16 誘われる聖女 その2
リオルが巡回に出る日の朝、レンフィは見送りに行った。
ガジュたちに見つからないよう、そっと餞別を渡す。
「荷物になったらごめんなさい。負担になってもごめんなさい。でも、お守りの代わりに……受け取って」
「え、俺に? ……ありがとう」
「じゃあ、あの、行ってらっしゃい……!」
途中で恥ずかしくなってろくにリオルの顔を見られず、レンフィはその場から逃げ出した。しばらく会えないのだから、もっとゆっくり見送れば良かったと、しばらくしてから後悔する羽目になった。
話は町に遊びに行った日の翌日まで遡る。
レンフィは泣いて腫れぼったくなった目でバニラに訴えた。
「刺繍を教えて欲しい? 本じゃ分からない? ……念のために聞くけど、どうして?」
「……リオルに、お礼がしたくて」
日頃の感謝の気持ちを込めて、雑貨屋で購入したハンカチに刺繍をして贈りたい。レンフィがそう伝えると、バニラは目を剥いた。
「はあぁぁぁ、あの馬鹿のせいでややこしいことに……」
バニラは大層苦悩した。
リオルのことはよく知っている。何せ彼は軍に入ってからずっと医務室の常連なのだ。祖母の治療を手伝うこともあるバニラにとって、手のかかるお兄さんという感覚で接していた。彼が将軍になってからも敬語を使わない程度には親しい。
ゆえに、こういう場面も何度か体験済みである。
「分かるわよ。あんたの立場を考えれば、そういう気持ちになっちゃうのも。そりゃリオルはああ見えて国を背負って立つほどの男だし、基本的に良い奴だし、顔だって整ってる方だもんね。あれだけ世話を焼かれたら、グラグラしちゃうわよ。……でも結構いるのよ? あいつに優しくされて、その気になっちゃう女」
「その気って、どういう気ですか?」
「ああ、いいの、気にしないで! 気づかないで!」
その気になった女たちの末路は、語るまでもない。精神的に一刀両断された。
リオルは誰にでも優しく、誰にも執着しない。意外にも難攻不落の男なのであった。
「ちょっと待った。そもそもこの子の場合は……」
「バニラさん?」
バニラの分析によると、他の女たちと違い、レンフィのそれが恋愛感情かどうかは微妙なラインだ。
記憶を失った無垢な状態で、敵国で散々な仕打ちを受けたレンフィにとって、現在最も自分に優しく頼もしい存在がリオルなのである。
恋愛か親愛か、はたまた依存か刷り込みか。
どちらにせよ、良くない傾向である。
バニラの仕える主君・シダールの妃になるかもしれない少女が、他の男に夢中になっているという状態。自分をレンフィの世話役に任命した宰相にどう報告すればいいのか。バニラも場合によっては責任を問われかねない。
しかしやっと立ち直ったレンフィから、リオルを引き離すのも躊躇われた。世話焼きの長女気質が仇になり、バニラはすっかりレンフィに情を移してしまっていたのだ。
「ごめんなさい。やっぱりご迷惑ですよね。自力で頑張ってみます」
「ああ、もう! 刺繍を教えるくらい、別に構わないわよ!」
「本当ですか?」
ただし、とバニラは念を押す。
「リオルに何かを贈るのは、最初で最後にしなさいね」
「……なぜですか?」
「なぜって、それは……ほら、リオルの負担になるじゃない? 一度くらいならいいと思うけど、そう何度も渡したらおかしいし……」
レンフィはしばし考え、頷いた。
「それですね。最初で最後にします。だから、頑張ります!」
それからレンフィは時間を見つけては、バニラと一緒に刺繍の練習をした。縫い付けるのは、ムドーラに伝わるお守り効果のある魔法陣を模したもの。
これがなかなか難しく、裁縫初心者、というより記憶のないレンフィは苦戦した。何度も糸を絡め、布を歪ませ、針で指を刺す。表側は綺麗に刺せても、裏側がひどい状態になっていたりした。
「まぁ、いいんじゃない? これくらいできたら十分よ」
「あ、ありがとうございます……」
ようやくバニラに及第点をもらい、いざ購入したハンカチに針を刺そうとしたが、緊張で手が震えてなかなか取り掛かれなかった。雑貨屋の店主の厚意によって予備があるとはいえ、二枚とも失敗したら後がない。
そうこうしている間にリオルが巡回に出ることになり、レンフィはついに決心をした。二徹して二枚の刺繍を終え、出来の良いものをリオルに餞別として渡した。
「もう一枚は、少し歪んじゃったんですけど、良かったら……」
「え、要らないわよ。リオルとお揃いになっちゃうじゃない。変な噂が立ったらあたしの婚活に差し障る」
バニラにすげなく断られ、レンフィは消沈して引き出しにハンカチをしまった。
彼は使ってくれるだろうか。ううん、迷惑ではなかっただろうか。期待と不安でドキドキが止まらず、しばらくはリオル不在の寂しさを感じなかった。
三日が経った頃、レンフィは気づくとため息を吐くようになっていた。
相変わらず医務室と第三軍の手伝いをしているが、ふとした瞬間に心にぽっかり穴が開いたような虚無感を覚える。心なしか世界もくすんで見えた。
「レンフィ様、元気出してください。その、こういうとき、何と言えばいいのか分かりませんが……」
「ああ、すみません。ぼうっとしてしまって……そろそろ薬草を補充しに行かなきゃ」
「お供します」
レンフィはオレットとともに、薬草用の温室に足を運んだ。
カルナ姫がお茶会を開いた温室に比べると華やかさに欠けるが、不思議と落ち着く場所だ。魔石で気温が一定に保たれており、お昼寝したくなる環境である。
天井に吊るして乾燥させていた薬草に手を伸ばしたとき。
「わんっ」
黄金色の塊がレンフィに擦り寄ってきた。鼻息が荒く、目はキラキラ。ふわふわの毛並みが肌に当たってくすぐったい。
「こ、これは」
「犬ですね!」
「これが……犬!」
知識としてその存在は知っていたし、犬の映像も思い浮かべることはできる。しかし、実物を見るのは記憶を失ってから初めてのこと。人間以外の生きた動物は鳥くらいしか見たことがなかった。
レンフィは、自分の周りをぐるぐる走る犬と同じくらい興奮した。
躊躇いがちに首筋を撫でると、犬は嬉しそうに目を細め、尻尾を揺らした。子犬と成犬の中間くらいで、まだまだやんちゃ盛りと言った様子だ。
「か、可愛いいい……!」
「随分人懐っこい子ですね。でもなぜこんなところに……あ、もしかして」
膝に前足をかけてきた犬をレンフィが抱き上げたとき、温室の壁に二つの影がよぎった。
「兄上! ……と、陛下!?」
現れた男の一人はシダールだった。仄かに赤い光が灯る瞳で値踏みするように見下ろされる。思わぬ遭遇に、レンフィは体を硬直させた。
一方オレットは跪いて礼をしつつも、ちらちらともう一人の男性に視線を送る。
「あ……初めまして、レンフィさんですよね。僕はマチス・ソシュールと言います。シダール陛下の護衛騎士で、オレットの兄です。なかなかご挨拶する機会がなく、すみません」
甘い顔立ちの男性だった。華やかな騎士服がとてもよく似合っている。いかにも貴族という外見でありながら、雰囲気はふんわりと柔らかい。
「え、えっと、その、初めまして。いつもオレットさんにはとてもお世話になっています」
「そうですか。妹が役に立てているのなら良かったです。あ、その子のお散歩中だったんですよ。ほら、おいでー」
「あ、勝手に抱っこしてごめんなさい」
マチスが呼んでも、犬はいやいやと言わんばかりにレンフィに体重を預け、降ろそうとしても応じなかった。
しかし。
「来い」
シダールが一言命じたら、凄まじい勢いでレンフィの腕の中から飛び出した。さっき暴れまわっていたのが嘘のようにシダールの足元で行儀よく座る。
腕の中からぬくもりが消え、レンフィは物悲しくなった。心細くなったと言い替えてもいい。恐ろしい国王の前で、寄り添う相手がいなくなってしまった。
「レンフィ」
「は……はい」
シダールが犬とレンフィを交互に見て、軽く頷く。
「動物は好きか?」
思考すること三秒。レンフィは素直に頷くことにした。
「はい。でも、他の動物はほとんど見たことがないので、分からないのですが……」
「そうか。では、遊びに来るか? こいつも珍しく喜んでいた」
思考することたっぷり十秒。
シダールが何を考えているのか分からない。今までずっと放置で、随分と久しぶりに顔を合わせるというのに、いきなり何を言っているのだろう。
怖い。行きたくない。でも王の誘いを断るなど失礼だ。もしシダールが気分を害したらそれだけで殺されるかもしれない。
いつかはシダールと話さなければいけないと思っていた。ずっと気が進まなくて先送りにしていたツケが思わぬ形で現れただけだ。
犬と遊ぶ。
それ自体は、非常に魅力的な誘いではあるのだし……。
焦れたのか、シダールが無表情で呟く。
「猫もいるぞ。子猫が産まれたところだ」
「行きます」
その最後の一押しが決め手となった。
「では、夕の鐘が鳴る頃、マチスを迎えに寄越す。食事はこちらで用意してやろう」
返事を待たず、国王と騎士と犬は去っていった。
「……食事?」
レンフィは騙された気分になった。
子どもを誘拐する手口