4 白と黒の世界
遥かな昔、人間が神様の言うことを聞かなかったがために、世界は滅びてしまいました。
灰かぶりになった神は嘆き悲しみ、自らの体を白と黒の二柱に分け、創世をやり直すことにしました。
大地が健やかであるように、今度は人間と分かり合えるように。
白の神様は己の手の指を切り落として十の精霊を生み、大地の浄化と管理を任せました。
黒の神様は強き心を持つ人間を選んで己の血を与え、神に近づけるべく知恵と力を授けました。
大地と人が安定したその時、世界を完成させるために我らは一つに戻る――そう言い残し、二柱の神は別々に眠りにつきました。
それから白指の精霊たちは神の意思に従い、大地の浄化に努めました。
自然界を滞りなく循環させ、清き人間に加護を与え、管理を手伝わせたのです。
黒き神の血を宿す人間――黒脈の王もまた、神の意思に従いました。
各地で国を築いて無色の民をまとめ、暮らしを豊かにすべく奮起したのでした。
しかしやがて、黒脈の王たちはお互いの国に優劣をつけようとしました。誰が最も神に近い存在であるか競い、その過程でいくつもの血が流れ、大地が汚れていきました。
そうなれば、白指の精霊たちも黙っていられません。加護を超えた寵愛を人間に与え、彼らの争いに介入させました。
戦いは止むことはなく、激しさを増すばかり。
それゆえに今も神様は眠ったままで、世界は混沌としているのです――。
「分かった? これが子どもでも知ってるこの世界の創世神話よ!」
手作りの紙芝居が終わり、少女――レンフィは控えめに拍手を送った。
「ありがとうございます。なんとなく、分かりました」
目の前の少年少女は似た顔立ちをしていながらも、対照的な表情を浮かべている。侍女のバニラは不機嫌さを隠しもせず、見習い医療官のジンジャーは無表情を貫いている。
この姉弟はレンフィの世話係に任じられていた。年齢が近い方が落ち着けるだろう、という幹部たちの判断である。
レンフィの希望もあり、今は二人からこの世界の一般常識を教わっているところである。
「もう! なんとなくって何よっ」
「仕方ありません、姉さん。おとぎ話みたいな感覚なんですよ」
「ふん、そうね。いいわ。次! 現実的な話!」
今度はジンジャーが机の上に地図を広げて見せる。
「国家について簡単に説明します。ここが僕たちの暮らすムドーラ王国。黒き神の血を宿すムドラグナ王家が治める国です」
大陸の北東に位置する国だ。面積としては、大陸全体の十分の一にも満たない。平野よりも山間部の方が多く見受けられた。
「そしてこの大陸中央部に位置するマイス白亜教国……規模としては大陸一ですね。ここがあなたのいた国です」
「精霊の加護が最も強い国で、白亜教っていう宗教の総本山よ。マイスっていうのは初代教主の名前なんだって。精霊に寵愛されている聖人の中から教主を決めていて、国民のほぼ全員が白亜教徒なの」
地図の中央部を占めるその国名を聞いても、レンフィはやはり何も感じなかった。
「じゃあ、私も白亜教徒なのですか?」
「教徒どころか聖人よ。次期教主になれる資格を持ってた。今は霊力を封じられているから、分からないかもしれないけど」
バニラは錆色の腕輪を指さして説明した。これを嵌めている限り、霊力を一切使うことができない。外すことができるのは国王だけだという。
「あの、精霊とお話しすることはできないのでしょうか? 失くした記憶のこと、聞いてみたくて」
「僕らは魔力の恩恵を受けている人間なので詳しくはないですが、精霊は聖人の洗礼のときに顕現し、言祝をすると言われています。それ以外で人間に言葉をかけることはめったにないそうですよ。一度会ったら、それっきりのはずです」
今のレンフィには、ジンジャーが使う難しい言葉は理解できないものの、精霊を頼れないことは分かった。
自分もかつて精霊と対話したことがあるようだが、それすら覚えていない。偉大な存在に対して申し訳なく思った。
「よく考えたら、あんたってすごい人間なのよね。なのに、記憶を失って敵国の手に落ちちゃうなんて、人生って油断できないわ。素直に同情する」
バニラがしみじみと言う。レンフィはどう反応すれば良いのか分からず、居た堪れない気持ちになった。
「あの……どうしてこちらの王国と教国は戦っているのですか? 先ほどの神話では、黒脈同士で戦いを始めたとありましたが、教国の立ち位置がよく分からなくて」
ジンジャーが「良い質問です」と抑揚のない声で言った。
「では、白亜教について少しお話ししましょうか。白亜教の悲願は『白と黒の神を一つに戻すこと』――そのために黒脈の一族間での争いを終わらせようとしているのです」
レンフィが首を傾げると、バニラが鼻を鳴らした。
「白亜教の考えだと、黒脈の王がたった一人になったとき、二柱が一つになると信じられているの。だから、自分たちがふさわしいと思った黒脈の王以外は、全員根絶やしにするつもりなんですって」
「最後に生き残った黒脈の王は、いわば人間の代表――至高の王というべき存在です。白亜教は精霊の力で王の選定に干渉しようというのです。無粋ですよね」
レンフィはその乱暴な論理を上手く消化できなかった。
大地の管理をしている精霊の加護を受けながら、大地を汚すような争いを起こし、人間を殺している。
王を選ぶという行いは傲慢で、まるで神の代行者のよう。随分過激な思想の宗教だ。
「で、あたしたちの王様は白亜教に不適格の烙印を押されちゃったのよ。だからずぅっと命を狙われているの。『ムドーラは悪の王国、シダール王は残酷な魔王。だから滅ぼすべし』ってね」
「そ、そうなのですか?」
謁見の間で相対した王を思い出し、レンフィは青ざめる。確かに恐ろしかった。
「教国の言いがかりよ。最初は何だったかしら」
「即位直後の慌ただしい時期に『挨拶に来い』と命じられて、断ったんですよ。『それどころじゃない』って」
忙しい時なら仕方ないな、とレンフィは思った。そんなことで教国は気分を害してしまったのだろうか。
「ああ、そうだったわ。それで段々送られてくる使者の質が悪くなって……つい殺しちゃったのよね、元帥閣下が。使者を真っ二つ。床の掃除が大変だったわ」
「え……」
「国王を侮辱されてカッとなったそうです」
少々雲行きが怪しくなってきた。
「決定的な亀裂は、そう。白亜教国が所有する監獄を軍で強襲して、犯罪者を脱獄させたことですね」
「それは……あの、さすがに良くないことだと思います」
「ムドーラの民が冤罪で処刑されそうになっていたんだもの。助けに行くのは当然じゃない?」
レンフィは黙った。そう言われると、一概に悪いとは断定できない気もする。
「そうねぇ。でも、ついでに盗賊や山賊を助けて、王国の兵士にしちゃったのがまずかったかしら」
「ああ……」
「と言っても、迎え入れたのは小悪党だけですよ。彼らも食うに困っていたんです。今は心を入れ替えて、国王陛下に仕えています」
おかげでウチの軍は柄が悪いのよねぇ、とバニラは暢気に笑っている。
レンフィは判定を諦めた。話を聞いただけでは分からない。いや、明確な答えなど出ないのだろう。どちらにも言い分がある。
「というわけです。教国に不適格だと言い渡された以上、滅ぼされぬよう戦うしかありません」
「本当、教国の考えって、気持ち悪いわ。何様のつもりなのかしら!」
「僕もそう思います。“白”は精霊と大地の浄化だけしていればいいのに。“黒”のことに口を出さないでほしいです」
バニラとジンジャーはしばらくしてから、全く同じタイミングでレンフィを見た。
「別に、今のあんたを責めたわけじゃないから!」
「これはあくまで黒脈の王に仕える者の意見です。あちらにも、あちらなりの主張がありますので」
レンフィは曖昧に頷く。
「大丈夫です。私がこの国で嫌われる理由が分かって、納得できました」
ムドーラ王国とマイス白亜教国がしているのは、侵略戦争ではない。どちらも引けない生存競争のようなもの。戦いは完全に勝敗がつくまで終わらなさそうだ。
そして自分は教国の手先。それもかなり力を持った存在で、今までの戦争で手を汚してきた。この国の人々に恨まれ、憎まれ、命を狙われても何ら不思議はない。
ただ、レンフィにはとても信じられなかった。
全て自分に関係のある話には思えず、遠い出来事のように感じる。聖女レンフィはあまりにも隔絶した存在で、同一人物だと認識できない。
今の自分に誰かを殺してまで貫きたい意志はない。また、誰かを殺せるような力があるとは思えない。
何より、人を殺したことがあるという事実は受け入れ難い。罪悪感で窒息しそうだ。
もちろんこの姉弟が嘘をついているとは思っていない。教国側の人間から話を聞けば事実が食い違う可能性はあるが、この国の聖女レンフィへの認識は概ね聞いた通りなのだろう。
「でも……あの、大丈夫なのでしょうか。私、こんな良い部屋にいて……」
レンフィがいるのは、医務室でも牢屋でもなかった。
城と繋がった塔の一室、質の良い調度品が揃った客室だった。広さといい、清潔感といい、間違っても捕虜が寝泊まりするような部屋ではない。
「も、もてなしてはいないわよ! ここだって一応、捕虜用の部屋だし!」
「そうです。人目に付きにくくてお世話をしやすい都合の良い立地です」
地上に繋がる階段はなく、出入りは渡り廊下を使い、城を通るしかない。
窓はあるが、飛び降りれば死ぬ、あるいは全身の骨が砕けるくらいには高い位置にある。簡単には逃げられない場所ではある。
逆を言えば、レンフィに敵意を向ける人間が容易には近づけない場所でもある。
「そりゃ教国の人間に、美味しいご飯や温かい寝床を用意するのが気に入らないって人もいるけど……あたしは弱っている人間を追い詰めるような真似は嫌い。それにあんた、記憶喪失だしね。責めても意味ないじゃない」
「そうです。それに真意は分かりませんが、姫様の命の恩人なことには変わりありません。相応の礼は尽くさないと」
謁見の間で罵声を浴びたレンフィに、二人の労わるような視線は堪らなかった。ほんの少し優しさが涙腺を緩ませる。
きっと城の中でも数少ない、自分に悪感情の少ない人間なのだろう。
「そう、ですか……ありがとうございます」
無駄に広いベッドに腰掛け、レンフィは目を伏せた。
もちろんレンフィも鉄格子のある部屋よりはこちらの部屋の方が嬉しいが、環境の変化に戸惑うばかりだった。
明らかに王国はレンフィの扱いに困っている。
聞けば、昨日は緊急で会議が行われたという。こうして牢屋よりもよほど待遇の良い部屋に通されたということは、しばらくは生かしてもらえるのだろう。もしくは処刑前の最後の慈悲か。
会議の結果については、教えてもらえなかった。バニラもジンジャーも頑なに口を閉ざすのだ。きっと本人には言いづらい処断が下されたのだろう。
「……ごめんなさい。これ以上はご迷惑をかけないようにします」
王国側から何を言いつけられても、仕方がない。そもそも自分には選択肢がなかった。王国に逆らう意志も力もないのだ。自由を奪われて囚われていることに、怒りや悲しみも感じない。
ついでに言えば、教国に帰りたいという気持ちや、自由になりたいという欲求もほとんどない。もしかしたら自分を心配して帰りを待っていてくれる人がいるかもしれないというのに、驚くほど薄情だった。
空っぽ。
今の自分を表現する唯一の言葉だ。
足元が不安定で息苦しく、ほんの少しの衝撃で心臓が潰れてしまいそう。
このままではいけない。感情が動かないのに、心がどんどん弱っていく。
記憶を取り戻せれば、きっと漠然とした不安は消えるだろう。ただ、どうすれば記憶を取り戻せるか分からない。思い出せる予感すらなかった。
それに思い出してしまえば、王国側に断罪されるかもしれない。もしくは敵に囚われた現実を嘆いて、自ら命を絶ちたくなるだろうか。
いろいろな意味で身動きできない状態に、レンフィは途方に暮れていた。
「失礼しますよ。聖女殿、ご加減はいかがです?」
「へぇ、いいなぁ、俺の部屋より広い。景色もいいし」
ノックの後に入ってきたのは、見覚えのある二人だった。この王国の宰相と若い将軍だ。
立ち上がろうとしたレンフィを制し、宰相はにこやかな笑みを浮かべる。
「何か必要なものや不便なことがあれば、バニラとジンジャーに遠慮なく申し付け下さい。脚については、もう少し我慢していただくことになりますが、それもいずれ完治させますので」
「え……ありがとうございます。大丈夫です」
最初に謁見の間で顔を合わせたときと比べ、随分と対応が柔らかかった。宰相の自分を見る目が明らかに変わっている。
「それで、脚の調子は?」
若い将軍――リオルの問いに、レンフィは頷く。
「あ、歩けるようになりました。違和感はありますが、痛みはあまりありません」
今朝になって老婆が治癒魔法を施してくれ、杖をつけば歩けるくらいまで回復していた。それでも走ればまた腱が切れると宣告されているので、逃亡を防ぐ意思は感じられる。
「そっか。じゃあ今日は俺が運ばなくてもいいな」
抱きかかえられたことを思い出して、レンフィは黙って頷いた。あのときは混乱していて何も思わなかったが、今思い返すと恥ずかしい。
リオルの態度は最初から変わらないように思う。知り合いに話しかけるような自然さがあり、敵に対する負の感情が見えてこない。それはそれで不思議だった。
「これからどこかに行くのですか?」
「ええ。あなたの霊力を測定させていただきたい。会場までご案内します」
宰相は凄みのある笑顔で言う。
「その結果次第で、あなたの命運が決まります。どうか、偽らぬようご協力を」