6 かつての宿敵と
光の精霊は言った。
記憶を取り戻すことはできないし、かつての聖女の人格は消えてしまった。
それを良いことに、シダール王の妃にされそうになっている。もしも妃になれなければ殺される可能性が高い。
与えられたのは三か月の仮初の自由。
レンフィの立場はより複雑なものとなった。
「私……これからどうすれば良いのでしょうか」
「どうするも何も、とりあえず生き残ることが先決だろ。さっさと食っちまえ」
リオルに促され、レンフィはパンをスープに浸し、口に運んだ。食欲はないが、何とか飲み込む。
「美味い?」
「……はい。でも、ごめんなさい。こんなに食べられません」
「仕方ねぇな。ちょっとずつ量を増やせよ。今日は半分俺が食うから」
霊力測定から三日。
不安と絶望で憔悴しきったレンフィの元に、リオルが大盛りの朝食を運んできた。本来なら配膳はバニラの仕事だが、彼女は壁際であくびを噛み殺している。ここ数日のあれこれで、疲労がたまっているのだろう。申し訳なくて助けを求められない。
「でもさ、はっきり分かって良かったじゃん。もう記憶が戻る可能性を悩まなくていい。心配事が一つ減っただろ」
「希望も無くなりました。ずっと不安なままです」
「それは時間が解決してくれるって。そのうち慣れる。あ、この果物は独特な味なんだ。苦手なら言えよ」
自然とリオルと喋りながら一緒に朝食を食べる形になった。「この人は何をしに来たんだろう」とレンフィは首を傾げる。
「あの、何か私に御用でしたか」
「うん。いろんな人に頼まれたってのもあるし、俺も気になったから様子を見に来た。お前、さらに痩せた気がするぞ。しっかり食べないと」
「すみません……」
「陛下は痩せた女はあんまり好きじゃない。もう少し肉がつくといいな」
ふやけたパンでむせた。
「私を、王様の妃にしたいのですか?」
「いや、どちらかと言えば反対かな。お前に頭を下げなきゃいけなくなる。すげー複雑な気分」
リオルは深いため息を吐いた。
「でも、だからって……死なれるのもな。宿敵の最期があまりにも哀れすぎて、虚しくなっちまう」
「宿敵?」
「聞いてないか? 俺、聖女レンフィと一番よく殺し合ってた将なんだよ。ほら、この辺りの傷跡とか、全部お前のせい」
腕に残る無数の傷を見せられ、レンフィは言葉を失くす。
「ああ、別に恨んでねぇよ。戦争だからな。俺もお前に怪我させたことがあったはず。まぁ、そっちは治癒術で綺麗に治してるだろうけど」
「その、何と言えばいいのか……ごめんなさい」
「だから、謝らなくていいって」
陰りのない笑顔を向けられ、ますますレンフィは戸惑った。殺し合っていたという割に、どうしてこうもフランクなのだろう。ここまで禍根がないのはおかしいと思う。
「で、話を戻すけどな。お前はどうしたいんだ? 陛下の妃になるのと死ぬの、どっちがいい?」
「そんなの……どちらも気が進みません」
あまりにも極端な二択に、じわりと涙が滲んできた。
「え、シダール陛下のお妃様だぞ? 贅沢だなぁ。城の女たちはみんな陛下のお手付きになることを夢見てるってのに」
「? お手付きってなんですか」
「おっと……ああ、えっとな、みんな陛下のお気に入りの女になりたがってるってこと。お前は嫌なのかよ」
「嫌というより……あの方は怖いです」
「はは、怖いってのは分かる。でも死ぬよりは怖くないだろ」
どうだろう。シダールの妻になって一生怯えながら暮らすより、一思いに死んでしまった方が楽な気もしている。
ただ、自ら命を絶つような度胸はないし、処刑される日を待ち続ける自信もない。
「実を言うと、分からないんです。今の私は空っぽで、自分の意思があまりなくて、そんな状態だから周りの人が望む通りに生きるのは構わないんです。命じてくれた方がありがたいくらい。でも……」
「城の中、荒れてるもんなぁ」
例えばたくさんの人が望んでくれるなら、シダールの妃になることを受け入れられただろう。しかし、実際にレンフィを妃にと望む者は少ない。それはこの数日で身に染みて理解した。
「んー、この際、他の奴の考えは気にしなくていいと思う。陛下さえその気になれば、この城に逆らえる奴はいない。なんでも受け入れるよ。とにかく陛下に気に入られる努力をしないと。何もしないと本当に殺されるぞ」
異性に気に入られる努力。
今のレンフィには何も思いつかない。
「うう、じっとしているのは良くないとは思っています。私だって何かを頑張りたいです……ただ、この部屋の外に出られなくて……」
「ああ、うん。聞いてる。だから俺が来たんだよ。城の中を案内してやる」
任せておけ、とリオルは力強く笑った。
黒脈の王は偉大な神の力をその身に宿す。
それゆえ、徒に増殖しないように制約が課せられていた。
黒脈の継承には男女の愛、あるいは強い力が必要である。
というのも、黒脈の胎児の膨大な魔力が母体に害を与えるのだ。大抵は十月を待たずに母子ともに死んでしまう。
しかし、心の底から愛し合って成した子どもならば、胎の中で暴れることはない……と信じられている。
もしくは母体自体が強い魔力か霊力を持っていれば、出産にも耐えられる。親類同士、あるいは他国の黒脈の王家との婚姻により、現代まで黒脈は受け継がれてきた。
現在、ムドーラ王国は深刻な世継ぎ問題に直面していた。
国王シダールには既に正妃がいる。しかし夫婦仲は冷え切っており、子は望めない。
ならば側室をと、宰相を始めとした臣下が躍起になって国中を探したが、適合する女性はついぞ見つからなかった。
シダールの魔力は、歴代の王の中でも最強と目されている。
魔力測定を行えば水晶七つを輝かせ、なおも空間を魔力で染める。
となれば、相手となる女性も最低でも水晶六つ以上を輝かせなければ、とても出産に耐えられない。
そんな女性はごくごく限られる。しかし有力貴族の娘でも、四つ輝かせられれば良い方なのだ。
他国から黒脈の姫を娶ろうにも、シダールに娘を差し出す王家はいなかった。元々黒脈の王は争う定め。強い黒脈の王は、絶えることが望まれているのである。
「王位はカルナの子に継がせれば良かろう。もしくは、天から都合の良い女が降ってくるのを待て」
シダール本人に危機感もやる気もなく、また、心から一人の女性を愛する気配もない。
宰相たちもシダールの子については諦めかけていた。
そんな折に記憶を失くしたレンフィが現れたのだから、まさしく天の啓示のように思えてならなかった。たとえ敵国の人間であろうと、多少怪しいところがあろうと、どうでも良いと思えるほど奇跡的な巡り合わせであった。
実際、聖女に対してわだかまりを抱いていた臣下の一部も、光の精霊の洗礼を見て心を動かされた。
光に愛される聖女の姿は言葉を失くすほど神々しく、最強の王の隣に立つ資格があるように感じられたのだ。
しかし一方で、どうしても教国の聖女を受け入れられない者もいる。敬愛する王の妃に迎え、頭を下げるなど我慢ならない。
彼らは王の言葉を受け、「レンフィが妃にふさわしいか試す」ことにした。
否、それは建前だ。
全力でレンフィを排除すると決意し、行動を起こしたのだった。
せっかく仮初の自由を与えられたのだからと、レンフィは最初バニラに城の案内を頼んだ。
しかし僅か十分で引き返し、以来、部屋に引きこもり続けていた。
行く先々で扉を閉ざされ、あからさまに無視されるくらいなら耐えられた。
さらに拒絶は激しく、攻撃的だったのだ。
皿や石が飛んできたり、階段から突き落とされそうになり、屈強な男たちに囲まれて口汚く恫喝された。バニラとともに涙目になって塔に戻ると、部屋が泥水でぐちゃぐちゃに汚されていて、完全に心が折れた。掃除だけで一日が潰れた。
すっかり部屋の外に出るのが恐ろしくなってしまったが、このままではいけない。今日はリオルが護衛を兼ねて案内してくれ、留守の部屋はバニラが見ていてくれる。
レンフィはなけなしの勇気を振り絞り、おっかなびっくり城を歩いた。
すぐに見つかり、廊下にいた侍女たちが一斉に目を剥く。前回皿を投げつけてきた者たちだ。しかし彼女たちはリオルが近くにいるのを見て、悔しげに舌打ちをした。
「――――」
すれ違いざま、睨まれて陰口を叩かれる。幸か不幸か、レンフィには意味の分からない言葉だった。
悪意ははっきりと伝わったので、さっそく部屋に戻りたくなったが。
「はは、怖ぇな。みんな殺気立ってる」
リオルがからりと笑った。
「もしレンフィが妃になったら仕返しされるってのに、よくやるよ。己の立場を顧みない、ある意味臣下の鑑だよな」
ものすごく前向きに物事を捉える人だな、とレンフィは思った。それともこの発言によって、周囲に牽制しているのだろうか。心なしか、睨んでくる人の数が減った。
最初に案内されたのは、図書室だった。
「ここは文官がよく出入りしてる。重要じゃない本なら貸し出してもらえるぜ。今日はどうする?」
「はい。できれば借りてみたいです」
文字の読み書きは、なんとか分かる。
知らないことだらけの今、少しでも空っぽの自分を埋めたい。レンフィはきょろきょろと背表紙を目で追った。しかし城に置いてあるだけあって、どれも難しそうに感じる。
「宰相様から勉強のためにいただいた本があるので、もう少し気楽に読める本があれば……」
「ああ、そういえば置いてあったな。本の山」
宰相は宣言通り、レンフィに教育を施そうとしている。近々教師を連れてくるとも言っていた。勉強をさせてもらえるのはありがたいが、辛い時間になりそうで今から憂鬱だ。
「あの、何かオススメはありませんか?」
「えー……俺、冒険小説や戦記しか読んだことない。それも子ども向けの易しいやつ」
「むしろそういうのがいいです」
「そうなのか? じゃあちょっと待ってろ」
リオルは司書の青年に声をかけにいった。青年はレンフィを見て嫌そうな顔をしたが、最終的には折れたようだ。
「はぁ、分かりました。何冊か見繕って、後で部屋にお持ちいたします」
「悪いな。頼んだぜ」
司書の青年はリオルに頼られてとても嬉しそうだった。ものすごく平和に図書室を後にできて、レンフィも胸を撫で下ろした。
「ありがとうございます、リオル様」
「はぁ!?」
ぎょっとして固まるリオルに、レンフィは首を傾げた。
「びっくりした……なんだよ、リオル様って。やめてくれ」
「え、ですが」
「なんか、お前にそう呼ばれるとめちゃくちゃ変な気分になる。なるほど、中身が変わったって理解していても、簡単には割り切れねぇな」
「そうなんです。分かっていただけましたか」
「ああ。だから様付けはやめような。敬語も要らない」
「え? そういうわけには……とてもお世話になってますし」
リオルはまじまじレンフィの顔を見つめ、居心地悪そうにため息を吐いた。
「調子狂うなぁ。顔も声も同じなのに、昔のお前の片鱗がない」
「昔の私……そういえば、約束ってなんのことですか?」
廊下に人気がないことを確認して、声を潜めて尋ねた。
最初の日、謁見の間に向かう途中、リオルは言った。
『まぁ、もしこの場を生き延びられたら、また話そう。あのときの約束、俺はまだ覚えてるから』
ずっと気になっていたのに、聞くタイミングがなかった。
敵国の人間同士――殺し合いをしていた関係で一体何を約束したのか。その約束があるから、彼は世話を焼いてくれるのだろうか。
知りたい。レンフィは強い興味を抱いた。
リオルは困ったように笑った。
「今のお前に話しても意味ねぇよ……約束っていっても俺が一方的に言い逃げしただけだし、もう忘れてくれ」
突き放すような物言いに、思わずレンフィは呟いてしまった。
「これ以上、もう何も忘れたくない……」
しゅんと項垂れるレンフィに、リオルは慌てた。
「あ、悪い。そうだよな……うーん、まぁ、いいか。じゃあ今度話すよ」
「本当ですか?」
「ああ。その代わり、敬語はなしで。名前も呼び捨てでいいからな」
釈然としなかったが、そう条件を出されては仕方がない。
レンフィは素直に頷いた。