72 戦場の異変
開戦から四日。
マイス白亜教国側の司令部の天幕には、シンジュラ・ブラッド・ルークベルの姿があった。
彼の存在は、一般兵には知らされていない。黒髪黒目は黒脈の象徴だ。シンジュラが姿を表せば少なからず混乱する。その出自に不信感を持つ者もいるだろう。
よって、シンジュラは軍の上層部以外が近づけない天幕に籠り、優雅に戦況の報告を聞いていた。
「シンジュラ様、そろそろ我々の出陣を許していただけませんか」
「敵には黒脈の王子がいます。兵の士気も異様に高い。このままでは……」
平らだった大地に精霊術で作られた土壁と塹壕が無数に作られ、騎馬が容易に進行できない地形に変わっていた。おかげでなんとか戦線を維持できているが、そろそろ限界が近い。
大量にいた教国兵は三分の二にまで数を減らし、徐々に士気も下がっている。
「それに、例の命令についても……皆は戸惑っています」
「いや、はっきり言わせていただこう。兵たちは憤っている。このままでは反乱が起きかねません」
シンジュラに意見を述べたのは、初老の聖人二名。それぞれ土の精霊と火の精霊の寵愛を受けている。二人とも既に兵役を終えていたが、枢機卿の席をちらつかせて今回の戦場に引っ張り出した。
久しぶりの参戦とはいえ、歴戦の勇。今の戦況が大きくリッシュア側に傾いており、これ以上分が悪くなると挽回が難しいことをよく理解していた。
「せめて、仲間の遺体を回収させてください」
「騎馬の進行を阻むためなのだろうが、リッシュアの馬にはあまり意味がない。敵は容赦なく踏みつけていきます。その有様を見続ける兵の気持ちを考えていただきたい」
夜襲の可能性が少ない平野での戦争では、日暮れと共にその日の戦いを中断する。そして戦場に転がる遺体を回収し、夜のうちに火葬するのが暗黙の了解だった。
しかし今回、シンジュラは遺体の回収を禁じていた。
戦場に積み上げられていく教徒たちの屍に、焦りはどんどん強くなる。本来ならば二人の聖人はシンジュラの指揮に口を出せる身分ではなかったが、我慢の限界だった。
シンジュラは二人の恐れと不安を和らげるよう、優美に微笑んだ。
「あと少しだけ耐えてほしい。リッシュアは今、有利だと踏んで後先考えずに攻め込んできている。その分、息切れもしやすい。勝利に目が眩んで気が緩んだ瞬間、一気に形成を逆転させよう」
「……しかし」
「初陣の若造の命令は聞けないか?」
火の聖人は言葉を詰まらせ、気まずそうに目を逸らした。
心の中では、シンジュラの愚鈍な采配に腹を立て、罵っていた。
そもそも、平野を戦場にすべきではなかった。もう少し後ろにある騎馬の動きを阻む地形に陣取っていればここまで苦戦はしなかった。
教国の軍が劣勢にあること自体が許せない。圧倒的な力で蹂躙し、白亜教の権威を見せつけるべきなのだ。ましてや遺体を戦場に積み上げ、徒に大地を汚すような真似を率先して行うなど、白亜教徒としてあり得ない。
シンジュラは少し迷うような素振りを見せた後、まるで聖人たちの意見に促されたといった形で頷いた。
「分かった……いいよ。では、明日だ。明日の昼に君たちを含めた全員で総攻撃をかける。今日だけはとにかく耐えてくれ。頼んだよ」
聖人二人は安堵の息を吐いた。
「ありがとうございます!」
「仰せのままに」
二人が下がると、シンジュラは柔和な笑みを消し、白けたように卓上の地図を見た。傍らにいたオトギリが肩をすくめて声をかける。
「お疲れ様。猫を被り続けるのも大変だな」
「ああ。しかしそれも明日までだ。後五日はかかると思っていたが……」
「予想以上にリッシュアは元気だったなぁ。例の塔のお姫様のおかげか」
教国側の陣からも、その塔の姿は視認できる。捕らえた傭兵の情報によると、あの塔には今リッシュアゼルの第二王女が軟禁されている。戦功を挙げた男の相手をするために、控えているのだそうだ。
「シンジュラ様は本当に運がいい。求めていた姫君がこんなに近くに用意されているなんて」
「ああ。王都まで攻め込む必要がなくなった。面倒がなくていい」
黒脈の姫の存在を知るや否や、シンジュラは作戦を変更した。
王都戦まで取っておくつもりだった“とっておき”をこの場で使う。
「準備は抜かりないな?」
「もちろん。死体は聞いていた目安以上に転がっているし、媒介の設置も終わっている。シンジュラ様の心一つで、明日の戦場はがらりと豹変するだろう」
オトギリは惜しむような声を出した。
「あれだけ準備に苦労したんだ。やはりオレも観覧したいんだが」
「諦めろ。お前には重要な役目を任せただろう」
「……はぁ。面倒なだけで、そう面白くもない任務だからな。やる気が出ない」
駄々をこねるオトギリに対し、シンジュラは舌打ちする。
「なら、今すぐ帰れ。別の者に命じる」
「手厳しいな、シンジュラ様は。もう少し労わってくれ」
「成果を挙げたら、それなりに労うさ」
オトギリはやれやれと言った態度で頷いた。
「……分かった分かった。精一杯、役目を務める。じゃあそろそろ発つぞ。決行の合図は狼煙で良かったか?」
「ああ。連絡魔法は使いたくない。ただ、そもそも明日は晴れるんだろうな?」
風の寵愛を授かるオトギリは、にやりと笑って断言した。
「ああ、晴れる。地上には血の雨が降るかもしれないがな」
五日目の戦場。
スグリは駆けていく男の背を見て、改めて思った。
化け物だ。
リィオと名乗った青年――実際はリオル・グラントという名前らしい。彼は北東の果てにあるムドーラ王国で将軍を務めている男だ。空の精霊によってプルメリスの部屋に飛ばされたという。
何もかもが信じられない話だが、今ならばある程度信じられる。彼は普通ではない。
初対面の時の短剣での試合でスグリはリオルに瞬殺された。
アディニ族の中では最も優れた狩人であった自分が、力でも速さでも技術でも打ち負けたのだ。弓矢の命中率を競うならば負けはしないだろうが、剣ではリオルに遠く及ばないと思い知らされた。
「どけ!」
この戦場でリオルとまともに打ち合える男はどれだけいるだろうか。
今、リオルは一振りで二人の教国兵を吹き飛ばして道を切り拓いた。土の精霊術で作られた杭を踏み台にして、敵の中枢に飛び込んでいく。五人いた精霊術士は何もできずに地に伏した。
「よし、崩れた! 一気に畳みかけるぞ!」
「おう!」
「皆、リィオに続け!」
いつの間にか傭兵たちがリオルの号令に従い、突撃するようになっていた。瞬く間に一つの小隊を瓦解させ、教国兵が潰走していく。それを傭兵たちが嬉々として追いかけていった。
「おい、スグリ。サボるんじゃねぇよ。追撃は?」
「……矢が残り少ないんだ。ほとんど射尽くした」
「ああ、そうか。じゃあ一度補給に戻ろうぜ。腹も減ったし」
この会話の間、リオルは死んだふりをしていた教国兵の槍の一撃を見もせずに避け、首を斬りつけて絶命させた。
あまりにも命を奪うことに慣れすぎている。血に狂うこともなく平然と笑う男を見て、スグリの背筋は寒くなった。
二人揃って補給線まで戻り、まず軽く食事をする。
傭兵たちの戦いぶりは軍の監査役に見張られていて、あまりにも使えないと補給を断られるのだが、スグリたちは今日も左翼では一番の戦果を出しており、軍人の覚えも良かった。
一人ではこうはいかなかっただろう。少し前まで周囲に目の敵にされていたのが嘘のようだった。
実際、初日は何度か友軍に背中を狙われたが、その度にリオルが防御し、牽制してくれた。どこまで見えているんだ、と不気味に思うほど視野が広い。
そのうち狙われなくなり、視線だけを感じるようになった。傭兵たちから一目置かれるようになったのだ。
荷物番から新しい矢筒を受け取った。荷に嫌がらせをされることも覚悟していたのだが、あっさりと預けた状態のまま返ってくる。
「それ、姫様の手作りの矢だろ。こんなにたくさん……愛されてるな」
「別に。半分は使い物にならなかったから、夜のうちに直した」
「そんなこと言って、助かってるだろ?」
「……それなりに」
矢を用意する時間が減った分、休息に充てられる。正直に言って、プルメリスの助力は有難かった。
スグリは今まで本格的な戦争に参加したことがなかった。毎日毎日人を殺していると、さすがに気が滅入る。眠る時間は唯一の安らぎなのだ。
しかしプルメリスに無理はしてほしくない。あの苦労を知らない美しい手が、血に濡れた矢に触れたのだと思うと、スグリはひどい罪悪感を覚えた。
「お、当たりだ。やっぱりやたらと美味い飲み水があるよな?」
「ああ」
「……はぁ、頑張りすぎてないといいけど」
補給線にある水樽の中に、格別に美味いものが紛れていると、兵士の間で噂になっていた。味だけではなく、疲れが癒えていくような気さえする不思議な水だ。
リオルはそれを口にすると、視線を塔に向けて微笑む。あの華奢な恋人に想いを馳せているようだ。
「今夜も会いに行かないのか?」
「ああ。会いたいけど、我慢する。清潔感のない男は嫌われちまう」
劣悪というほどではないが、決して快適な環境ではない。最低限、不衛生にならない程度しか体を清められない。はっきり言えば、二人ともすっかり小汚くなっていた。
それもあって、開戦してから一度もリオルは彼女に会いに行っていない。もしかしたらプルメリスと離れ離れの自分に気を遣っているのかと思ったが。
「それに、人を殺した日にどんな顔で惚れた女に会えばいいのか、よく分かんねぇ。多分、心配させちまうよな」
「……そうだな」
「あいつ、寂しがってるかな。怒ってるならまだいいけど、泣いてたらどうしよう……なぁ、どうやって埋め合わせをすればいいと思う?」
「分かるはずない。俺に聞くな」
リオルは深いため息を吐きながらも、恋人のことを考えている時間は幸せそうだった。
スグリはリオルに対して、何も言えない。ともに戦ってくれていることに対し、感謝も謝罪も口にしていなかった。
リオルもまた、スグリの心情を察しているのかもしれない。恐ろしく勘の鋭い男だ。十分にあり得た。
「さて、戻るか。そろそろ聖人が出てくるかも。なんか今日は嫌な予感がするんだ」
言葉の割にはあっさりとした口調で述べ、リオルは大きく背伸びをした。深呼吸をしかけて、やめた。それどころか襟巻で口と鼻を覆い直している。
「はぁ……空気が悪くて気が滅入る。せっかくの良い天気なのに、地上の景色は最悪だな」
「ああ」
「なんで死体を放っておくんだろう。ムドーラ戦線は、山や丘陵地帯が多いから回収できない時もあるんだけどさ……自軍のそばくらい片付けるよな、普通」
開戦から五日も経てば死体の腐敗が進み、踏みつけられた死体から臓物が零れ、戦場にはひどい悪臭が漂っていた。
白亜教について疎いスグリでも、これは精霊の意志に反する行為ではないかと気になっていた。弔いを放棄する理由が分からない。
屍が増えるにつれ、目に見えて教国兵たちの士気が落ちている。
リッシュア側でも戸惑いの声が上がり始めていたが、労力を割いてまで敵兵の死体を片付けることはなかった。
もう数日もすれば決着がつく。その後まとめて焼き払えばいい。そういう考えのようだった。
「油断するなよ」
「分かっている」
二人は戦線に復帰し、また教国兵を倒していった。
前に出てくる敵は随分と減った。負け戦を悟って及び腰になっているようだ。目が合うだけで逃げていくくらい覇気がない。
初日感じていた緊張は薄れており、スグリは淡々と弓を引いていた。
「――――!」
その時、右翼の方から絶叫が聞こえた。
「おお、なんだ?」
「ついに聖人のお出ましか?」
傭兵たちが騒ぎ出す。
聖人が出てきたのなら、先んじて仕留めに行かなければ。スグリが走り出そうとするのを、リオルが制した。
「変だ。一旦下がれ」
「しかし」
「ダメだ。分かんねぇか? これは霊力じゃない。魔力が膨れ上がってる」
「魔力……では、リッシュアが何かを?」
「多分違う。嫌な気配は教国側からしてる」
リオルは顔なじみになった傭兵たちに撤退するように伝え、強引にスグリの腕を引いて走り出した。
軍人たちから制止の声がかかるが、止まらない。
半数の傭兵はリオルと同じく何かを感じて引き上げ、半数の傭兵と正規の軍人が敵陣近くに残った。
これが運命の分かれ目だった。
右翼から聞こえる絶叫は徐々に伝播し、とうとう異常を目で確認できるようになった。
地面にしみ込んでいた血が、転がっていた死骸が、溶けて集まり赤い塊になる。黒い瘴気が立ち込め、一気に視界が悪くなった。
スグリはその時になってようやく命の危機を覚えた。このような恐怖を覚えるのは、一年物の魔物を目にした時以来だ。
「なんだ、あれは……巨人?」
突如、人間の三倍ほどの背丈の赤黒い巨人が立ち上がり、唖然としていた男たちを薙ぎ払った。敵も味方も関係ない。周りにいた人間は全て地面に叩きつけられて潰れた。
「ぎゃあああああ! 化け物!」
「下がれ! 撤退だ!」
「待て! 一体だけではない! 誰かが食い止めないと!」
逃げる者、武器を向ける者、誰もが声を上げた。
巨人には顔がなく、胸に脈打つものがあった。拳大の赤い魔石が明滅を繰り返している。目をそらしたくなるほど不気味だ。
「あれは心臓石……? いや、違うな。魔石に魔法をかけてあるのか? なんにせよ、堂々と魔法を使いやがった……」
リオルが思い切り舌打ちをした。
戦場は右も左も大混乱に陥っていた。巨人は数体いて、敵味方構わず襲い掛かっているらしい。リッシュア側からは撤退と足止めの指示が同時に出ており、収拾がつかなくなりそうだった。
「剣じゃ届かないかもしれねぇな……スグリ。この距離であの胸の魔石、狙えるか?」
「難しいな。動きが止まっていれば、当てられるが」
「そっか。じゃあ、動きを止めてくる。ここも危なくなったら、俺のことは放って逃げろよ」
スグリが答える前に、リオルは地を蹴った。




