを纏っている。星を編み込んだような銀色の髪がさらさらと肩に滑り落ち、ピンク色の花だけが髪を装飾していた。今までで一度も、リンは銀色の髪を見たことがない。リンは、その特異さに思わず息を飲み込んだ。
(間違いない、顔は見えないけどあの上品さ加減からいって彼女はよくこの部屋を使うという王女殿下…。あれ、もしかして今日が私の仕事最終日?それか人生最後の日?)
目だけを限界まで開けたまま凍り付いていたリンは、その女の子がくるりと彼女に振り向いたことに更に体を固くした。
天界から舞い降りた天使のような可愛らしい顔立ちをしているその女の子は、リンと目があったことで髪につけてある花と同じ色の瞳をキョトン、と瞬かせた。
「あら、こんにちは?」
「も、申し訳ありません!」
ひっ、バレた!とリンは息を呑みこみ、がばりと90度に頭を下げる。
「そんな、顔をあげて。ごめんね、掃除をする予定なのを私が邪魔してしまったわ。日の出を久しぶりに見たかっただけなの。すぐに出て行くから、気にしないで」
「え、いやっ、」
掃除のために王女殿下を追い出す下働きなんて前代未聞である。
リンは非常に慌てた。
幻聴だけど、リンにはデラニーさんの怒鳴り声がしっかりと聞こえてきていた。それだけではなく、ロザリーさんの甲高い悲鳴も聞こえてきていた。そして“不敬罪だ!”として自分の首がスポーン!と落ちる場面もしっかり想像できていた。
「私が後でここに掃除に来ます!なので王女殿下は存分に部屋をお使いくださいませ!後生ですから!」
「私が王女だって知ってるのね」
「勿論でございます!」
勿論、嘘である。まあ、そんなことはどうでもよかった。
「まあ、王女であっても何であっても関係ないわ。これから二時間はこの部屋は貴女のものよ」
「そ、そんな!王女殿下を追い出す下働きなど、存在していてはなりません!もしそれが知られたら、私も何を言われるか…!」
「私は掃除してもらう側なんだから、気にしなくてもいいのに」
ふふっ、と鈴が鳴るような声を響かせて王女殿下はリンに近づいてきた。そして、ふわりと瞳を緩めて妖精のようにほほ笑みながら、そっとリンを覗き込む。
「あなた、お名前は何て言うの?」
「リンです!」
「ふふっ、とても可愛いらしい名前ね」
ふわふわ、ただただ愛くるしく王女殿下はほほ笑む。
そして、ふっと瞳を細めた。
ピンク色の瞳の瞳孔が、更に深い色に染まる。
その瞳に囚われ、リンはなんだか頭がぼんやりとするのを感じた。とても幸せな気分だ。
(何も考えなくていい、感じなくていい。何もしなくていい。)
小さい頃、お母様に抱かれていた時のような。そんな充足感を、リンは味わっていた。
「リンも良い名前だと思うわ。でも、私はあなたとお友達になりたいの」
「お友達に?」
「そうよ。だから、教えてくれないかしら?リン」
「はい」
「あなたの本名はなあに?」
「…本名は……錬 凛風‥です…」
駄目だ、と思う暇もなく。リンは、自分の本当の名前を口に出してしまっていた。
フォルテイム王国に足を踏み入れてから、いや、自分の城から逃げ出してきてから一度も口にしていなかった名前を、リンは喋ってしまった。
「錬 凛風というの?」
「はい」
「そう‥」
暫く王女は考え込む。そして、ふと口角をあげて再び口を開いた。
『ということは、あなたは南桂国の方ね?』
「はい」
懐かしい自国の言葉に、リンは何も考えずに頷いてしまう。それに、王女はにこにこと笑ったままそっと身を引いた。
それと同時にリンは意識が覚め、幸せな夢の世界から引き戻されていた。冷たい、現実へと。
「あ…」
リンは自分が何を言ってしまったのか思い出し、衝撃を受けてその場に硬直した。
何も言葉を発することができない。何も言わずに、リンを見ている王女殿下の視線が怖くてたまらなかった。
(私‥、私、なんてことを‥。今まで必死に隠してきて誰にも言わなかったのに、どうして今、よりによってフォルテイム王国の王女に言ってしまったんだろう)
ふるふると手足が震える。リンは、今にも倒れそうなほど真っ白な顔色になっていた。
「も、申し訳ありません!どうかお許しください!決して、決してフォルテイム王国に仇をなすつもりはありません!本当です!」
べたりと床に張り付き、みっともなくすすり泣きながらリンは許しを請う。でも、心の奥底では分かっていた。
嘘をいって王宮を入ってきた下働きなど、投獄されるならよいほうで、処刑されるのが当たり前だろう。
だから、リンは死ぬほど驚いた。
「許しを請う必要なんて何もないわ。あなたの本名は錬 凛風。それを縮めてリン。あまりにもあだ名で呼ばれすぎていて、面接の時に誤ってあだ名の方を告げてしまっただけなんだから」
「は…」
なんていう、とんでも理論を王女殿下が披露した時は。
どれくらいリンが驚いたのかというと、あまりにも驚きすぎて、滝のように流れていた涙が止まってしまうくらい驚いた。