39 生贄
「見たか、川が真っ赤に染まっていたぞ」
「じいさんに聞いた言い伝え通りだ……」
「やはりお怒りなんだろう。生贄が足りないと」
「ダメだ! これ以上は」
「ああ。儂は耐えられねぇ……」
「しかし時間がない。このままでは、我々は全員」
「身内は、もう無理だ……ならば」
村人たちは、暗い表情で頷き合った。
「しかし、軍人の目をどう欺く」
「魔物に食われた、でいい。下手な嘘は吐くな」
「そんな話、通じるもんか」
「あの口の軽い兄ちゃんから聞いてないのか? あの娘は罪人で、将軍に随分嫌われているらしい。今回も贖罪のために同行しているとか」
「……あのお嬢さんが? 人は見かけによらないな」
「軍にとっても厄介払いってことだな。きっとこれは、黒の神様の配剤だ……覚悟を決めろ」
今後の動きを取り決めて、最後に村長が呟いた。
「仕方ない。平和には犠牲が必要なんだ……」
ぞくり、とした寒気を感じて、レンフィは目を覚ました。
採光窓から薄っすらと光が差し込んでいる。夜明けが近いようだった。
「あれ……マチスさん?」
オレットを挟んだ反対側の寝台で眠っていたはずの騎士の姿がなく、レンフィは首を傾げる。
先ほど感じた寒さは、マチスが扉を開けて外へ出た際の冷気だったようだ。
マチスにとっても久しぶりの遠征だと聞いた。レンフィとオレットの世話を焼いて随分疲れがたまっていたようなのに、早起きをして大丈夫なのだろうか。少々心配になった。
魔石のエネルギーが尽きかけ、暖炉の火が弱くなっていた。マチスが戻ってきたときに寒くないように、レンフィは白い息を吐きながら、予備の石を探す。
こつん、と扉を叩く音がして、レンフィは小さく飛び上がった。
「お姉ちゃん、起きてる?」
「えっ」
レンフィはオレットを起こさぬよう、小声で問いかけた。
「ロッタ君? どうしたの?」
「うん。あの……相談があって。オレの姉ちゃんのこと」
一瞬の逡巡の後、扉を開ける前にオレットの体を優しく揺すった。
「ふぇ、レ……様? もう朝ですかぁ」
「起こしてしまってごめんなさい。外にロッタ君が来ていて……」
オレットは眠たそうな瞼をこすり、レンフィの顔をぼんやりと眺める。そして兄の姿がないことに気づき、かっと目を見開いて頬を叩いた。
「大っ丈夫です! 起きました!」
反動をつけて跳ね起き、オレットはそのままの勢いで扉を開けた。少々寝ぼけているような気がしたが、止める間もなかった。
外にはロッタが一人、泣きそうな顔で立っていた。
「あ、あの……オレの姉ちゃん、ずっと病気で……」
隙間風にかき消されそうな細い声。
「このままじゃ死んじゃうかも……お願い、治して……」
ガタガタと震えるロッタを見て、レンフィは反射的に頷いていた。
「分かりました。私でお役に立てるなら」
コートを手に取るレンフィを、オレットが止める。そしていつになく鋭い視線でロッタを見下ろした。
「ロッタ君、一つ教えて。どうしてこんな時間に尋ねてきたんですか? 村の大人たちに黙ってきたの?」
質問が一つじゃない、とレンフィは思ったが、もちろん声には出さない。
「う……あの、誰にも言わないでくれる?」
「ええ、もちろん」
ロッタは周囲を気にしつつ、真っ青な顔で言った。
「大人に見つからないように、黙ってきた。姉ちゃんはうつる病で、他の女の人たちと一緒に……閉じ込められてるんだ。村のおじさんたちに」
「な、なぜです? せっかく医療官が来ているのですから、言ってくだされば」
「大昔、同じ病気が流行したとき、医療官の手に負えなくて、村ごと焼かれたって……」
オレットは眉間にしわを寄せた。
来訪したときに感じたよそよそしさの答えが分かった。歓迎されないはずだ。
「た、確かに……そういう話を聞いたことがあります」
「言えなくて、ごめんなさい……お願いします! 一生おやつ我慢するから! 雪かきでも薪割でも何でもするから! 姉ちゃんたちを助けて!」
ぽろぽろと大粒の涙を流すロッタを見て、レンフィとオレットは顔を見合わせる。
「あの……とりあえず、様子を見に行きませんか? 治療するにしても人数が分かりませんし……もしかしたら今にも死にそうな方がいるかも」
「そ、そうですね。アザミ将軍に相談する前に、まず情報の真偽を確認しなければ」
二人は手早くコートを着込み、マチスに書き置きを残して家を出た。
「こっち……!」
薄紫と白で色付けされた朝。新雪を踏んで、ロッタの背を追う。彼は真っ直ぐ森の中に入っていった。
何かがおかしい、と頭の隅で警鐘が鳴っていた。しかしまだ幼いロッタを疑う気になれず、レンフィとオレットは歩みを進める。
すぐに古井戸に辿り着いた。
「この井戸が入り口になってるんだ。姉ちゃんは、地下にいる」
「そんなものが……」
レンフィを制し、オレットが古井戸の中を覗き込んだ。その瞬間、体がぐらつく。
「オレットさん!?」
「き、来ちゃ……ダメ……」
蹲るオレットに駆け寄ったレンフィだったが、後ろから誰かに引っ張られ、思い切り井戸の中に頭を入れられた。
目と鼻と口に、強烈な刺激を受け、意識が飛びかける。ひび割れた井戸の底から、ガスが出ているのが見えた。
「吸ったか!?」
「ああ! だが、この娘は医療官だ! 念入りにしろ!」
「縄を早く! 縛り上げろ!」
村の男たちの声に、騙されたことを悟る。
一人だったら、あるいは城で目覚めてすぐの頃だったら、きっと何もかも諦めて流れに身を任せていた。
「ぐっ」
レンフィは口の中を噛んで痛みで意識を繋ぎとめると、体を蝕むものを浄化した。加減が分からず、かなりの血が口から零れ、井戸に落ちていく。
雪の上に投げ出された後、すぐに治癒術で止血し、残りの血も吐き出した。
オレットのためにも、城で帰りを待ってくれている人たちのためにも、迎えに行くと言ってくれたリオルのためにも、簡単に命を投げ出すわけにはいかない。
絶対に死なないと、自分に誓ってこの遠征についてきたのだ。
「…………」
光の精霊術による攻撃が頭をよぎる。
しかし今はまだ心臓が激しく脈打ち、脳にも酸素が行き渡っていない。ただでさえ制御をする自信がないのだ。もう少し様子を見ることをレンフィは決めた。
『許可なく城を離れたら殺すし、臣下や民を傷つけても殺すが、それ以外は好きにしていい』
『ただし、これから陛下の不利益となったり、ムドーラの無辜の民を傷つけるようなことがあれば、その時は問答無用で叩き斬る』
レンフィは、シダールと元帥の言葉をよく覚えていた。
ここで村人を攻撃してはいけない。少なくとも、彼らの事情を知るまでは。
「…………」
いや、そもそも誰かを攻撃するという行為そのものが、自分にはできそうにない。
たとえ非の全てが村人たちにあるのだとしても。
「くそ! どうするんだ? こっちの子まで連れてきて!」
「仕方ねぇ。予備として隠しておこう。言い訳を考えねぇと……」
そうこうしている間に村人たちに両腕を後ろで縛られた。オレットは意識を失ってしまったらしい。健やかな寝息が聞こえてくるので、命の危険がある毒の類ではなく睡眠効果のあるガスだったようだ。
「一体、何のつもり、ですか……? 離してください」
これがマチスの言っていた、強引な嫁取りだろうか。しかし、軍人が滞在する時に同行者をさらうなど自殺行為だ。レンフィはともかく、オレットがいなくなれば、村中を捜索されるに決まっている。
彼らの目的が見えない。
「ああ、眠っていてくれれば、苦しまずに済んだのに」
「すまねぇ、すまねぇな……」
「許してくれ……本当に申し訳ない」
思いもよらぬほど苦渋と葛藤に歪んだ顔で見下ろされ、レンフィは言葉を失くした。
「ごめんなさい……っ」
少し離れたところで、ロッタが大泣きしている。
レンフィまでこの場の悲壮感に苛まれ、まるで自分の方が悪いことをしているような気分になった。
布を噛まされ、声を封じられる。
「頼むから、大人しくしていてくれ……あんたで足りるなら、こちらのお嬢さんはしばらく殺さない」
泣きじゃくるロッタを残し、そのまま村人の男に担がれ、森の中をしばらく進む。
嫌な気配に近づいていくのが分かり、レンフィは全身に冷や汗をかいた。冬の寒さと相まって、一気に凍えてしまう。
案の定、辿り着いたのはアヌビア川だった。
清らかな白い朝日の中でも、水面は赤い。光の加減のせいではない。川の水そのものが赤く染まっている。
やはり勘違いではなかった。この一帯は何かがおかしい。渦巻く禍々しい魔力に当てられ、レンフィは咳き込んだ。
村から少し離れた、川に面した崖の際に降ろされた。川の底が見えないほど深く、水の流れが速い。
レンフィを縛っていた縄の先に、大きな石を括りつけ始める村人たち。
ここまでくれば、何をされるか予測できた。
瞳で訴える。どうしてこんなことをするのか、と。
「仕方ないんだ。生贄を出さねぇと、墨竜王がみんなを食っちまう」
「誰かがやらないとダメなんだ。王命には逆らえん」
「せめて苦しまねぇように眠らせてやりたかったが……」
詳しい事情は分からなかった。ただ、村人たちも好きでこのようなことをやっているわけではないらしい。もうレンフィの瞳を真っ直ぐ見返すこともできないようで、黙々と作業を進める。
一人が石を持ち、それ以外の者全員でレンフィの体を持ち上げる。
ちょうど夜が明けて、世界に光が広がっていった。
「…………」
レンフィは考える。
このまま真冬の川に投げ入れられ、身動きができないまま水底に沈められたら、どれだけ苦しいだろう。怖いだろう。
「お嬢さんも、何か悪いことをしたんだろ? これはその報いだ……罪を償って、また綺麗な状態で生まれ直しておいで」
村長の言葉がひどく遠いもののように聞こえた。
もしかしたらアザミは全て知っていて、これを狙ったのだろうか。ウィロモ村が抱える問題を把握し、レンフィが王国の民に手を出せないのを承知で仕組んでいたのだとしたら。
ならば、マチスも共犯者なのかもしれない。早朝から姿を消し、今もなお助けに来ないのはおかしい。
きっとオレットは知らされていなかったのだろうけど、他の者は皆、レンフィを嵌めるために動いていたのではないか。
そこまで考えて、レンフィは思考を白紙に戻した。
あり得ない。
この数日、近くで過ごせば分かる。彼らはそんなに卑劣ではない。
アザミは職務に忠実で、誇り高い軍人だ。民を相手に殺人を唆すようなことはしないだろう。
それは信じられる。いや、どちらかと言えば信じていたい。
アザミはレンフィの罪を有耶無耶にするような真似はしないはずだ。他人の手に復讐を委ねたりしない。
レンフィを“被害者”として死なせず、きちんと“罪人”として裁きたいと思っているに違いない。
マチスもそうだ。
あれだけ世話になっておいて、何の証拠もなく疑うなんて、失礼にも程がある。少々不真面目なところはあるが、優しくて妹想いな人だ。オレットが尊敬の眼差しで見つめている限り、絶対に騎士道に背くような真似はしない。
「じゃあ、せーので投げ込むぞ」
「あまり水音を立てるなよ。氷も避けろ」
村人が声を合わせ始める。
一秒が凝縮されたように、レンフィの思考は加速する。
今のこの状況は誰のせいだろうと考え、きっと誰のせいでもないと結論付けた。
レンフィは肺に息を吸い込む準備をした。
大丈夫。諦めはしない。川に沈められても、窒息する前に光の精霊術で縄を切る。水の中なら光も弱まり、ちょうど良い威力になるはず。
傷つくとしても自分の体だけだ。いくらでも治療できる。
泳げるか少し心配だ。真冬の川の冷たさに、心臓が止まってしまうかもしれない。そもそも意識を保っていられなければそれまでだ。
弱気な心を追い出し、レンフィは歯を食いしばる。
「行くぞ、せ――」
体が投げ出される、まさにその直前。
レンフィは自分を恥じた。
確かに彼はそこまで卑劣ではなかった。そして、愚鈍でもなかったのだ。
「そこで何をしている」
アザミを中心に、第二軍の兵士たちが村人たちを取り囲んでいた。




