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覚えてなくて、ごめんなさい〜囚われ聖女の第二の人生〜  作者: 緑名紺
第五章 聖女と戦場の試練

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62 囚われの姫


 

 おかしい。

 つい先ほどまで甘美な時間を過ごしていたはずなのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 そろそろレンフィは心身ともに限界だった。今日一日はいろいろなことが起こりすぎている。


 窓に鉄格子が嵌った見知らぬ部屋で、レンフィはリオルと共に他国の姫と対峙していた。


「…………」


 いつまでも無防備な姿を晒しているわけにはいかない。相手が王族ならばなおさらである。

 レンフィはリオルと支え合い、何とか体を起こした。そのまま立ち上がろうとして、制止の声がかかる。


「そのままでいいよ。そこから動かないで」


 レンフィは改めて目の前の黒脈の姫――プルメリスを見上げる。

 年の頃はレンフィよりも少し年上で、リオルと同じくらいだ。目元が赤く腫れてさえいなければ、涼しげな美女と断言できただろう。切れ長の瞳がじっと二人を見下ろしていた。

 彼女は怯えているようだった。それもそのはずだ。いきなり見知らぬ男女が部屋に現れて動揺しないはずがなかった。


「あの、怪しい者ではありません」


 レンフィは咄嗟に述べた。


「はぁ? どの口が言っているの? さっさと名乗りなさい。でなければ……人を呼ぶよ。王女の部屋に不法侵入したんだから、問答無用で首を落とされてもおかしくないけど」


 リオルがレンフィを庇うように抱き寄せた。


「その言い方だと、名乗ればとりあえず大事にしないでくれるってことか?」


 プルメリスは自嘲気味に笑った。


「とりあえずはね。危害を加えられれば、当然抵抗するけど」

「…………」


 レンフィとリオルは目線で相談するが、どうすべきか答えが出るはずもなかった。ここが他国である以上、簡単に名乗るわけにはいかない。あらぬ疑いをかけられ、揉め事を起こせばムドーラに迷惑をかけてしまう。持ちかける三国同盟も成立が難しくなるだろう。


 リオルは無意識に自らの腰に触れた。しかし、そこにあるはずの護身用の剣がないことに気づき、内心で舌打ちをした。

 相手は女だが、黒脈の姫だ。魔力はリオルよりもずっと多いはずだ。剣なしで対抗するのは厳しい。いざという時の口封じもできない。


 黙り込んだ二人に対し、プルメリスは呆れたように呟いた。


「確かお互いに名前を呼び合っていたよね。レンフィと、リオルだっけ?」

「な」

「つい最近その名を聞いたばかりだよ。マイス白亜教国が死亡を発表した白虹の聖女レンフィ・スイ。彼女の特徴は凄腕の治癒術、眩いプラチナブロンド。そして、不敗を誇る聖女と唯一引き分け続けているムドーラ王国の若き将軍の名は、リオル・グラント。……これは偶然?」


 プルメリスは壁に背を預け、言葉を失くす二人を眺めた。


「あり得ないよね。死んだはずの聖女と、その敵だった将軍が仲良く抱き合ってる……そもそも扉が開いた気配はなかった。一体どこから現れたのかも分からない。これは夢? それとも、きみたちは幽霊? はは、幽霊が治癒術を使うはずないか」


 長く深いため息を吐いた後、プルメリスは言った。


「ずっと黒の神様に祈ってた。ここから出して、あの人のところに連れて行ってくださいって。だからきみたちが現れたのかな? ねぇ、わたしを助けてくれない? もう限界……」


 その疲れ果てた声に、レンフィの心臓はぎゅっと痛んだ。


 この部屋にはベッドと机と椅子以外の家具がなく、生活感が皆無だった。窓だけではなく、扉も固く閉ざされているようだ。頑丈そうな鉄製だ。

 自分も似たような部屋で暮らしているが、もっと質素で飾り気がない。少し上等な牢獄といった印象だ。とても王族の自室とは思えない。

 おそらく彼女は囚われている。


 その時、部屋の外が騒がしくなった。


「お待ちください! こんないきなり!」

「ええい、下がっていろ! ちゃんと許可は取ってある!」


 足音が近づいてくる。プルメリスが顔を顰めた。


「そこに隠れていて」


 リオルが素早くレンフィを抱え、扉から死角のベッドの影に身を潜めた。ガチャガチャと解錠の音が聞こえると、プルメリスは木製の椅子を持ち上げ、開くタイミングで扉に向かって思い切り叩きつけた。


「ひぃっ!」


 来訪者が腰を抜かすが、傷ついたのは椅子だけだった。プルメリスが舌打ちをする。

 レンフィは見た。さりげなく折れた椅子の脚を握り締め、プルメリスがわざと肌を傷つけて血を流すところを。

 何故そんなことを、という疑問はすぐに解けた。リオルの血で汚れたままの床を誤魔化すためだろう。


「姫様!? いきなり何をなさるのです!」

「わたしの部屋にノックも伺いもなしに入ろうとした無礼者を、追い返そうとしただけだけど?」

「……そ、それは失礼しました。気が逸っておりましてな」


 来訪者は、四十代半ばの小柄な男だった。後ろにいた兵士の手を借りて立ち上がると、落ち着きを取り戻したのか、にやりと厭らしい笑みを浮かべる。


「痩せましたな。実においたわしい……おお、手に怪我をされて……血もこんなに」

「近づくな。お前に触れられるくらいなら、これを首に突き刺して今すぐ死んでやる」

「っ分かりました。落ち着いてください。部屋には入りません」


 木片を首に向けるプルメリスに対し、男は咳払いをして恭しく宣言した。


「先ほど教国軍の布陣を確認しました。睨み合いが続く可能性もありますが、早ければ明日から交戦が始まります。この塔の周囲も少々騒がしくなるでしょうが、ご安心を。姫様の御身は必ずお守りいたしますので。それを伝えに参りました」

「そう。ご苦労様」

「どうか我がリッシュア軍の勝利を祈り、見守っていてください」

「……わたしの祈りなんて必要ないでしょ」

「そんなことはありません。姫様のおかげで、兵の士気はかつてなく高まっております」

「ふん、単純な連中だね。連絡は終わり? ならさっさと下がってアンズを呼んできて。治療をさせるから」


 分かりました、と頭を下げてから、男はわざとらしく告げた。


「ああ、そうそう。あのアディニ族の若者は、最前線への配置を希望しましたよ。せっかく姫様の献身によって処刑を免れたというのに、酔狂なことだ。功を焦って死に急ぐか、もしくは友軍に背中を狙われるか……彼の無事については、しっかり祈って差し上げるべきでしょうなぁ」


 プルメリスが顔を歪めるのを見て、男はご機嫌に去っていた。再び扉は閉ざされる。

 気づかれなかったことに安堵しつつ、レンフィは今の話の内容について相談しようとリオルを振り返った。


「リオル?」


 リオルは床に横たわったまま、意識を失っていた。慌てて容態を確認する。呼吸も脈も安定していた。

 サフランに教わったことがある。死にかけてから急激に回復すると、反動で患者は著しく気力と体力を損なうらしい。これは治癒術ではどうにもならず、安静にして寝かせるしかない。


 一人きりになり、レンフィは大きな不安に襲われた。


「姫様!」


 扉が勢いよく開き、慌ててまた身を縮こませる。今度は救急箱を抱えた女性が入ってきた。


「怪我をされたというのは本当ですか! きゃあ! 血が出てるじゃないですか!」

「大した怪我じゃないよ。それよりアンズ、扉を閉めて。外に誰かいる?」

「いえ、兵士たちは出て行きましたわ。この部屋の鍵も空けたままで良いと……」

「そう。わたしを試しているんだ。なら、塔の外の見張りも手薄になったかな」


 プルメリスはベッドの端の腰掛け、レンフィたちを振り返った。


「出てきていいよ、きみたち。アンズは信用できるから」

「え!?」


 あっさりと存在をバラされ、レンフィは控えめにベッドの影から顔を出した。


「な、ななななっ! なんですかこの子!? 誰? どうやって入ったんです? きゃあ! 男もいるじゃないですか! えええ!?」


 侍女の装いをした女性が、飛び上がって驚く。その大きな反応に釣られ、レンフィはあわあわと動揺した。


「わたしも知らない。さっきいきなり部屋に現れたんだよ。女の子の方は精霊術を使って、死にかけの男を治療していた。あれ、彼、気絶しちゃったの?」

「は、はい」


 リオルを庇うように立ち上がったレンフィに対し、プルメリスは唇の端を持ち上げた。


「ふぅん。無理に動かすのは良くなさそうだね。この枕と毛布、使っていいよ。替えはあるから」


 混乱しつつも、レンフィは有難く借りることにした。

 リオルの頭の下に枕を差し込み、着衣を緩めて毛布を掛けた。このまま固い床に寝かせておくのは忍びないが、いつ誰が来るか分からない以上、ベッドを貸してくれとは言えない。


「ありがとうございます。あの……もし良ければ、お礼に治療をさせていただけませんか?」


 プルメリスの血塗れの手に視線を向ける。ちょうど侍女のアンズが桶に水を汲んできたところだった。

 リオルの治療で霊力は急激に消費していたが、これくらいの傷ならば問題なく治せる。彼女は床の血を誤魔化すために怪我を負ってくれた上、寝具も貸してくれた。少しでも借りを返したい。


「いいけど、変なことをしたら許さないよ」

「はい」


 差し出された指にレンフィは両手をかざした。桶の水に霊力を注いで操り、傷口を洗浄する。同時に治癒も行った。

 白と虹色の光が弾け、あっという間に傷は塞がった。最後に肌から水気を切って、汚れた水を桶に戻す。

 プルメリスは自らの指を興味深そうに動かし、アンズは口を大きく開けたまま固まる。


「すごいね。さすが白虹の聖女」

「え、姫様、今なんて……」

「アンズ、一応包帯を巻いてくれる? さっきの武官が戻ってきたら困る」

「は、はい!」


 偽装の包帯を巻いている間、レンフィはプルメリスに尋ねた。先ほどの男との会話は看過できない。


「あの……ここはもしかしてリッシュア戦線の近くなんですか?」

「それすら把握してないんだ。そうだよ。ここはリッシュア王国の北部。憎きマイス白亜教国との国境付近の塔の中で、開戦間近の危険地帯だよ。そこの窓から軍や傭兵団が陣取ってるのが見えると思うけど」


 レンフィはカーテンをめくり、窓からこっそり外を覗いた。

 荒野と草原が混ざり合う、見通しの良い平野が広がっていた。ごつごつとした岩や乾いた砂の地面。一面が雪のムドーラとはまるで違う景色にレンフィは目を見開いた。

 鼻をかすめる空気が違う。気温も高い。

 服装からして、プルメリスやアンズとは異なっていることにようやく気付いた。


 地平線の近くに櫓や天幕が張られているのが確認できる。塔からさほど離れていない場所を軍隊が通過するのも見えた。


 全身から血の気が引いた。

 ムドーラの凍てついた湖にいたはずの二人が、乾いた大地に建つ塔の中に移動した。魔法や精霊術ではあり得ない事象だ。人間業ではない。

 考えられる可能性は一つ。精霊の力による空間転移だけ。


 確かに聞こえた。レンフィとリオルがお互いの気持ちを伝えあい、幸せな時間に浸っていたあの時――。


『我が寵愛を望むのならば、試練を』


 あの不思議な響きは、光と水の精霊の声に似ていた。

 空間を司るという空の精霊に違いない。そう結論を出し、レンフィは大いに悔やんだ。


 リオルと離れ離れになりたくない、というレンフィの望みに応え、空の精霊が現れたのではないか。

 しかし無条件に寵愛を与えるのではなく、“試練”を課した。


 以前ヘイズに聞いたことがある。「時と空の精霊は人間に寵愛を与えることが少なく、その好みについてはよく分かっていない」と。このような試練の果てにしか寵愛を得られないのなら納得だ。


 空の精霊術を得た気配はない。“試練”は不合格だったのか、まだ終わっていない状況だろう。どちらにせよ、ここから元の場所に帰ることはできそうにない。


「……どうしよう」


 罪悪感が心を蝕む。

 空間転移に巻き込まれ、リオルは死にかけた。治療はできたが、全快したわけではない。

 その上、ムドーラから遠く離れた場所に連れてきてしまった。開戦間際の大切な時期に将軍が行方不明になったとなれば、どれほど迷惑をかけるか。戦争にも大きな影響が出るに違いなかった。


 今のこの状況も焦りに拍車をかけた。

 まだ同盟の話すら伝わっていない。ムドーラとリッシュアは直接的な敵対はしていないものの、友好関係にはない。

 不法入国をしたことがリッシュア王国の上層部に知られれば、本当に首を刎ねられてもおかしくなかった。


「さぁ、聖女様。そろそろきちんと話をしようよ。わたしを助けてくれたら、きみたちを助けてあげる」


 プルメリスは最初とは打って変わって、余裕の笑みで声をかけてきた。だいぶ落ち着きを取り戻したようだ。リオルが眠り、侍女のアンズを加えた今、人数的にも精神的にも彼女は優位に立っている。


 血を誤魔化した咄嗟の機転といい、侮れない女性だ。しかし匿ってくれたことを考えると全く信頼できないわけではない。どうやらプルメリスも切迫した状況のようだ。だとしたら協力し合えるかもしれない。


 一人だったら間違いなく途方に暮れて流されていた。しかし今はリオルがいる。

 自分のことはどうなってもいい。しかし彼の命と立場を守らなければ。そして一刻も早く無事にムドーラに帰すのだ。


 不安に押し潰されそうになりながらも、レンフィは気を引き締めた。


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