エピソード3 未来を築く軍人
山積みになった処理待ちの書類を見た途端、気の迷いが生じた。
戦場が懐かしい。
ひりひりとした空気の中で命のやり取りをしていると、思考が冴えわたって視界が広がり、体中に活力がみなぎる。決して楽しいわけではないが、生きていると強く実感できた。
もうしばらくは、そのような時間を味わうことはないだろう。
間違いなく良いことなのだが、ここ数年で急激に磨かれた戦いの勘が鈍ってしまうのではないかと心配になる。
「少し鍛錬の時間を作るか。いや、その前に食事……」
このように独り言を零すようになったら、疲れている証拠だ。今過労で倒れるわけにはいかない。アザミは無理やり書類仕事にキリをつけた。
あの教国の都での決戦から三か月が経ち、久しぶりにムドーラの城に帰ってきていた。
旧教国から吸収した新しい領土の治安はまだ不安定だが、人員の補充と配置は終わったので一度報告のために帰還することにしたのだ。
慣れない仕事が多く、あっという間に時間が過ぎていく。アザミが必死で働いている間に周囲にはどんどん変化が起こっていた。
「あ。アザミさん、久しぶりっすね!」
食堂の端の席から声がかかる。
「リオル……お前も帰ってきていたのか」
「はい、さっき着いたところです。アザミさんと食堂で一緒になるなんて珍しいなぁ。ちゃんと食べてるみたいで安心した」
「それはこちらのセリフだ」
リオルは苦笑いを浮かべた。
アザミはいつも通りの激務であるが、リオルはいつも以上の激務をこなしている。旧国境の砦の監督の他に各種引継ぎを行い、さらに各方面への挨拶回りや引っ越しの準備など。あちこちを忙しなく動き回っているらしい。
「さすがのお前もあまり元気ではなさそうだな」
「そりゃそうですよ。もう二か月近くレンフィに会えてない……癒しが足りねぇ!」
リオルは深いため息を吐いた。
単純に仕事に疲れているのかと思いきや、恋人と離れて寂しいだけのようだ。こんなに心配して損な気持ちになるのは初めてかもしれない。
「あと一か月の辛抱だろう。まさかこんなにもあっさり国より女を取るとは……しかもこの死ぬほど忙しい時に」
リオルはレンフィと一緒にいるために、ムドーラの将軍の職を辞して聖人の協会に行くことを選んだ。軍の要職に就く者としては褒められた行為ではないが、個人的にはレンフィと離れる選択をしてほしくなかったので引き留めなかった。
ちくりと小言をいう程度で許す。それが分かっているのだろう、リオルも笑顔で応じる。
「すみません。もちろん軍もムドーラも大事なんですけど……俺もレンフィもお互いに一緒にいないとダメになっちまうみたいで」
「腑抜けたな。まぁいい。軍はお前がいなくてもなんとかなる」
「はは、それ、陛下にも言われました」
「笑うところか?」
このような遠慮のない物言いをよくするため勘違いされるが、アザミはリオルの入隊時から面倒を見ており、気の置けない先輩後輩の間柄である。第二軍と第三軍の仲はあまり良くなくとも、将軍同士はそうではない。
ガルガドたち幹部は若い二人に競い合って成長してほしかったようだが、全く気質が違うせいかライバルにはなれなかった。
アザミはこれ以上どう努力すればリオルに剣で勝てるのか分からない。確かに年下のリオルに試合で初めて負けた時は悔しかったが、今では嫉妬するのが恥ずかしいくらいの差ができてしまった。
反対に、リオルは逆立ちしてもアザミのような緻密な作戦を練ったり、効率的な兵の運用はできない。魔法も一向に上達していないようだ。
得意な分野が明らかに違う。張り合っても仕方がない。お互いの長所を認め合い、困った時に助け合う方が有意義である。
そういう点では二人ともドライな性格をしており、ある意味では気が合った。
「俺と比べてアザミさんは次の元帥になるし、もう簡単には軍を辞められないっすよね」
「まだ正式に決まったわけではない」
「いやぁ、アザミさん以外考えられないと思うけど……もしかして、あんまり乗り気じゃない?」
「個人的には功績が足りないと思っている。全軍の上に立つには若すぎて、他国に舐められるかもしれない」
屍の竜の首を落とした英雄、くらいの箔があれば良かったのだが、当面の間戦争がない以上、武功の稼ぎようもない。ない物ねだりだ。
「正直なところ、地位や役職はどうでもいい。どんな形でも、生涯現役でムドーラ軍に関わっていたいとは思うが」
過去の因縁は解け、家族の仇も討てた。今後何を目標に生きていくか考えたが、やはり自分の居場所はムドーラ軍以外考えられない。
戦争が終結したことにより軍部は大幅な再編成をすることになった。国王直属軍は規模を縮小し、人員は治安維持軍に回される。ガルガドは近いうちに引退し、リオルもレンフィのいる協会へ向かう。
アザミはこの転換期の中核を担うことになり、既に様々な権限が与えられている。自分に務まるだろうかと心細くもあるが、シダールに信頼されていると思えばこれ以上なく名誉なことだった。
だから決めた。過去にも未来にも恥じぬよう、誠心誠意この国に尽くす。
父のためにも、自分のためにも。
「アザミさんらしいな。一本筋が通ってる感じがする。そういう人は、やっぱりトップに立つべきだ」
リオルは感心したように何度も頷いた。
「あ、そういや聞きました? カルナ姫様のこと」
「……ああ」
「マジで信じられない。なんでよりによってシンジュラなんだ。俺は認めたくねぇ」
ここ数日で最も大きな事件である。
各国から恩赦を受ける形でシンジュラは流刑になり、大陸南東部の僻地で新しい国を興すことになった。そしてその過程でなぜかカルナ姫に一目惚れされ、婚約するに至った。
話を聞いた時、アザミはなんとも言えない嫌な気持ちになった。
オトギリほどではなくてもシンジュラに対しても憎悪はある。全ての元凶である教主リンデンの息子なのだ。
聴取の結果、オンガ村で栽培していたベラ・ペヨーテを教国上層部の聖人に蔓延させ、廃人にしていたことも判明した。実の父親にも同じことをしたという。この上なく胸糞悪い話だ。
ただ、シンジュラは麻薬を作る過程の人体実験のデータも完全に記憶していた。そして償おうという一心で、獄中でベラ・ペヨーテの医療利用の論文を作成してムドーラに託した。医療官たちが感嘆するような内容だったそうだ。
それを聞いてしまったら、憎むに憎めなくなってしまった。どちらかと言えば、カルナ姫に目をつけられたことに同情する。
「ああ、仕事が増えて困る」
カルナ姫は早速シンジュラの力になろうと、騎士と軍人を連れて密林の開拓に向かってしまった。建築の知識がある優秀な人材を他国に貸し出す羽目になったことが、アザミにとって何よりも痛手だった。
「え、それだけ? 姫様の心配とかは……」
「陛下が認められた以上、王家の婚姻に口を挟むべきではない。それに、姫様はどんな逆境にいても自分の力で幸せになられるに違いない」
どこで誰と何をしていても、きっと楽しく明るく過ごす。幼いながらもたくましく容赦のない姫だ。アザミは身を以て知っていた。
「姫様のことより、リオルは自分の心配をしろ。お前が姫様の婚約に反発心を持ったように、レンフィのことで聖人たちはお前に同じような感情を抱くかもしれない」
「ああ、フリージャみたいな?」
「フリージャ殿は別格だろうが……とにかくお前は敵地だった場所に行くんだ。今までのように剣の腕だけでは認められないし、一部の人間には恨まれている可能性だってある。レンフィの支えになりたいのなら言動に気をつけろ」
リオルは力なく笑った。
「確かに。今度は俺の番か。肝に銘じます」
食事を終えて、アザミは先に席を立つ。リオルは頬杖をついて考えこむように宙を見ていた。
少し脅しすぎたかもしれない。楽観的なリオルを見ていると、つい説教じみたことを言ってしまう。今ならどのような逆境でも切り抜けていく力があると知っているのに。
反省の意味も込めて、最後に声をかけた。
「余計な世話かもしれないが……」
「ん?」
「もし向こうの居心地が悪かったら、いつでもレンフィを連れて戻ってこい。そうでなくても、たまには顔を見せに来い。どこに行っても、お前の故郷はムドーラなんだから」
リオルは虚を突かれたように固まった後、目を輝かせた。
「ありがとうございます。アザミさんも暇ができたら遊びに来てくれ」
「当分は無理だ。忙しい」
「つれねぇ」
皆が旅立っていっても、安心して帰って来られるように国を守り続ける。
それがアザミの新しい目標であった。
数日後、アザミは旧教国領――ムドーラの新しい領土に戻った。
表面上は落ち着いているが、村々を巡るとやはり緊張感が漂っているのが分かる。理不尽な重税を課されたり、女子どもを攫われたり、略奪されるのではと警戒されているようだ。
民の生活の根本にあった白亜教の教えでは、ムドーラ王国は残酷で恐ろしい敵国とされていたのだ。その刷り込みは容易には変えられないだろう。
今後ムドラグナ王家に敬愛の念を持ってもらえるかは、現地の役人と軍人の行い次第だ。少しずつ誤解を解き、偏見を失くしていきたい。
小隊を率いて大河沿いを南下していると、岸に人だかりができていた。
「ありがとうございます、聖女様!」
「いえ……えっと、聖女と呼ぶのはやめ――」
「娘が助かったのは聖女様のおかげです! このご恩は忘れません!」
「お礼をさせてください、どうぞ村に!」
「今日は祭りじゃ! 聖女様来訪の記念日にするぞ!」
プラチナブロンドの少女が漁師たちに取り囲まれ、担がれそうになっている。
予期せぬ遭遇に困惑しつつ、アザミは声をかけた。
「そこで何をしている」
盛り上がっていた空気が一転、火が消えたように静まり返る。漁師たちは怯えるのではなく、背後にいる少女をアザミたちから隠すように立ち塞がり、睨みつけてきた。
「あ、アザミさん? こんにちは。お久しぶりです」
「やはりレンフィか。どうしてここに?」
漁師たちが説明を求めるようにレンフィを振り返った。
「こちらはムドーラにいる時にお世話になった方です。なので、あの」
レンフィに目配せされ、アザミは小さく頷く。
「少し彼女を借りる。お前たちは何があったのか村人たちから聴取を」
部下にも指示を出し、アザミとレンフィは人だかりから離れた。
「ありがとうございます。助かりました……」
「それで? 何があった?」
「カルナ姫様に頼まれて密林の水源を浄化しにいって、その帰りにこちらの大河の様子を見に来ました」
「協会の仕事か」
「はい。ムドーラ軍の方に許可はもらいましたけど、ついさっきのことなので……」
許可を取ってからすぐ空間転移でここまで移動してきたのだろう。相変わらず空の精霊術は反則的な能力だ。
「それで、川の水質を見ながら歩いていたら小さな女の子が溺れていて、漁師の皆さんと一緒に救助をしたんです」
溺れていた子どもは命に別状はなく、意識もはっきりしているそうだ。一応レンフィが治癒術は施したが、体が冷えてしまったので母親と一緒に村に戻ったのだという。
「そうか、無事で良かった。私からも礼を言う」
「いえ、とんでもないです」
事態を把握した途端に会話が途切れ、沈黙が訪れた。
過去のことは和解しているが、やはり何事もなかったかのように振る舞うのは難しい。お互いに次の言葉を探り合う。
「そう言えば……リオルがお前のことを恋しがっていたぞ」
その名を聞いた途端、淡いブルーの瞳がきらりと輝いた。朝日を反射する川面よりもずっと眩しい。
「そうですか。私も、寂しいです……」
「今リオルは国境だった砦にいるはずだ。ここからなら十分会いに行ける距離だ」
レンフィは残念そうに首を横に振った。
「明日はリッシュア王国に行く予定なんです。時間が足りません。それに、今会ったら離れられなくなっちゃいそうなので、あと一か月、我慢します……」
瞳を潤ませたまましゅんと俯くレンフィ。涙が溢れないか心配になった。ここでレンフィに泣かれると、周辺の住民に睨まれそうだ。
アザミは内心焦りながら話題を変えた。
「姫様に会ってきたんだな。様子はどうだった?」
「はい、とても楽しそうでした。シンジュラさんと一緒にいられるのが嬉しいみたいで、ずっとにこにこしていらっしゃいましたよ」
「そうか。幸せそうで何よりだ」
「はい。シンジュラさんはかなりお疲れのご様子でしたけど、姫様の過激な悪戯にも怒らず付き合っていましたし、すごく仲が良いと思いました。あ、オレットさんはもっと生き生きしていました。肩にリスを乗せて森の中を冒険して、凄い色のキノコを集めていて、それを試しにみんなで食べることになったんですが――」
聞いているだけで頭が痛くなるような話だった。手伝いに寄越した部下たちは無事だろうか。アザミは早急に連絡を取ることを決意した。また仕事が増えるかもしれない。
「協会での生活はどうだ? 大変だろう」
「私は大丈夫です。皆さん個性的ですが、優しい方ばかりです。お仕事も丁寧に教えてもらえるのでなんとかなっています」
ほどよく忙しいおかげでリオルがいない寂しさも紛らわせます、と最後に遠い目をして呟いた。
世間には「無垢で清純、誰にでも平等な博愛精神の塊」という聖女のイメージが根強く残っているが、実際のレンフィは恋人のことしか頭にないようだ。
リオルに依存しすぎているようで少し心配になる。
しかし、さすがにレンフィに恋愛面での釘をさす気にはなれない。これまで散々辛い想いをしてきたのだから、少しくらい浮かれていても罰は当たらないだろう。
「アザミさんは、もっともっと忙しいと思います。お体にお気をつけて」
「ああ。戦争もないのに軍人が過労で倒れるなんて格好悪いからな」
レンフィがふわりと笑った。
「…………」
なるほど、離れている間にリオルが「癒やしが足りない」と嘆くのが理解できた。彼女の周囲には心と体に良さそうな空気が漂っている。
アザミはただただ安堵した。普通に笑ってくれるし、たくさん話してくれる。数か月前には考えられなかったことだ。
もう残酷な過去を振り返っても胸が痛むことはない。憎しみは風化していく。
昔の自分ならこの変化を受け入れられなかったかもしれないが、今は違う。辛かったことや苦しかったことよりも、家族と過ごして楽しかった日々を思い出せるようになった。
それは間違いなく良いことだと思える。
願わくは彼女も、これからたくさんの幸せな思い出を作っていってほしい。
「聖女様ー! 軍人さーん! 魚焼くんで食べて行ってください!」
村の方から駆けてきた子どもが串に刺さった魚を掲げた。
アザミとレンフィは顔を見合わせる。
「焼き魚……」
二人で遭難したあの日のことは、生涯忘れないだろう。あんなにも惨めで泣きそうな気持ちになったことはなかった。
「食べていく時間はあるか? 塩がある分以前より美味いはずだ」
「……せっかくなので」
しかし嫌なことばかりではなかった。いつかきっと、全てを笑いながら話せるようになる。
そんな未来に思いを馳せて、アザミは足を踏み出した。