17 誘われる聖女 その3
医務室の手伝いどころではありません、とオレットに薬草を取り上げられ、レンフィは塔の部屋に連行された。話を聞いたバニラも、混乱状態になりながらも手早く準備をする。
「食事ですって? じゃあドレス? いや、待って。犬猫と遊ぶなら……ああ、本気か分からない! もう! 陛下ったら!」
結局、先日町で買ったワンピースを着ることになった。
淡い紫のシンプルなデザインで、レンフィも気に入っていた一着だが、着飾ってもあまり心が躍らない。すっかりカルナ姫のお茶会がトラウマになっていた。
「ああ、可愛らしいですね。花の妖精さんみたいです」
慌ただしくしている間に鐘が鳴り、迎えに来たマチスについて歩く。
「うーん、浮かない表情をされていますが、何か不安がありますか?」
「それは……ごめんなさい。陛下とはほとんどお話ししたことがないですし、言葉遣いや食事のマナーも勉強中で、失礼なことをしてしまうんじゃないかと心配で……」
宰相が手配してくれた教師からは、一般常識や教養の他、マナーやエチケットについても教わっていた。しかし可もなく不可もなくという評価である。自信がない。
「あはは、そんなに気にしなくていいですよ。陛下は恐ろしく見えて、意外と寛容なんです。僕なんて、警護中にあくびをしても怒られませんでしたから」
「そ、そうですか……」
「ああ、でも、機嫌が悪いときはダメですね。くしゃみしただけで魔力の炎が飛んできたんです。避けたら高い絵画が燃えて、宰相様に怒られちゃったんですよー」
なんとなく、この騎士には問題がある気がした。レンフィは話を鵜呑みにしないと心に決める。
そんなことを話しているうちに到着した。国王の生活圏が思いのほか近かったことに、レンフィは内心驚く。普段通らない廊下や階段を使ったせいか、ほとんど人を見かけなかった。
「陛下、レンフィさんをお連れしました。さぁ、どうぞ」
促されて中に入ると、サロンだった。
いくつかソファが配置され、そのうちの一つにシダールがだらしなく座っている。温室で出会った犬も尻尾を振って待っていた。
国王専用の食堂に案内されると思っていたレンフィは拍子抜けし、幾分気が楽になった。バニラの判断は正しかった。ドレスを着ていたら完璧に浮いていた。
「適当に座れ」
「はい」
「酒は?」
「飲んだことありません。えっと、失礼します」
シダールの斜め向かいの席に腰掛ける。
「果実水を用意してやれ」
「かしこまりました」
控えていた従者たちが手早く飲み物と食事を置き、ついでに犬用のご飯も用意して下がっていった。犬の食事の音以外は無音になる。
「…………」
改めてシダールの存在感に押しつぶされそうになった。
艶のある繊細な美貌とは裏腹の、圧倒的な力の圧。
神の血を宿す黒脈の王という存在を知った今だからこそ実感する。普通の人間とは隔絶した生き物なのだと。
冷や汗が背中を伝う。犬がいるとはいえ、まさか一国の王と二人きりにされるとは思わなかった。
歓迎している様子のないシダールに対し、レンフィはありったけの勇気を振り絞った。
「陛下、あの、お、お招きいただき、ありがとうございます。とても光栄です……」
「心にもないことを」
「う」
「お前は我が臣でも民でもない。ついでに言えば、客でもないな。陛下と呼ばれる筋合いもない。気楽に過ごせ」
不可能なことを言わないでほしい。ますます緊張する。
シダールが一人でワインを飲み始めたので、レンフィも林檎ジュースらしき液体を口にした。
「……ふっ!」
あまりの酸っぱさにレンフィはむせた。吐き出さなかった自分を褒めてあげたい。生理的な涙がじわりと込み上げてくるが、これも堪えた。
「原液で飲んだのか。はちみつか別の果汁を混ぜろ」
「そうします……これは、ルルナ林檎のジュースですか?」
シダールが品種改良して作ったという林檎。ドライフルーツにすれば美味だが、生のままだと食べられないと聞いた気がする。
「ほう、知っていたか」
「町のレストランに行ったときにいただいて、いろいろ教えてもらいました。美味しかったです」
あの日のことを連鎖的に思い出し、レンフィは小さく頬を緩めた。
「ああ、そうだったな。リオルに頼まれたことがあった」
「リオルが」
「昔殺し合っていた男に懐くのは、どういう心境だ? 施しを受けて屈辱を感じないのか?」
シダールが嘲笑を浮かべる。
レンフィはしばし考え、シダールの望みとは違うであろう答えを返した。
「昔の自分のことが全然分からないので、殺し合っていたと言われても信じられなくて……でも、昔のことを覚えているのに優しくしてくれるリオルは、すごいと思います。いつも助けてもらって、感謝しています」
昔の聖女レンフィがリオルのことをどう思っていたのかは分からない。
憎んでいたのか、無感情だったのか、それとも敵だから仕方なく反発していただけなのか。
欠片でも感情が残っていれば少しは違ったのだろうが、今のレンフィには何もない。なんのフィルターを通さず、透明な状態でリオルという人間を見れば、優しくて頼もしい存在、という答えしか出てこない。
また、屈辱を感じられるほど、今のレンフィには矜持がなかった。
案の定シダールは眉間にしわを寄せた。
「つまらん」
「ごめんなさい」
「いちいち謝るな。……食っていいぞ」
改めてレンフィはテーブルを見た。
大きなプレートの上に、一口サイズの料理が綺麗に盛り付けられていた。コース料理ではなく、一皿で一食分ということらしい。レンフィにはちょうど良い量であった。
一つ一つの料理が芸術品のように飾られ、どのような味がするのか見当がつかない。こういう場合のマナーや作法も分からず、とりあえず端から順番にいただこうと、レンフィはフォークを掴んだ。
「いただきます」
「言い忘れていた。その料理の中にハズレが三つある」
伸ばしかけた手を止め、レンフィはシダールを見つめる。
「一つは植物性の毒、一つは魔法性の毒、一つは呪いがかかっている。それらを避けて完食せよ」
「えっ、なぜそんなことを」
「余興だ。なに、心配は要らん。光の精霊に寵愛を受けたお前ならば、毒の類は効かない。呪いが効いても体が痒くなる程度だ」
食事に招かれて、堂々と毒を盛られるとはひどい話だった。たとえ体に問題はなくとも、気分は悪い。
恐ろしいことにしばらく忘れていたが、捕虜の身だという事実をレンフィは思い出した。
「霊力が強い者は総じて勘も鋭いと聞く。特に魔力には敏感だろう。さほどお前に不利というわけでもないぞ」
「わんっ」
犬の応援を無駄にしないよう、レンフィは集中して料理を見つめた。息を深く吸い、ゆっくりと吐き出す。目の焦点を少しぼかして視野を広げると、別の世界が浮かび上がってきた。
「あ、なんか、あからさまに嫌な感じがする料理があります」
右端の肉団子っぽいものと中央の魚のマリネのようなものは危険と判断し、小皿に移す。
もう一つは見当がつかない。直感を信じ、泣く泣くデザートの葡萄色のムースを避ける。
「それでいいのか?」
「はい……」
答え合わせのため、レンフィは恐々と食べ始めた。せっかくの料理なのに、味わう余裕がない。
「うっ」
順調に進んでいたのだが、マッシュポテトを口にした瞬間、舌が痺れた。
霊力を巡らせると全身がぴかっと光り、ただちに毒が浄化される。
「残念だったな。それには植物性の毒が盛られていた。残り二つは正解だ。あとは安心して食え」
レンフィはそのままマッシュポテトを飲み込み、甘みを加えた林檎ジュースで口直しをして唸る。
マッシュポテトはリリト芋で作っていると読み、一番に候補から外していたのだ。完全に裏をかかれた。まさか思い入れがあるだろう芋の料理に毒を盛るとは思わなかった。
無言で残りのプレート上の料理を食べ終える。
気づけば、シダールがにやにやと意地の悪い笑みを浮かべていた。
「感想を聞かせよ」
レンフィは少し腹を立てていた。記憶を取り戻してから、怒りの感情が芽生えたのは初めてのことだ。
捕虜である自分はともかく、食べ物に罪はない。料理人や食材の生産者も悲しむ。
リオルたちが誇らしげにリリト芋のすごさを語っていたことを思い出すと、切なくてたまらなかった。
「食べ物で遊ぶのは良くないと思います」
レンフィはむすっと呟くと、小皿に避けていたハズレの二品に手を伸ばした。口にした瞬間不快な感覚があったが、ピカ、ピカ、と立て続けに毒と呪いを浄化する。
最後に安全な葡萄色のムースをいただき、レンフィは指を組んで感謝と祈りを捧げる。
「全て、とても美味しかったです。ごちそうさまでした」
気分を害しただろうかと、レンフィは恐る恐る王の様子を伺う。シダールは心なしかご機嫌な様子でワインの香りを楽しんでいた。
「そうか。確かに、食べ物を損なうのは良くないことだ。子どもでも知っていることだな。では、今度はもっと楽しめる余興を用意するとしよう」
「……今度?」
「完食した褒美だ。思う存分遊んでいいぞ。猫の親子はあちらの部屋にいる」
聞き捨てならない単語が聞こえたが、レンフィはじゃれついてきた犬と可愛さの権化ともいえる猫たちを前に、深く考えることをやめた。
それから、毎日のようにレンフィはシダールの元へ招かれるようになった。
毎回必ず余興と称した試験が行われる。これだけ続けば言われずとも悟る。シダールはレンフィの力を見極めたい、あるいは、高めたいと思っているのだろう。
本当に王妃にするつもりなのだろうか、とレンフィは困惑した。
シダールからは特別な感情を向けられている気がしない。捕虜としてはあり得ない厚待遇には深く感謝しているが、玩具にされているとしか思えなかった。
逆らうこともできず、取り立てて嫌な指示でもなかったので、粛々と命令をこなす。
ある時はカードゲームをし、ある時は魔石の鑑定を教わり、またある時はシダールの実験用の温室に連れていかれた。
「この植木を癒せ。根腐りしかけているのだ」
「これもシダール様が品種改良をしたのですか?」
「ああ、しかし少しばかり配分を誤った」
レンフィは新種の植物に霊力を注ぎ込んだ。人間とは勝手が違うせいか、最初はてこずったが、七色の光を受け、徐々に葉が瑞々しさを取り戻す。
魔力と霊力は相反するものでありながら、元は同じ力。反発することなく、緑の中に溶け合う。
「もう良い。今日の用は済んだ。遊んでいいぞ」
「はい!」
動物との触れ合いは、レンフィにかつてない癒しを与えた。
人間とは違い、何のしがらみも遠慮もなく心を通わせられる喜び。愛せば愛しただけ反応がある満足感。
犬一匹と、猫数匹に囲まれ、レンフィは至福の時を過ごしていた。この時間だけはリオル不在の寂しさが和らぐ。
「あの……この子たちにはシダール様の手は加えていませんよね?」
「必要なかろう。大体、動物の遺伝子をいじるのは好かん。痛がるからな」
遺伝子がなんなのかレンフィには分からなかったが、シダールが動物には愛情を持っていることは伝わった。
やんちゃな犬の名前はリリック、少しクールな母親猫の名前はルルミーという。子猫たちはまだ名前がないそうで、毛の色で呼んでいる。
リリト芋とルルナ林檎の名前は彼らの親、シダールが初めて飼っていた犬と猫が由来らしい。それを聞いてしまうと、あれだけ恐ろしかったシダールへの印象が和らぐ。“残酷な魔王”というのは、やはり教国の誇張表現だったのだ。考えてみれば、臣下や民、犬猫までもがシダールを敬い、慕っている。悪い王のはずがなかった。
シダールの素っ気ない態度は変わらなかったが、レンフィは徐々に二人きりでも緊張しなくなっていた。
「今日はやけに機嫌が良いな」
ある日、シダールに問われ、レンフィははにかみながら頷く。
「そろそろ巡回から皆さんが戻ってくると聞いたので」
最近は天候も悪くなかったため、予定通りリオルたちの班が帰還するだろう、とオレットに聞いたのだ。早ければ明日、遅くても二、三日以内には会える。すぐに会えなくても、一目元気な姿を見られたらいい。
そんなことを考えて、レンフィは浮かれていた。
「なるほど、察した。ふむ……そろそろ試してみても良いか」
シダールはからりと晴れた冬空を見上げた後、艶やかな微笑を見せた。
「レンフィ。明日の夜、我が寝室へ来い」
「夜に陛下のお部屋、ですか?」
初めての命令に、レンフィは首を傾げた。
「ああ、お前に男女の愛について教えてやろう」