41 竜の怒り
ムドラグナ。
村長がその単語を口にしたとき、レンフィの全身に今までで最大の悪寒が走った。アヌビア川が変貌を遂げる。
「っ!」
レンフィはその莫大な魔力に腰を抜かし、その場に座り込んだ。
現れたのは、墨色のうろこに覆われた銀色の角を持つ細長い生物。昨日の魚の魔物よりも遥かに大きい。
翼のようにヒレを広げ、真っ赤な瞳を妖しく光らせ、不遜な顔つきで地上の人間たちを見下ろしている。
川の水が波となって人々に降り注ぎ、悲鳴と怒号で騒然となった。
「……蛇……ううん、これは、竜?」
レンフィは近くの岩にしがみつき、呆然と呟く。
宰相が手配した教師から習っていた。
魔物の中でも最高位の危険度を誇るのが竜種。しかしこの数百年の間目撃例はなく、ほとんど空想上の存在と化している、と。
竜の姿はもちろん恐ろしい。しかしレンフィが戦慄したのは、川全体に広がる禍々しい怨念の淀みだ。
マグノリアの呪いの比ではなく、性質もまるで異なる。
なんて冷たく、暗く、恐ろしい憎悪だろう。愛や情が欠片も感じられない、純度の高い殺意が幾重にも折り重なり、どろどろと渦巻いている。
「退却せよ!」
最も早く状況を把握したアザミが叫ぶ。軍人たちはすぐさま行動に移すが、竜の方が早かった。
竜は尾で大量の水を弾く。レンフィの頭を飛び越えたそれを、そのまま息吹で凍てつかせてしまった。あっという間に崖を囲う氷壁が形成された。
この場にいる者たちは全て閉じ込められ、強烈な冷気に命の危機を覚える。
「く……貴様ら! この魔物を何年飼っていた!?」
一人の軍人が村人の胸倉を掴んで揺らす。
「知らねぇよ! オレのじいちゃんが若い頃にはもういた!」
「そんなわけあるか!」
「嘘なんか吐かない! お前らが生贄を与えさせなかったせいだ! あの娘を食わせてさえいれば、目覚めなかったのに!」
もう駄目だ、死んじまう、許してください。
村人たちの嘆きようは凄まじい。この世の終わりのようだった。
「竜に攻撃を! 火属性の魔法を使え! 攻撃手段がないものは、氷壁を壊して退路を確保せよ!」
アザミは指示を飛ばし、崖の際に立った。
「アザミ様! 危険です! お下がりください!」
「下がっても凍え死ぬか食われて死ぬだけだ」
失敗した、とアザミは自分の采配を呪っていた。
レンフィを回収し、村人を捕縛してすぐにアヌビア川から離れるべきだった。まさかこのようなタイミングで例の魔物が姿を現すとは思わなかった。
いつもならばリスクを一番に考え、安全策をしっかり取る。やはり冷静ではなかったようだ。
こんなことで死者を出すわけにはいかない。アザミは頭を切り替える。最も生き残る可能性が高い戦術を考え、出した結論は自分が先頭に立って竜の注意を逸らすというものだった。
「私がしばし奴を引きつける。遠距離から支援を」
無差別に攻撃されては庇いきれないが、集中して狙われるなら攻撃を捌き切る自信があった。
それに、確認したいこともある。
「っ!」
アザミは剣に火の魔法を纏わせて、全力で振り抜く。うろこのない竜の頬を削り、一筋の傷がついた。
墨竜王は不快そうにしつつも、アザミを警戒して少し下がる。そのとき、頬からぽたりと赤黒い血が垂れた。
「血……? 魔物ではないのか?」
誰かの呟きに対し、村長が叫んだ。
「墨竜王はジャボック王が生み出した生物兵器です! 我々はその世話を命じられていたのです! いずれ、下流にある教国を侵略するための切り札として!」
「なっ!?」
一同に衝撃が走る中、アザミだけが冷静だった。
自我や意志を持たないはずの魔物が、わざわざ女の生贄を求めるなどあり得ない。人間を無差別で襲うのが魔物の特徴なのだ。
特殊個体かと思っていたが、違った。諸悪の根源は黒脈の王の力。ウィロモ村もまた、悪しき王により忌まわしい因習に縛られた村だったようだ。
「……餌として女を食わせることが世話とでも?」
「かつてジャボック王は我らの祖先にこうおっしゃった!」
『女たちを墨竜王に税として差し出せ。税収が滞れば王は怒り、アヌビア川流域全体が永久凍土と化すだろう。いくら犠牲が増えようと咎めはせぬ。この国の民の命は我が所有物……どのように扱っても良いのだ。我が許す。好きに殺せ』
誰もが顔をしかめる中、村長は悲壮な顔で笑った。
「我々の行為は、ムドラグナの王に許されていた……!」
アザミは鼻で笑う。もしもシダールが即位した際に、素直に申し出ていれば咎めは最小限で済んだものを。
「常識で考えろ。四代も前の王命に、もはや効力などない」
「そんなことは知りません! 許しもないのに、やめるわけにはいかなかった!」
ジャボックの没後、村人たちがそのまま墨竜王の存在を隠し続けていたのはなぜか。
言えなかったのだろう。
王に命じられていたとはいえ、やっていたことは殺人。
次代の王が許してくれるとは限らない。また、墨竜王を討伐できる保証もなかった。怒らせて永久凍土になれば暮らしていけない。
ウィロモ村の人々はムドラグナの王と墨竜王、二つの王からの断罪を恐れ、生贄を捧げ続けることを選んだのだ。
許される保証がなければ、罪を打ち明けることはできなかった。
アザミは滑稽に思えてならなかった。
散々罪のない女たちを殺しておきながら、自らの命には執着する。臆病で醜悪な精神だ。
しかし、ますますこの場で死なせるわけにはいかなくなった。黒脈の王が絡むとしたら、確かに難しい裁定になる。アザミは村人たちが自暴自棄に陥らぬよう、生き残る希望をちらつかせた。
「いいだろう。この場を生き延びられた暁には、お前たちの主張が通るのかどうか、シダール陛下に決を委ねよう」
アザミは村長から視線を外し、墨竜王に相対した。
「百年物の魔物でなかったのは僥倖だ。要するにこれは、黒脈の王によって進化させられた爬虫類だろう。こんな兵器、シダール陛下には必要ない。……そうだな?」
部下たちから同意の声が上がる。
「そうだ! 教国兵を葬るのは人間の力だけで十分!」
「皆、怯むな! 我々の敵ではない!」
「シダール陛下に認められた王国直属軍の意地を見せよ!」
侮られた竜が、怒りの咆哮を上げる。魔力をひけらかすように放出し、水しぶきを氷の礫に変えて降らせた。
竜と軍の交戦が始まる。
「きゃ……!」
思わずレンフィは岩の影に隠れて頭を抱える。
「レン……ああ、もう、大丈夫ですか!? 申し訳ありません! 不覚をとってしまい……!」
ようやく目を覚ましたらしいオレットが泣きそうな顔で、レンフィの側に参じた。マチスがそれを確認し、アザミと同じく前線に立った。
墨竜王がもっと大きな氷の塊を生み出してぶつけてくるが、器用に避けて魔法で反撃している。
「竜のことは、兄上たちに任せるしかありません。私では……悔しいですが、足手まといになってしまいます。というか、手がかじかんで、剣を持つことも難しくて……」
濡れた手袋をしていられず、オレットは素手を晒していた。すっかり血の気を失って震えている。見れば、他の軍人たちも寒さでまともに戦えないようだった。
レンフィは決意した。冷え切って感覚のなくなった手で祈りの形を作り、離れたアザミにも届くように宣言した。
「わ、私! 皆さんを片っ端から治します!」
発声練習をしておいて良かった。戦いに集中しているアザミが振り返ることはなかったが、ちゃんと聞こえていたはずだ。
全員が死ぬかどうかの瀬戸際だ。もうなりふり構っていられない。
いつものように加減することなく、その場にいる全員に治癒の光が行き渡るように力を開放する。
白い光が時折七色に輝き、凍え切った体を温かく包み、癒していく。格段に皆の動きが良くなった。
「わ、手が動きます……これなら……!」
オレットは剣を握り締め、氷の壁に向かっていった。魔力を剣に込めて強度を保ち、一点に向かって刺突を繰り返す。
「…………」
光の治癒術で皆を癒しながら、レンフィは思案する。
これで良かったのだろうか。
先ほどから攻撃が竜に効いているように見えない。アザミとマチスの剣が直接当てられるなら話は違っただろうが、竜は警戒して距離を保っている。魔法と弓矢のほとんどは氷の礫で相殺されてしまっていた。
そしてまだまだ竜の魔力に衰えが見えず、手数がどんどん増えていく。ジリ貧なのは明らかだった。
そのうちアザミとマチスに攻撃が当たるのではないかと、見ているだけで心臓が潰れそうになる。
退路の確保も時間がかかりそうだ。オレットが汗だくになって武器を振るっているが、未だに氷壁には小さなヒビしか入っていない。
この状況をひっくり返すためにも、自分も攻撃に参加した方が良いかもしれない。
しかしこの乱戦だ。使ったことのない光の精霊術を放ち、竜や氷壁以外を傷つけないとも限らない。
レンフィには自信がなかった。失敗したときのことを思うと、恐怖で足を踏み出せない。
じりじりと治癒術で霊力が消費されていく。焦りと恐怖でどうにかなってしまいそうだった。
「…………!」
霊力が半分を切った頃、レンフィは決意した。もう耐えられない。
オレットから少し離れ、魔力で塗り固められたような硬い氷壁に触れる。動く竜に攻撃を当てるのは難しそうなので、こちらを標的にすることにした。
「!」
光を手の平に集め、打ち出すようなイメージ。
細い光線が発射され、氷の壁を射抜いた。拳大の穴が開く。
「やった……できた」
今度は光線を縦に動かし、氷壁を裂いてみよう。大丈夫。できるはずだ。
レンフィは深呼吸をして、集中を高めた。
「なっ、危ない!」
オレットの焦った声が聞こえた。
振り返れば、巨大な氷柱の群れが空中に形成されていた。苛立った墨竜王がついに本気を出したのだ。
氷柱が無慈悲に崖に降り注ぎ、レンフィはそれを呆然と眺めた。




