23 愛の証明
「え……」
マグノリアは目を見開く。
信じられなかった。
魔法で生み出した氷の刃に対し、シダールは魔力の炎で防御した。しかしレンフィを守ることをしなかったのだ。
氷の刃がかすり、レンフィは腕を押さえて座り込み、顔を苦しげに歪めている。
「何を驚いている。この娘を助ける必要などない」
シダールに言われてマグノリアは気づいた。
レンフィは光の精霊に愛された聖人で、治癒術の達人。怪我をしてもすぐに治せる。
しかし彼女は霊力を使う素振りを見せず、息を整えてふらふらと立ち上がった。シダールは見向きもしない。
「どうして治さない……」
「今夜は、シダール様を呪いから守るためにしか、霊力を使わない約束なので」
レンフィは静かに答えた。
マグノリアは二人の関係を思い、寒気を覚えた。
「そう……随分躾が行き届いている。その女は道具ってわけ?」
シダールは笑みを深めた。
この笑顔には見覚えがある。四年前、第一王子アークスを焼き殺したときと同じ、寒気がするほど酷薄な笑みだ。
「レンフィ、お前の価値を示してもらおうか。これを飲め」
硝子の小瓶をレンフィに手渡す。
「これ、ヘイズさんにもらっていた……なんですか?」
「致死量の毒薬だ。すぐには死なぬがな」
その信じ難い言葉にマグノリアもレンフィも固まった。が、意味を理解して先に立ち直ったのはレンフィだった。
「……分かりました。これでお役に立てるなら」
「なんなの、これは……なぜ」
レンフィは見ていて悲しくなるほど綺麗に微笑んだ。
「マグノリア様、どうか信じてください。本当にシダール様はあなたのことを愛しているんです。その証明のお手伝いになるなら……」
そう言って彼女は一息に小瓶の中身を煽った。
「うっ……ああ!」
レンフィはその場に倒れ伏し、直後、雪の上に鮮血が散った。
なんの茶番かとマグノリアは笑いかけ、しかし血を吐いて咳き込む少女が演技をしているとはとても思えず、顔が引きつった。
倒れて痙攣するレンフィを、シダールは満足げに見下ろしている。
「良い子だ、レンフィ。そのまま死にかけていろ。決して毒を浄化するなよ」
苦しむ少女をまたぐようにして、シダールが近づいてくる。
理解できない状況にマグノリアは戦慄した。
「何を……! 一体どういうつもり!?」
「見ての通りだ。あれは我が妃にはふさわしくない」
「そんな……何を言っているの!? お前の子どもを産める、唯一の……」
鉈を手にしていることを思い出し、マグノリアはシダールに対して構える。
「来ないで!」
「我が子を産むのは、お前の役目だ。だから戻ってこい。早く呪いを解け」
ようやくシダールの意図を理解した。
この男は、レンフィの命を盾に自分を脅しているのだと。
呪いを解かなければ、レンフィは治癒術を使えない。あのまま毒に苦しんで死ぬ。
頭では分かっている。そんなはずない。いよいよ死が近づけば、レンフィは毒を浄化するだろう。
マグノリアの思考を読んだように、シダールが背後に声をかける。
「レンフィ。分かっているだろうが、もし勝手に毒を浄化したら、春を待たずお前を殺す。そうだな、お前と最も仲の良い者に首を刎ねさせようか」
「っ!」
既に意識が朦朧としているのか、レンフィは返事をしなかった。もぞもぞと雪の上でもがき、徐々にその動きも小さくなっていく。
「そんなことしたって、無駄……あんな小娘の命なんて、どうなってもいい。何があってもわたしはお前を絶対許さない……」
「我がいつ許しを請うた。許してやるのは、こちらの方だ。……お前は俺を信じなかった」
自分を見下ろすシダールの瞳が、赤い光を宿して揺れる。
圧倒的な魔力で肌を撫でられ、思わず鉈を落とした。敵わない。呪いの力をもってしても、シダールを止めることはできないのだ。
相手はこの地に君臨する黒脈の王。敵に一切の容赦をしない残酷な魔王なのだ。
『お前しか考えられない。俺のものになれ。愛している』
マグノリアは八年前の彼を思い出す。
顔を合わせる度に口説かれていたけれど、当時は適当にあしらっていた。
黒脈の王子がこんな可愛げのない女を求めるなんて、きっと戯れか気の迷い。すぐに飽きて他の女に目移りするだろう。そう高を括っていた。
そんな彼が、たった一度だけ本気で求愛してくれた。いつになく真剣な表情に心が大きく揺れて、目を逸らせなくなった。
きっとこの人からは逃げられないのだろう、と諦めた瞬間でもあった。嫌な気持ちは少しもなくて、幸福な気持ちでいっぱいだったことを覚えている。
忘れるはずがない。一日だって思い出さない日はなかった。
「知らなかった……」
マグノリアは涙を流した。
「あの時まで、知らなかったの……あなたがそんなに強いなんて」
人生最悪の出来事の後、シダールはマグノリアを奪い返さんとアークスを殺そうとした。
『わたしは未来の王妃になるのよ! 邪魔をしないで!』
マグノリアがそんな嘘を吐いてでも止めたのは、シダールに死んでほしくなかったから。天才魔法士と謳われた自分さえ、黒脈の一族であるアークスには敵わず、蹂躙された。
もしシダールがアークスを殺せても、無事では済まないだろう。そして、国王ヒノラダがシダールの処刑を命じるのは避けられない。
だから、マグノリアはアークスの妃になるという屈辱に耐えた。愛想をつかされても、嫌われても、憎まれてもいい。シダールを守るためにその道を選んだ。
あの時、マグノリアはシダールの力を信じなかった。助けを求めなかった。
しかし、マグノリアは知った。
目の前でアークスが魔力の炎に焼き殺されたのを見たときに、自らの愚かさを悟ったのだ。
シダールがムドラグナ王家の中でも別格の魔力を持つことを。
国王も他の王子も全く敵ではなかったことを。
自分が庇ったことになんの意味もなかったことを、痛いほど思い知った。
ただただ、恐ろしかった。
シダールが自分を妃に望んだとき、一粒の希望と無数の絶望で叫び出しそうになった。
「わたしじゃ、無理……産めない」
黒脈の継承には男女の愛、あるいは強い力が必要だとされている。
水晶を七つ輝かせてなお空間を染めるほどの圧倒的なシダールの魔力。
やっと五つ輝かせられる程度の自分では力が足りない。彼の子どもを身籠っても、黒脈の莫大な魔力に耐えきれず、母子ともに命を落とすだろう。
死ねば証明されてしまう。
もうシダールに愛されていないことを。
何よりもそれが恐ろしかった。
「愛されてるなんて、思えるはずない。若い頃の話だもの。たった一度、本気で愛を囁かれた程度で……あれからわたしは、穢れて……あなたを裏切って、ひどいことを言っ……」
想いが溢れるように、涙が止まらなかった。
初夜を迎えても、どうしても信じることができなかった。
復讐されるのではないか。縋りつく自分をシダールが嘲笑って足蹴にするのではないか。あるいはまた、妃とは名ばかりの存在として冷遇されるのではないか。
愛されてなどいない。憎まれている。そうとしか思えなかった。
「どうして、わたしを放っておいてくれなかったの……あなたをただ、愛していたかった。報われないままで良かった。思い出を胸に死ねたら良かったのに……一度抱きしめられただけで、無欲ではいられなくなって、怖くて……もうそばにいられなかった」
マグノリアはシダールを愛すると同時に、激しく憎んだ。
だから背中に爪を立てて呪った。
シダールを遠ざけて、愛の有無が証明できないように。
それなのに、自分がどれだけシダールのことを想って生きてきたか、痛みとともに思い知らせてやりたかった。
そんな矛盾を刻みつけた。
「どれだけ憎まれても、わたしのことを、忘れてほしくなかった……」
この三年と少しの間、どんな思いで過ごしていたか。
いつ自分を殺しに来るだろう。今頃他の女を愛でているのではないか。自分のことを思い出して、少しでもいいから悔やんで欲しい。
そんな愚かなことばかり考えていた。
レンフィの存在を知ったとき、胸が張り裂けるような思いを味わった。
自分よりも十歳も若く、純粋無垢な美しい少女。
教国の聖女であれば、いくらでも政治利用できるだろう。その上水晶を六つ以上輝かせる霊力の持ち主だ。問題なくシダールの子を産める。
ひどい話だ。
この数日、シダールから呪いの力が剥がされているのを感じ、何もかもレンフィに敵わないのだと思い知らされ、心も体もじわじわと壊れていくような気がした。
許せない。でももう諦めて楽になりたい。愛した男の幸せを願えない自分が、みっともなくて大嫌い。
そして、今夜。
二人が連れ立って現れたのを見て、嫉妬で気が狂いそうだった。
想像以上にレンフィは美しく、穢れなど何も知らなさそうな少女だった。
自分とは真逆の真っ白で透明な存在。
最も見たくない光景を見せつけられ、冷静ではいられなかった。
しかし、実際はどうだ。
シダールはレンフィを物のように簡単に切り捨てた。あれだけ若くて美しい、才能に溢れた娘ではなく、自分を見ている。城に戻れと命じている。
その理由を、マグノリアはまだ信じられない。
「本当にお前は可愛い女だな。忘れられるはずがなかろう。何年経っても変わらない。お前以外を妃にするなど考えられぬ」
艶麗な笑みを浮かべるシダールを、マグノリアは涙で濡れた瞳で見つめる。恐怖と期待で心臓が止まってしまいそうだった。
「信じて、いいの……? 本当に、わたしを?」
躊躇いがちに小さく一歩を踏み出すと、焦れたように体を抱き寄せられた。呪いが発動し、シダールが呻く。
「一度しか言わぬからよく聞け。……守ってやれなくて、すまなかった。ずっと変わらず愛しているから、安心して戻ってこい」
「……っ」
耳元で囁かれた言葉に、マグノリアは頷いた。
もういい。たとえこの言葉が嘘で、騙されているのだとしても後悔しない。心が完全に屈服してしまっていた。
彼の言葉を信じたいから、信じると決めた。
「わたしも、ごめんなさい……あなたを信じられなくて、ごめんなさい……」
愛しい夫を抱き返し、万感の思いでその背を撫でる。
呪いが跡形もなく消え、シダールが腕の力を強めた。
「……いざ痛みが完全に無くなると、寂しくなるものだな。常にお前を感じられて、なかなか悪くなかったのだが」
思わず顔を上げた瞬間、唇を奪われた。胸がいっぱいになり、今度こそ壊れてしまうかと思った。
冬の寒さを忘れるほど熱く、甘いひと時だった。
「あ」
しばし陶酔の境地にいたが、何かを忘れていることを思い出し、何を忘れていたかを思い出して血の気が引いた。
レンフィは倒れたまま、もう身じろぎもしていなかった。
「……死んだか?」
「やめて!」
慌てて駆け寄ると、レンフィは完全に意識を失っていた。全身が汗ばみ、呼吸も浅く、顔が真っ青だった。
「嘘! 本当に致死量の毒を飲ませたの!?」
その冷たい頬に触れ、必死に呼びかける。
「死んではダメ! お願い! 目を覚まして!」
それからマグノリアは愛の余韻を味わう間もなく、レンフィの解毒に奔走した。




