エピソード0 全てを託す聖女
雪が大地を白く塗り潰していく。
「ああ、最後の条件が揃ったね……でも、そうか。あまりにも捧げられた記憶に関わりすぎていて、“時の再生”は不可能か」
ウツロギは目を閉じ、祈った。
「ならばせめて……白指の精霊、そして、白と黒の神々よ。ほんの欠片でも構わない。どんな形でもいい。レンフィに“彼女”の失われた想いを少しでも――」
**********
寒くて、心細い。
どうしてこんな目に遭うのだろう。やはり自分の人生は呪われているとしか思えない。
「はぁ、朝まで止みそうにないな……洞窟ごと埋まりそうだ」
彼の独り言だと判断し、レンフィは無言を貫いた。
雪山でムドーラ兵と交戦中、崖が崩れて急勾配を滑り落ち、そのまま遭難して夜になった。
降雪が激しく、現在地も方角も分からない。十分な装備もなければ、雪山で一夜を明かす知識もない。
レンフィは仕方なく敵である少年からの提案を受け入れた。治癒術で彼の折れた足を治療する代わりに、彼の魔力と魔石で焚火を用意してもらう。こうして雪をしのげる洞窟を見つけられたのは、不幸中の幸いだった。
「俺はムドーラの男だから寒さに強いけど、お前は違うだろ。感謝しろよな」
沈黙に耐えられなくなったのか、今度は明確に話しかけてきた。レンフィはそっぽを向いて答える。
「……そちらこそ、足を治してあげたこと感謝してほしいです」
「感謝してほしかったら全部治せよ」
「嫌です」
レンフィは膝を抱えて焚火の側に座り込み、少年は焚火の反対側で寝転がっていた。折れた肋骨が内臓を傷つけ、痛んでいるのだろう。彼の額に脂汗が浮かんでいる。
凍死の心配はなくなったが、気を抜くことはできない。
相手が怪我を負っているから、かろうじて一時休戦が成り立っているだけ。世界がひっくり返っても、和やかに時を過ごせる相手ではない。
彼とはこの数年、何度も戦場で顔を合わせている。一度ならず二度も三度も殺し損ねたのはこの少年だけだ。
最初はそれほど本気で戦っていなかった。教国軍のために殺せる敵は殺すけど、一撃で仕留められないのなら見逃すこともある。
しかし、この少年は別だ。遭遇する度にどんどん強くなっていき、今では手加減などできなくなっている。それでも殺しきれない。
驚きはあるが、レンフィに悔しさはなかった。
時に憎まれ口で煽り、彼と一対一で戦ったりもするが、そうすることで自分が足止めされるように仕向けているだけだ。戦場全体の死者が減るのなら、それは世界のためになる。
浄化のために精霊に与えられた力を殺戮に使い、大地を汚す。
その罪深さを思うと、今のこの時間は罰なのかもしれない。
いっそのこと雪に埋もれて死んでしまった方が良かったかもしれない。
教国に帰りたくない。
きっと遭難した不手際を理由に、また教主から折檻を受ける。教主に近づくと霊力封じの腕輪が作用するため抵抗ができず、少しでも反抗的な態度を見せれば無関係の人間が殺される。
予想できる未来に憂鬱な気持ちが加速していく。
それでも自分には教国に帰るという選択しかない。
帰らなければ、今度は幼い妹の誰かが同じ役目を負うことになる。こんな辛い想いを誰かに押し付けて楽になるなど、レンフィには考えられなかった。
それ以前に、今まさに逃亡したとみなされて、姉妹たちがひどい目に遭っているかもしれない。早く帰らなければ。そんな焦りで心の中がぐちゃぐちゃになっていた。
「みんな心配してるだろうな……」
少年の呟きが、ひどくレンフィの気に障った。
自分の帰りを純粋に心配している人などいない。世間では“白虹の聖女”ともてはやされているが、実際は利己的で欲深い大人たちに利用されているだけだ。
例えばレンフィが怪我をしても、病気をしても、心からその身を案じてくれる者はいないだろう。いなくなった時の不都合を気にされるだけ。
最近では妹たちもレンフィを煙たがっている。レンフィが何かミスをするたびに、連帯責任で食事を抜きにされていると聞いた。そうやって精神的に孤立するよう、教主が情報を操作しているのだろう。
「心配? おかしな話ですね。仲間のことは大切に想っているなんて」
無意識に嫌味を言っていた。いつもだったら黙って聞き流せるような言葉が我慢ならなかったのだ。
「なんだと?」
体を起こした少年と睨み合う。それから何故か言い合いになった。
「ムドーラ王国なんて、野蛮で残酷な悪い国です。滅ぼされて当然です」
「そんなことねぇよ。シダール様が王になってから随分変わった」
「ああ、そうですか。良かったですね」
「信じてねぇな? 一回見に来い。つーか見せてやる。絶対に白亜教国よりも良い国だって証明してやっからな! 覚えてろよ!」
そうかもしれない、とレンフィは自嘲気味に口元を緩めた。
ムドーラ王国は確かに変わりつつある。愚王の悪政に終止符が打たれ、軍全体もにわかに活気づいてきている。親兄弟を虐殺して玉座に就いたシダール王を非難する声は大きいが、滅びかけていた国を立て直したのは事実。
これからさらに手強くなるに違いない。
そう言えば、昔ムドーラのとある村で立派な志の軍人に会った。もう少し生きていれば、きっとあの人の王家への忠誠心も報われていただろう。
口の中に苦いものが広がった。あの時も、自分は何もできなかった。
ムドーラ王国を侮辱する資格などはない。レンフィはそれを思い知らされた。
教国上層部は悪事で私腹を肥やしている。醜い真実を綺麗な嘘で塗り固め、精霊の力を本来とは真逆の目的のために使用している。
神々と精霊への冒涜だ。
どうして自分は言いなりになっているのだろう。教主がちらつかせる“救いの時”が本当に訪れると信じているわけではないのに。
「本当、教国って一体どうなってるんだよ。兵の命を使い潰すような作戦ばっかり。お前、そんな国のために戦って、楽しいのかよ」
少年の言葉が、空っぽの心に虚しく響いた。
楽しいなんて感情、もう何年も味わったことがない。喉の奥から悔しさがせり上がってくる。
「何も知らないくせに勝手なこと言わないで!」
思わず叫んでいた。このように感情を顕わにしたことすら随分と久しぶりで、レンフィはショックを受けた。
「お前だって何も知らねぇだろ!」
怒鳴り返されて泣き出しそうになるが、もう何も言い返せない。
少年もまたバツが悪そうに顔を背けた。
その気まずい空気のまま、夜は更けていった。
少年は呻きながら眠りに落ち、レンフィもまた座り込んだまま目を閉じた。
「…………」
レンフィは自分自身に失望していた。
物心ついた頃、世界には祝福の光に溢れていた。
血の繋がった家族から引き離されても、同じ境遇の優しい姉と可愛い妹たちがいる。厳しい修練が課されても、自然の息吹を感じられて心地よく思える。
世界を愛し、世界に愛されていることを実感し、レンフィは幸せだった。
もう二度と、あんなに眩しくて温かい世界を感じることはできないだろう。
視界は常に血で真っ赤に染まり、心身ともに冷え切っている。
ある者には道具として見下され、ある者には偶像として崇められる。
誰もレンフィを人間として見てくれない。
どうしてこんなことになってしまったのか。
何か神々に見捨てられるような行いをしただろうか。
いや、神のせいにしてはいけない。
もしかしたら、ほんの少し勇気でこの閉塞した状況から抜け出せるかもしれない。
だけどその勇気がない。自分の代わりに犠牲になる誰かのことを考えて、動き出せずにいる。感情を捨てて、これ以上悪い事態にならないようにだけ考えて命令を遂行するだけ。
本当に人形みたいだ。生きている意味がない。
思考が暗い方向に沈み込み、声を殺して涙を流すうちに、レンフィはいつの間に眠りに落ちてしまった。
そして、はっと目を覚ます。
「え……?」
いつの間にか、肩に上着がかかっていた。ムドーラの軍服――間違いなく少年が着ていたものである。
意味が分からず、レンフィは狼狽した。
少年は険しい表情のまま眠っていた。
魔石を燃料にした焚火があっても、洞窟内は冷えている。たとえ怪我で体が火照っているのだとしても、ただ上着を脱げばいいだけだ。わざわざレンフィに上着を貸す理由はない。
寒くないように、かけてくれたのだろうか。
分からない。怪我を負っているのに、敵同士なのに、直前に祖国を侮辱した相手なのに、どうして優しくするのだろう。
「…………」
久しぶりに人間扱いされた気がして、体温が見る見るうちに上昇していった。
混乱したまま、レンフィは上着を返そうと少年のそばに寄る。
肋骨に手を当てて苦しげに眠る姿に罪悪感を覚えて、無言で治癒術を施した。呼吸が楽になったのを見て、その体に上着をかける。
その時、こつんと何かが地面を跳ねる音がした。
上着から何かが落ちたようだ。
「あっ……」
大切なものだったらどうしよう、とレンフィは転がっていくものを追いかけて、洞窟の入り口に近づいた。
ふと外を見れば雪は止み、空が白み始めていた。
積もった雪が朝日を受けてキラキラと輝き始める。
世界が塗り替わる一瞬、新しい一日が始まる瞬間を初めて見た。
あまりの美しさにレンフィは息を呑む。白くて汚れのない無垢な世界。
「きれい……」
光が洞窟の中にも届き、足元で何かが光った。くすんだ金色のくるみボタンだ。それを拾い上げる。
「ん……?」
少年が覚醒する気配を感じ、レンフィは飛び上がった。
今、どんな顔をして、何を言えばよいのか分からない。
「っ!」
レンフィは衝動的に洞窟の外に飛び出す。
朝の澄み切った空気を吸い込むと、肺が悲鳴を上げた。だけど体の芯が熱くて凍える暇はなかった。
ボタンを持ってきてしまったことに気づいたのは、なんとか雪山から生還してからだった。
人のものを盗んでしまった。その事実にレンフィは震えた。
分かっている。こんなどこにでもありそうなボタン一つくらい、相手は気にしないだろう。上着からボタンがなくなったことにすら、気づいていないかもしれない。
捨てて、なかったことにしてしまえばいい。そう思いながらも、レンフィはそのボタンを手放せなかった。
これは無償の優しさの証。そのような綺麗なモノがこの世界に存在し、自分が確かに触れたことの証明だ。
その後、少年と戦場で顔を合わせても、お互いに遭難した時の話はしなかった。それどころか二人はますます激闘を繰り広げるようになった。
お互いに敵に情けをかけてしまった。その事実を吹き飛ばそうと力をぶつけ合ったのだ。
それでいて、レンフィは少年に感謝をしていた。
彼は本当に強くなった。もう手加減は全くしていない。本気で戦える唯一の相手だ。心の中にある苦しみやわだかまりを全て込めて、水の刃を振るう。
それでも死なないでいてくれるから、自分に向かってきてくれるから、嬉しい。
あの一夜は苦くて痛ましい記憶でありながら、レンフィにとって忘れ難い時間だった。
だから辛い日々に耐える中、時折彼のことを思い出し、ボタンに触れた。
いつか返そう。感謝の言葉をちゃんと伝えよう。敵に敬意を表することは禁じられていない。
どちらかが死ぬその日まで、大切に持ち歩くことにした。
絶望の終わりは唐突だった。“救いの時”が訪れたのだ。
目の前で幼い妹たちを惨殺され、絶望の記憶を捧げる儀式を受け、全ての真実を聞かされた。
レンフィの目の前は真っ暗になり、もはや呼吸をするのも億劫だった。
このままじわじわと全ての記憶を失い、“新しい自分”がまた教主とその息子の言いなりになる。耐えがたい屈辱である。
しかし「死にたい」という感情すら希薄で、レンフィは茫然自失のまま牢の中で座り込んでいた。
何も守れなかった。なんの意味もなかった。もう取り返しがつかない。
「…………っ」
今、五歳の時の記憶が消えた。大好きだった姉たちの顔も名前も思い出せない。記憶が消えていく恐怖に耐えきれず、目を閉じて耳を塞ぎ、ついに呼吸を止めた。
いっそ眠ってしまえば、何も感じずに“今の自分”を終わらせられるだろうか。
「しっかりしろ!」
誰かがレンフィの頬を叩いた。
見覚えのある老人だ。空理の聖人オークィは、レンフィの霊力封じの腕輪を破壊し、無理矢理牢から連れ出した。
「お前の人生はまだ終わってない。とにかく生きるんだ。逃がしてやるから来い!」
今まで話したこともなかったオークィが、必死にレンフィを逃がそうとする理由が分からない。教主への反逆だろうか。そのようなことを企む気骨のある聖人ではなかったはずだ。
オークィは壊した腕輪の破片を封筒に入れ、廊下の花瓶に隠した。後で誰かが回収しに来るのかもしれない。レンフィを逃がすことを前々から計画していたような動きを見て、ますます疑念は強くなる。
「どうして」
「理由なんてどうでもいいだろうが。ああ、くそ、もう気づかれた!」
周囲が騒がしくなり、適当な部屋に逃げ込んだ。
「少しでも距離を稼ぎたかったが……仕方ない。ここから空間転移させる。どの方角がいい? やはりリッシュアが無難か。年中水不足の国なら、身元がバレても殺されないかもしれん。他に行きたい場所はあるか?」
「そんなの……」
ない、と言いかけて、レンフィは思い直した。
『信じてねぇな? 一回見に来い。つーか見せてやる。絶対に白亜教国よりも良い国だって証明してやっからな! 覚えてろよ!』
少年の言葉もそのうち記憶から消えてしまう。それを思い、ポケットに入れていたボタンに触れた。
返しに行こう。全てを忘れてしまう前に。
「ムドーラの方角へお願いします」
「なっ!? 馬鹿か、よりにもよって何故――」
「やり残したことをやり遂げるために。それに、教国のしていることを止められるとしたら、強い黒脈の王のいる国だけです」
レンフィはわずかに冷静さを取り戻し、オークィに頭を下げた。
「もうあまり時間がありません。“私”の精神はもうすぐ消えて死んでしまう。最期の願いは、ムドーラに真実を伝えに行くこと。どうか叶えさせてください。後悔したまま消えたくないんです」
「……分かった。あまりにも危険だが、教国の追跡を躱す意味ではムドーラへの逃亡は悪くない。運が良ければ、あるいは」
ムドーラはレンフィが最も憎しみを買っている国だ。
話を聞いてもらえず、即座に殺される可能性が高い。ムドーラは基本的に容赦のない国なのだ。それでも僅かな希望に賭ける。
「オークィさん、このまま私を逃がせば、きっとあなたはただでは済みません。だからあなたも一緒に」
「二人分の質量を長距離飛ばす力はない。こちらのことは気にしなくていい。正しいことをするのに、躊躇う必要がどこにある」
オークィはレンフィに有無を言わせず、霊力を集中させながら、最後に問うた。
「本当に、ムドーラでいいんだな?」
「……はい。ありがとうございます。どうかご無事で」
「それはこちらの言葉だ、レンフィ」
転移する直前、最後にオークィは言った。
「お前の幸せを願っている」
気づけばレンフィは、雪深い森の中に立っていた。
「っ!」
全身が凍りつきそうな寒さの中、レンフィは北東に向かって走り出した。
現在地は分からない。全てを忘れる前に人に会えるのかも分からない。
それでも奇跡を信じ、歯を食いしばって前に進む。
安堵と焦りが同時に押し寄せてくる。
ああ、良かった。
やっと終わる。死んで楽になれる。
「みんな、もう少しだけ待っていて。私も必ずそちらに行くから。大丈夫。こんなに辛い思いをするのは、私で最後だよ……最後に伝えたいことがあるの。それまでは、どうか……急がなきゃ、もう時間がない――」
伝えなければ。
シダール王ならば、もしかしたら教国の野望を止められるかもしれない。黒の神が弱り、白の神に捕まる前に、白の力を削げば、あるいは。
あの村で起こった虐殺の真実も話したい。
オンガ村では確かに人体の害になる植物が栽培されていたが、少なくてもあの男性は医療に利用するための研究をしていた。
あの人の息子が軍人をしていると言っていた。少しでも父親の名誉を回復してあげたい。
そして、最後に一目でもいい、長年の宿敵に会いたい。
感謝を伝えて、借りていたものを返す。
こんな決着のつけ方は望んでいないだろうけど、全てを伝え終えた後、彼に殺されるなら本望だと思える。
ボタンをぎゅっと握りしめ、レンフィは雪に足を取られながら森を駆けた。
しかし。
「きゃああああ!」
一刻を争う状況で、巨大なトカゲの魔物が人を襲っている場面に遭遇した。
「早くお逃げ下さい!」
「くそ、こいつ毒を――!」
武装はしているようだが、戦っているのは魔物の討伐部隊ではなさそうだ。連携ができていない。このままでは全滅してしまうだろう。
レンフィには誰かを助けている時間も余裕もない。申し訳ないが見捨てよう。そんな考えが脳裏をかすめた。
「姫様! こちらに!」
幼い少女が女性騎士に手を引かれ、雪の中を逃げていく。
その後ろにはもう、トカゲが迫っていた。隙だらけの背に鋭い爪が振り下ろされる。
レンフィは反射的に助けに入った。
馬鹿なことをしたと思う。でも、やっぱり見捨てるなんてできない。惨殺された妹たちの代わりに、せめて今、目の前にある命を救う。
「くっ」
また一つ記憶が消えた。眩暈でふらついた瞬間、トカゲの牙が足に食い込んだ。
「あああああ!」
霊力で水の刃を研ぎ澄ませ、レンフィは無我夢中で魔物を攻撃した。致命傷を与えて、トカゲが魔石に変わるのを見届けた時にはもう、立っていることもできなくなっていた。
毒を浄化したいが、思考に霧がかかったようにぼんやりして、何もできない。体から力が抜けていく。
「しっかりしてくださいませ! ああ、どうしましょう!」
少女は無事だ。視界がぼやけて判然としないが、髪が黒いように見える。
運命の悪戯に思わず笑みが零れた。
伝えられなかったことは残念だけど、でも、自分は正しいことをした。
そう思って消えて行けるのなら悪くない。
「あなたはこんなところで死んでいい人間ではありません! 生きて――」
意識が遠ざかり、目も耳も役に立たなくなった。
もう二度と目を覚まさないかもしれない。少なくとも、この体が目を覚ました時に“自分”はいなくなっているだろう。
ムドーラを選んだために、オークィの助けを無駄にしたばかりか、真っ新な“次”の自分自身に過酷な運命を背負わせてしまう。
役に立てなくてごめんなさい。何も残せなくてごめんなさい。
無力で愚かな自分を憐れんでくださるのなら、どうか神様。
レンフィは最後に祈りを捧げた。
新しい“私”に、全てをやり直す機会を与えてください――。
*********
目を覚ますと同時に、見ていた夢を忘れてしまった。
「…………っ」
それなのに悲しい気持ちが押し寄せてきて、涙が止まらない。
レンフィは顔を覆って嗚咽を漏らした。
「ん……どうした?」
隣で眠っていたリオルが、寝ぼけながら体を起こした。
「レンフィ、泣いてるのか?」
「夢を見たの……覚えてないけど、とても悲しくて苦しくて――」
そっと抱きしめてもらい、リオルのぬくもりを感じてようやくレンフィは少し安心できた。
彼と一緒に眠るようになって数か月。
季節は冬になり、レンフィが記憶を失ってからちょうど一年の時が過ぎた。
そのせいだろうか。感傷的になっているのかもしれない。時折自分がこの幸せを享受していいのか不安になる。
「ごめんなさい、私、子どもみたい……起こしちゃったし」
「謝らなくていいって。そういう日もあるよな」
「もう大丈夫だから、リオルはまだ寝てていいよ……」
リオルは珍しく困ったように笑った。
「泣いてるお前を放っておけるかよ。お前も寝ろ。ほら」
涙を拭われ、腕枕をしてもらい、レンフィは再び目を閉じた。
「今度は幸せな夢を見ろよ。俺が出てくるといいな」
「……さっきの夢にもリオルが出てきた気がする」
「はぁ? じゃあなんで泣いてるんだよ。俺、なんかしたか?」
レンフィは首を横に振って、幸せを噛みしめながら呟いた。
「ううん。悲しくて苦しくて、でも、愛しい夢だったよ……もっとリオルのことを好きになった」
「そ、そうかよ。……ああ、もう、本当にお前、俺のこと好きだな。可愛い!」
どこか怒ったようなリオルの様子がおかしくて、レンフィは小さく笑った。不安な気持ちが溶けて、心まで温かくなる。
再び眠りに落ちる寸前、レンフィは無意識に呟いていた。
「……優しくしてくれてありがとう。あなたに会えて、良かった」
翌朝、薄っすらと積もった雪を見て、レンフィはまた少し泣いた。
今回が後日談のラストエピソードになります。
最後の最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。