エピソード2 流される亡国の末裔
いつからだろう。
頭の中に灰色の霧が立ち込めて、思考も行動も薄暗い方向に進むようになった。誰からも愛されず、何も愛せず、残酷なものを見続けて、憎悪の味ばかり覚えていった。
他の人間は楽しそうなのに、どうして誰よりも優れているはずの自分が不満を抱えて生きなければならないのか。
上手く生きられない世界を憎んだ。幸せな人間を嫌った。
強烈な憎悪を抱くほどに自分の存在が曖昧になって、生きることがどうでも良くなっていった。
いつの間にか、目に映る全てを壊すことだけしか考えられなくなっていた。
自らの体に招き入れた灰色の亡霊は、滅びの炎によって追い払われた。
そして、暗く淀んで見えていた世界が虹色に輝いて一新され、シンジュラは我に返った。憑き物が落ち、呪いが解けたかのように。
『全てが許されることは決してない……でも、あなたにも救われる機会があってほしい』
そんなことを言ってくれる人がいるとは思わなかった。
悪い夢から覚めたようであり、都合の良い夢を見ているような心地だった。実際そうだったのかもしれない。灰色の亡霊たちが狙っていた黒竜の屍が暴れ出した時、あり得ない言葉が聞こえたのだ。
『愛してあげられなくて、ごめんね……シンジュラ』
深い後悔と懺悔の念が伝わってくる震えた声。もう顔も忘れかけていたのに、その声が母エンジュのものだとはっきりと分かった。
復讐の道具としか思っていなかったくせに、「ふざけるな」と思った。だけど嬉しくもあった。
愛さなかったことが間違いだったと母が悔やんでいてくれるのなら、少しは救われるから。
衝動的に体が動き、竜の尾に拘束の魔法を放っていた。
今更何をしたところで許されないことは分かっていたが、何もしないよりはマシだ。もう自分に残された時間はわずかしかない。ならば最後に一つでも正しいと思える行いをしたかった。
そして奇跡の果てに竜が討伐され、人類に勝利がもたらされた。
シンジュラはその日からずっと処刑の時を待ち続けている。
旧教国領のとある砦の地下室で、シンジュラは今日も祈りを捧げていた。
自分のせいで失われた命が安らかに次の生を得られますように。
傷ついた者たちが少しでも早く癒えて元の生活に戻れますように。
神々と精霊がこの世界を見捨てず、人と大地に祝福を与えてくれますように。
教国で祭服をして祈っていた時は正反対のことを願う。凪いだ海のように穏やかな心の中に、苦い後悔が広がって溺れそうになる。
自分は間違えた。取り返しのつかないことをした。だから苦しまねばならない。
シンジュラは囚われていた。
砦全体に精霊術と魔法が無数に施されており、手首に嵌められた枷によって魔力を封じられ、脱走できないようになっている。
元々逃亡の意思はない。処刑に対する恐怖や不満もない。あるのは罪悪感だけだ。それが何よりも強い戒めとなって、シンジュラを牢に閉じ込めていた。
「…………」
階段を下りてくる足音が聞こえ、静かに瞼を持ち上げた。
食事の配膳の時間ではない。ならば面会だろう。
戦いが終わってすぐは各国の使者や聖人たちがよくやってきていた。聴取や要求、あるいは罵倒をするために。
しかし最近はそのようなことは減り、決まった人間しか来なくなっていた。
最も面会が多いのは、ムドーラ王国の魔法士である。
ヘイズというその男は、ルークベル王家の魔法に強い興味を持っていた。失われるのはあまりにも惜しいと口うるさく言うので、シンジュラは己の知識のほとんどを差し出すことにした。
使い方によっては、これからの世界に役立つ魔法もあるだろう。ルークベル王家が培った優れた魔法技術を公開することで、その黒脈の血筋の名が語り継がれるのなら亡き母も反対はしないはず。
どう考えても災いしかもたらさない禁魔法については、口を噤んだ。このまま自分の死とともに闇に葬るべきだろう。
他の国の魔法士は執拗に口を割らせようとしたが、ヘイズは特に不満はないようだった。その点からも信用できる。
ヘイズと魔法について話すのは、正直に言って楽しかった。教国では魔法について話す機会がなかったし、他の国の魔法士では高度な魔法構築について説明しても理解してもらえない。
今日もまた、魔法構築の解釈についての相談だろうか。あるいは先日約束した通り、ムドーラの王妃の魔法論文を読ませてくれるのかもしれない。
「失礼します。こんにちは。シンジュラさん」
重い鉄の扉が開き、現れた者たちを見て、シンジュラは意外に思った。
一人はレンフィだった。彼女も定期的に面会にやってくる。
最初はオークィの最期について聞きに来た。一言一句違えることなく祖父の最後の言葉を伝えると、彼女は静かに涙を流した。しかしシンジュラのことを罵ることなく、それからも何事もなかったかのように会いに来る。
別段特別なことは何もない。天気などの他愛のない話をして、シンジュラの体調を確認するとすぐに帰っていく。ここに長居すると恋人の機嫌が悪くなるのかもしれない。
ただ、顔を合わせる度にほっとしたように小さく微笑んでくれるので、シンジュラは何も言えなかった。
仇として憎んで蔑んでくれた方が楽だ。しかしそれはシンジュラの都合である。優しいレンフィにとって、誰かを憎むことは心の負担となるのだろう。
過去に囚われず、幸せな未来に向かって歩いていく彼女を黙って見送る。自分にできることはそれだけだ。これ以上彼女の心を波立てないよう、忘れられていくくらいがちょうどいい。
今日はレンフィの後ろに、見知った顔と見知らぬ顔が並んでいた。全員が女性である。
「えっと……突然ごめんなさい。いろいろあって、シンジュラさんに会いたいという方々をお連れしました」
まず前に出たのは、赤い艶のある黒髪を持つ美しい少女。
「お初にお目にかかります。わたくし、カルナ・ブラッド・ムドラグナと申します。兄に代わってお見舞いのご挨拶に参りました。どうぞお見知りおきくださいませ」
ムドーラ王国のシダール王の妹・カルナ姫である。幼いながらも魔性の美を携えた少女は優雅に礼をして微笑む。彼女の後ろに控えている女性騎士はオレットと名乗った。
シンジュラはどう反応すべきか迷いながらも、思ったことを口にした。
「あなたのような方が、このような場所に来るべきではありません。僕は罪人です」
今となっては三大王国の一つとなったムドーラの姫君が、なぜわざわざこのような場所に足を運ぶのか理解できない。シンジュラの様子見ならば、ヘイズからの報告で十分なはずだ。
「罪人? どの国の法律があなたに罰を科すのでしょう。黒の神の血を宿す者とは思えないほど謙虚な方ですのね」
ルークベル王家の最後の一人であるシンジュラにとって、それは強烈な皮肉であった。
己の国を持たず、どこにも属していない。地上で最も高貴な人間でありながら、自分以外の誰かの定めた法律に従って罰を受け入れる。そのような在り方は傲慢な黒脈の血族ではない、と言われたようなものだった。
無性に情けない気持ちになるが、腹は立たない。確かに自分は王ではないのだ。
シンジュラが言葉を返せずにいると、カルナは無邪気に笑った。
「あなたの話を聞いて興味を持って、一度会ってみたいと思ったのです。国の外にも出てみたかったですし……今日の訪問の主目的はわたくしではありませんから、深く気にしないでくださいませ」
随分と自由奔放な姫だった。面会は建前で国の外に出る口実にしたのかもしれない。もしくはこれから起こるだろう修羅場を観覧したいだけなのか。
シンジュラはカルナ姫が目配せした相手に向き合うことにした。レンフィの背に隠れながら、こちらを睨みつけてくる少女。
かつてシンジュラの手駒であったマリーである。
シンジュラはマリーをぞんざいに扱ってきた。基本は無視、時には雑用を押し付け、最後には死んでもおかしくない危険な仕事を割り振った。とにかく視界に入れたくなかったのである。
今ならば生き残るために仕方がなかったのだろうと理解できるが、男に体を売っていたことや自分に色目を使ってきたことが汚らわしく思えてならなかった。
攫われた母が父に凌辱されて自分が生まれたというルーツから、シンジュラは性的な物事に強い嫌悪感があったのだ。
二人の間に立つレンフィが気まずそうに口を開いた。
「その、マリーがシンジュラさんにお話があるそうで――」
「話すことなんかないですぅ。謝罪も要りません。ただ黙って顔を殴られてください」
マリーに恨まれる理由はある。
かつてシンジュラはマリーの体にとある魔法構築を仕込んだ。合図一つで理性なき化け物に成り下がる禁魔法だ。マリーだけではなく、オトギリや他の従者にも施していた。
教国の都が灰色の霧に覆われた際にその魔法を発動させたはずだが、なぜかマリーは生きている。おそらくはヘイズが解除したのだろう。悪運の強い娘だ。
「……分かった」
今のマリーに対していろいろと思うところはある。
なぜレンフィを盾にする。お前も随分と酷いことをレンフィにしていたくせに、調子が良すぎないか。この裏切り者。
そのような言葉を飲み込み、シンジュラは素直にマリーの憂さ晴らしに付き合うことにした。自分に他者を糾弾する資格はないし、殺されかけたのだからマリーには復讐する権利がある。殴られるくらいなんてことはない。
「い、いいんですね? 怒って仕返ししないで下さいよ?」
「しない」
マリーは怯えながらも、シンジュラの前に立った。その拳は震えている。
「マリー、あの、やっぱりやめておいた方が……こんなことをしても」
「止めないでください、先輩。こうでもしないと、自分の気持ちに踏ん切りがつかないんですぅ!」
レンフィの制止を振り切り、マリーが拳を構えた。
痛みを覚悟しつつ、シンジュラはぎゅっと目を閉じた。
生まれてこの方、顔を殴られたことがない。リオルに斬られたり蹴られたことはあるが、正気ではなかったのであまり痛みは感じなかった。
いざとなると、少し怖い。
「う……ずるいですぅ」
マリーは殴られることに身構えるシンジュラを見て、激しく動揺した。
やはりこの男、抜群に顔が良い。痛みに怯える姿は可愛らしくすらあり、ずっと見ていられそうだった。かつてないほどに胸が高鳴っている。このままではイケないものに目覚めてしまう。
首を横に振り、マリーは絆されそうになる心を叱咤した。男に振り回される人生はもう嫌だ。罪人として生きていくシンジュラに付き合って落ちぶれるのもごめんである。
「さよなら!」
せめてもの情けだ。固く握りしめていた拳を解き、マリーは平手でシンジュラの頬を思い切り叩いた。
小気味よい音が響く。
よろけたシンジュラが瞳を開けた時、逃げるように地下室を飛び出すマリーの背が見えた。
「だ、大丈夫ですか?」
「……痛い」
頬がひりひりと痺れて、心臓が痛いほど早鐘を打っている。情けないことに視界に涙が滲んでいた。
「でも大丈夫だ。治療はいい」
本当は心身ともにダメージを負っていたが、レンフィに対しては虚勢を張った。これは受け入れなくてはいけない痛みだ。
「まぁ……!」
それより気になるのはカルナ姫の反応だ。
青い顔をしているレンフィとは対照的に、頬を桃色に染めてうっとりとしている。背筋が凍るような悪寒を覚えたが、シンジュラは気づかないふりをした。
そんな出来事から数日後。
シンジュラの元にまた別の面会者たちが訪れた。
「よくぞご無事で……どうか仕えることをお許しください。我らが新しい王よ。行き場のない我らを導いてください」
その男たちはルークベル王家に仕える騎士の家系の者だった。中心人物はヴェロンと名乗った。彼は祖国が教国に滅ぼされてからも、主命により生き残った臣下をまとめ、恥を忍んで生き延びていたのだという。
自分に跪く男たちに対し、シンジュラは激しく動揺した。
「やめてくれ。僕はルークベルの王ではない……」
「私はずっと王とエンジュ姫の仇を取るために生きて参りました。あなたはその悲願を果たしてくださった。憎き教主リンデンを苦しめて殺したと聞いています。仕えるに足る理由があります」
「僕はその仇の血を引く子でもある。そして、道を踏み外して数えきれないほどの非道を行い、その報いを受けて死ぬ定めだ。道連れは要らない」
「シンジュラ様……」
ヴェロンの長年の苦労が滲む瞳からシンジュラはそっと目を逸らした。
「会いに来てくれて、ありがとう。あなたたちの不変の忠義を知れば母上も喜ぶだろう。しかし、復讐が果たされたと思うのならば、これからは滅んだ王家に囚われず自分たちのために生きて欲しい。もちろんこれは王としての命令ではないが……僕があなたたちに願う唯一のことだ」
黒脈らしくない弱腰に失望されただろうか。忠誠を拒絶されたことに傷ついたかもしれない。彼らは苦渋の人生の中で、再びルークベルに仕える日を夢見てきた。その夢を打ち砕くことに申し訳なさを覚えるが、他に手向ける言葉がない。
しかし忠臣は挫けなかった。
「我々は各国にあなたの助命と釈放を嘆願しています。これからも、決して諦めません」
「な……」
「あなたは間違いなくルークベルの血を宿す王です。我らはもう二度と主君を失いたくありません。他の生き方など考えられない。必ずお迎えに上がります」
ヴェロンたちは皆、晴れ晴れとした表情で帰っていった。
シンジュラは焦った。諦めさせるつもりが、逆に彼らの闘志に火をつけてしまった。
彼らの願いが叶うことはあり得ないのに。
ところが。
「あり得ないことはありませんわ。このままいけば、あなたは死刑ではなく流刑になるでしょうから」
初めての面会から一か月後、今度は女性騎士と二人でやってきたカルナ姫によって、自分を取り巻く状況が大きく変わっていることを知った。
「何故? そんなこと、許されるはずがない。特に、リッシュアの王と旧教国の聖人たちが賛同するとは思えない……」
肉の巨人で戦場を汚し、王女に呪いをかけた以上、リッシュア王国は決してシンジュラを許さないだろう。
旧教国勢は言わずもがなだ。教国が滅びた原因は間違いなくシンジュラにある。
カルナ姫は悪戯っぽく笑った。
「両者ともレンフィ様に大きな借りがありますし、これからも頼らざるを得ない状況ですから」
レンフィは、時の聖人ウツロギが中心となって運営される新しい組織――“聖ソフィーラ協会”に所属することになった。ムドーラ王国から協会に籍を移す条件の一つが、シンジュラの助命なのだという。
『今のシンジュラさんなら、死ぬよりも生きて償った方がより良いものを世界にもたらす。私はそう信じます。どうか機会を与えてください』
ウツロギは「良いんじゃないかな」とそれを認めた。
黒脈の王が著しく減っている今、これ以上減らせば白と黒のバランスがまた偏る。シンジュラが教主を始めとした教国上層部を壊滅させたことと、屍竜討伐の際に魔法で尾を封じて戦況を優位にしたことも事実。減刑の理由はある。
また、リッシュア王は強硬にシンジュラの処刑を望んでいたが、呪いが解けて目を覚ましたプルメリス姫が「シンジュラを許してもいい」と言ったことで意見を翻した。呪いで繋がっていたせいか、プルメリスはシンジュラの過去や心情を垣間見てしまったらしい。
『さすがに同情する。それに、彼はまだ十七歳なんでしょ? なんだか怒り続けるのが大人げないように思えてきた』
しかし臣下や民の手前、シンジュラの罪の全てを許すわけにはいかない。
『僻地で国を興させて苦労してもらう。それで国が安定したら、存分に賠償してもらえばいいんじゃないかな。処刑して終わらせるよりずっとリッシュアのためになるし』
提示されたのは、ある意味では死刑よりも茨の道であった。すぐに息の根を止めず、長い時間をかけて搾取してやると言われているようなものだ。
何よりシンジュラのことでレンフィに恩を着せられれば、よりリッシュアの水源の浄化に力を入れてくれるに違いない。そういう打算も透けて見えた。黒脈の姫は恐ろしい。
「というわけですの。近いうちにあなたは流刑に処され、大陸の南東部にある手つかずの密林地帯で残りの人生を過ごすことになるでしょう。あなたの臣下たちは先に現地に入って、衣食住を整えているようですわ」
良い臣下を持ちましたね、とカルナは楽しげに言った。
フレウ王がシンジュラの流刑を認めたのは、ヴェロンたちのゆるぎなき忠誠に心を動かされたからだという。かの王はこの手に話に弱く、必要な物資の融通もしてくれた。
「……頭が痛い」
死んで償うことしか考えられなかったシンジュラにとって、この展開は予想外だった。下された罰に文句を言う資格はないが、レンフィやルークベル王家の臣下を巻き込んでしまうのは本意ではない。
特にヴェロンたちにはこれから多大な苦労をかけることになる。もう誰も不幸にしたくないのに、これからのことを考えるだけで心臓が潰れてしまいそうだ。
「その不安そうな顔……はぁ、本当に困った方。理想的過ぎて眩暈がいたします」
この幼い黒脈の姫も恐ろしかった。
気になっていて口に出せなかった問いを、シンジュラは恐る恐る投げかける。
「あなたは、どうしてまたここに? 僕に何を求める?」
「運命を感じました。あなたを死なせてはいけない……わたくし、勘だけはシダールお兄様よりも鋭いのですよ」
カルナの黒い瞳に赤い熱が宿っている。見つめ続けていたら破滅してしまいそうな危うさがあるが、シンジュラは目を逸らすことができなかった。
「勿体つけるのはよくないですね。お互いのためにもはっきりさせましょう。あなたを生かすために、レンフィ様とお兄様に根回しをお願いいたしました。全てはわたくしの望みのため。ですが、決してあなたにも損はさせません。どうかこの手をお取りください」
可愛らしく頬を染め、カルナ姫は告げた。媚びることなく、嘲ることなく、その言葉は真っすぐにシンジュラの心に届いた。嫌悪感は一つもない。
「わたくし、あなたをとても気に入ってしまいましたの。妃にしていただけませんか?」
選択の余地があるだろうか。この手を取れば手に入る。臣下を守るためにはムドーラの力添えと縁が必要だ。
あとは自分の心次第。
欲しい、と直感的に思った。自分が失った黒脈らしさをカルナ姫は持っている。足りないものを補える。
そして、長年求めてやまなかった愛も、もしかしたら――。
こんなに簡単に決めていいのかと思ったが、今の自分には抗えそうにない。流されて行き着く先に、幸があることを祈る。
「あなたが大人になっても心が変わらなければ、その時は僕から改めて結婚を申し込みます」
「ふふ、楽しみですわ。ではそれまでは婚約ということで」
目の前に差し出された小さな手に、シンジュラは自分のそれを重ね、そっと唇づけた。