19 王の寝室にて
シダールの寝室に向かう夜。
レンフィは、いつもと違うバニラの様子が心配だった。
夜遅くに男女が同じ部屋で眠る。
そのことに特別な意味があることは、なんとなく察していた。途轍もなく良くないことのような気がするが、今更レンフィにはどうしようもない。例のごとくシダールの圧に負けたのだ。断れるなら断りたかった。
いつもよりもじっくりと湯あみをし、肌触りは良いが薄い生地の黒い寝間着に着替えさせられた後、レンフィは我慢できずに尋ねた。
「バニラさん、私――」
「あ、あたしに聞かないで! 聞かれてもよく分からない! いいのよ、全部陛下にお任せすれば!」
怒っているのか、顔が真っ赤だった。
会話を拒絶されたと思い、レンフィはしょんぼりして縮こまる。ほどなくして迎えが来た。コートを着込み、出荷されるような気分で部屋を出る。
今夜の迎えはマチスではなく、老齢の侍女だった。どうぞ、こちらです、と短い言葉で案内される。無駄話は一切なく、目も合わせてもらえない。
城の最も高い場所、ごくごく限られた者しか踏み込めない区画に入り、一つの扉の前で侍女は足を止めた。
「では、おやすみなさいませ」
おやすみなさい、と返事をする間もなく、侍女は音を立てずに去っていった。薄暗い廊下はひどく不気味で寒々しい。
ここまで来ると、レンフィも怖くなってきた。もしかしたら殺されるのではないか。拷問を受けるのではないか。そんな気さえしてくる。
しかし、いつまでも廊下で立ち尽くしているわけにもいかず、躊躇いがちに扉を叩いた。
「入れ」
「……失礼します」
シダールは一人がけのソファで、酒を飲んでいた。ラフな寝間着を纏っていても、圧迫感は健在である。
部屋は間接照明で照らされており、甘さのない木の香りが漂っていた。たまにシダールから香る匂いと同じだ。
「お前も飲むか?」
「いいです」
「そうか。ではコートを脱いで、ベッドに上がっていろ」
部屋は十分に暖かった。レンフィは言われた通りコートを脱いで、丁寧に畳んでサイドテーブルに置く。
ふわふわした広いベッドに裸足で上り、座り込む。皺一つなかったシーツが小さく波打ち、なんだかいけないことをした気分になった。着慣れない寝間着の感触がこそばゆく、そわそわして落ち着かない。
「ふん、意外とそそるものだな。やはり見た目だけは悪くない」
「そ、そうですか……」
見た目以外は悪いらしい。卑屈な心持ちでレンフィは膝を抱え、つま先に視線を落とした。
「あの、今日は何を」
「言ったであろう。男女の愛について教えてやると。予習はしてこなかったのか。ザディンが用意した教師に教わっていると思ったが」
「えっと?」
グラスを置き、シダールは短くため息を吐いた。
「なるほど、知れば嫌がるだろうからな。無知な方が都合が良い、と。どこまでも哀れな娘だ。……まぁ、どうでもいいことだが」
「私が嫌がるようなことをするのですか?」
シダールは立ち上がり、ゆったりとした足取りでベッドに近づいてきた。
「捕虜の身で文句を言うな。安心しろ。初めは大変だろうが、そのうち慣れる」
ローブをはだけさせたシダールに、レンフィは後ろに這うようにして距離を取った。医務室や訓練場では男性の裸を見ることも少なくなく、その時はあまり気にならない。しかし今は全身を火に焼かれるような羞恥に襲われ、咄嗟に顔を手で覆う。
シダールの裸体はレンフィには刺激が強すぎた。
「見よ」
「え、なんか嫌です」
「レンフィ」
有無を言わせぬ低い声に、レンフィは恐る恐る手をどける。シダールは上半身裸の背をレンフィに向け、ベッドに腰かけていた。
「ひっ」
たくましい背に、六本の赤黒い傷が走っていた。血が錆びてこびりつき、肉が削られ、禍々しい黒い靄を纏っている。
「ど、どうしたんですか、これ」
「妻にやられた。ここ最近は痛くてかなわん」
シダールの妻――王妃マグノリア。
彼女について教えてくれたのはカルナ姫だけ。他の者は頑なに口をつぐみ、レンフィには一切情報を与えなかった。
「マグノリア様、ですよね。名前だけしか存じ上げず、一度も姿をお見掛けしたことがないのですが……」
「しばらく城に来ていないからな。森の屋敷で魔法の研究でもしているのだろう。ちなみに、ヘイズと互角の腕をもつ天才魔法士だ」
レンフィは感嘆の息を吐き、さらに問う。
「これはいつの傷ですか?」
「もう三年以上前のことだ。いつになく大人しいと思いきや、このような呪いをかけてきてな……本当に可愛い女だ」
シダールはくつくつと笑う。どういう神経をしているのだろう、とレンフィは真顔になりつつも、傷口をよく見た。
三年もの間消えず、痛み続ける呪いの傷。
カルナ姫が王妃マグノリアを“魔女”と呼んだことを思い出し、レンフィは寒気を覚えた。
「ものすごく嫌な感じがします。どういう呪いなのですか?」
「普段は痛みだけだ。マグノリアに近づくとさらなる激痛に見舞われ、魔力を削られる。死ぬことはないだろうが、無理をしたらどうなるか分からぬ。おかげでほとんど妻の顔を見られなくなってしまった」
わざとらしく肩をすくめるシダール。
「シダール様……何か、嫌われるようなことをしてしまったのですか?」
「はっきり言ってくれるではないか。それなりに身に覚えはあるがな」
そうでしょうね、とレンフィは内心で深く頷く。この数日で理解した。
子猫に引っかかれて痛がるレンフィを見て、美味そうに酒を飲む男だ。さぞマグノリアの神経を逆撫でる言動をしたのだろう。
「仲直りはできないのですか?」
「だから、会いに行けぬのだ」
「お手紙で謝るとか、プレゼントを贈るとか……」
「性に合わぬ。呪いをかけてくる妻に媚びるなど。大体、犬猫に釣られる小娘と違い、あの女はそんなことでは心を開かぬ。そこがまた良いのだが」
レンフィは王妃が城にいない理由を知り、複雑な気分になった。呪う妻と、呪われるようなことをした夫、どちらの味方もしづらい。
しかし目の前で痛みに苦しむ者がいる。ならばレンフィがやることは一つだ。念のために確認する。
「……治癒魔法では治らないんですね?」
「ああ。少なくともサフランとヘイズには治せなかった。ちなみにその二人とカルナと侍女長以外は呪いのことを知らん」
意外な事実にレンフィは目を見開いた。
敵国の怪しい捕虜相手に、宰相すら知らない事実を明かすとは思っていなかったのだ。
「お前も決して口外するなよ。自分と相手の命が惜しければ」
「わ、分かりました……」
今夜、このような形で呼ばれた理由を悟る。そして、最近の余興の意味も。
「治癒術を試してみても良いですか?」
「……良い子だ。話が早くて助かる」
シダールにうつ伏せで寝てもらうと、レンフィは傍らに座り込み、両指を組んだ。
光に祈りを捧げ、呪われた傷口に霊力を注ぎ込む。
「ん!?」
いつもは感じない反発を受け、レンフィは怯んだ。傷口に鮮血が滲む。
「ご、ごめんなさい、悪化して――」
「続けろ」
「……はい」
深呼吸をして霊力を研ぎ澄ませ、再び祈りを捧げた。
白い光を傷口に集中させ、優しく包み込むように作用させる。
今度は押し負けることはなく、少しずつこびりついた黒い靄が癒されていく。しかし禍々しい気に触れているうちに、心が消耗していった。
普通の傷とも、先日食べた呪われた料理とも全く違う。
完治までどれほどの霊力が必要か全く分からないほど、尋常ではなく強い呪いだ。込められた感情の重さに、レンフィは少々怖気づいていた。
「ごめんなさい、気を紛らわせていないと意識が遠くなりそうです。……王妃様と何があったのか聞いてもいいでしょうか」
「お前には少々刺激が強いと思うが……そうだな、気付にはちょうど良かろう」
シダールは微睡むような声で語り始めた。