エピソード1 進路に悩む聖女
あの戦いから一か月半が過ぎた。
レンフィはかつての国境の砦でムドーラ軍の手伝いをして過ごしていた。黒脈の王たちが不可侵条約を結んだため、しばらくは大きな戦争の心配はなくなった。それでも軍の仕事は山のようにあり、毎日が目まぐるしく過ぎていくが、愛しい恋人の傍らにいられるのなら忙しさは苦にはならない。
そんなある日、ウツロギとフリージャがレンフィを訪ねてきた。
「お願いいたします。どうか、我々をお助け下さい……!」
レンフィは神妙に頷く。
「えっと……あの、お手紙にも書きましたけど、お手伝いなら喜んで」
必要ならば治癒術でも空間転移でも使うし、近いうちにリッシュア王国からの水源の浄化依頼も受ける。三指の聖人としての責務は果たすつもりだった。
しかしフリージャは後ろめたそうに首を横に振った。
「大変申し上げ辛いのですが……助力ではなく、主力としてレンフィ様が必要なんです。我々が新たに起ち上げた“協会”に、幹部として所属していただけないでしょうか」
「え」
ウツロギも憂いを帯びた笑みを浮かべる。
「ごめんね。レンフィはもう十分頑張ったから、心穏やかな日々を送ってほしいって思っていたんだけど……きみがいないと立ち行かないみたいで。話だけでも聞いてくれる?」
教国の現状についてはもちろん耳に入っている。
白亜教を取り仕切っていた偉大な聖人たちが死に、美しかった都が崩壊した歴史的事件――“屍竜災”。
謎の灰色の霧から大量の魔物が現れ、さらに封印されていた伝説の黒竜の骨が動き出したあの日、長年敵対していた黒の王国と生き残っていた教国軍が共闘し、様々な奇跡の果てに屍の竜は討伐された。
しかし、「めでたしめでたし」とはまだ言えない。
突然勃発して劇的に解決した出来事の数々に、教国の民が大混乱に陥ったのだ。
大聖堂内での権力争い、黒の王国の陰謀、様々な憶測が飛び交う過程で教国上層部のかつての悪事が次々と暴露されると、「屍竜災は神罰だったのではないか」と噂されるようになった。
それは各国の情報操作の結果でもあった。
死んだ教国上層部の面々に責任を押し付け、後の統治がやりやすくなるからである。
民の半数以上は神罰の再来を恐れて棄教した。
こうして一つの宗教の下に統一されていた白亜教国は事実上滅亡し、その結果、大陸中央部が空白地帯となった。
敬虔な白亜教徒ほど現実を受け入れられずに暴走しているし、都から避難した者は帰る場所を失くして難民と化した。
先々への不安から暴動めいたことが多発し、賊に身を落とす者も増えた。
旧教国領は急激に治安が悪くなっている。
広大な領土の半分――国境に近い地域はそれぞれ三つの黒の王国に吸収された。歴史を辿れば黒の王国領だった土地を選んだので、国境の線引きはすんなりと決まったという。もちろん反発はあるが、状況が状況だけに身の安全のために黒の王国の庇護下に入る町や村が多かった。
問題は残りの半分。旧教国の中央部の統治である。
白亜教の総本山を“黒”の領地にするのは大きな抵抗が予想された。
黒脈の王たちの提言もあり、“白”の代表たる聖人たちによって治められることになった。
それすら難航しそうだ、という話はレンフィも聞いていた。
「えっと、新しい組織の名前は、“聖ソフィーラ協会”……でしたよね」
ウツロギが嬉しそうに笑った。
宗教を用いるのではなく、一人の君主に付き従うこともない。平和のためにその命を捧げた聖女の名を冠した“聖ソフィーラ協会”は、聖人たちの協議によって旧教国領の治安維持を図る自治団体である。
また、次世代の聖人や精霊術士の受け皿となり、白と黒の領土に関係なく大陸全土の浄化も請け負う。
基本的に戦争には関与しない。平和主義であり、絶対中立の立場を貫く。
ただし民間人に著しく被害が出ている場合や、大地の汚染がひどいときは救護と浄化を行い、戦争の早期終結を促す。
将来的には黒の王国の調停役を担うのが目標である。
「まだまだ決めなきゃいけないことはたくさんあるけど、協会の基本方針はシンプルに決まったんだ。聖人が精霊たちに与えられた役目を全うするための組織……白亜教の元々の教義から戦争への積極的介入をなくした感じかな。聖人たちは人の上に立つことはなく、過度な報酬を受け取ることもない。ボクは少し職権乱用して、協会の名前を決めさせてもらったけどね」
フリージャが苦笑する。
「新しい組織に相応しい名だと思います。過ちを繰り返さないためにも、ソフィーラ様の存在は伝えていくべきですから」
「うん。ありがとう。娘の名にかけて、素晴らしい組織に育つまで見守らせてもらうよ」
協会の長は、白亜教に無関係のウツロギが務めることになった。
世界にただ一人の時の聖人であり、膨大な時を生き続けているウツロギの存在は、神や精霊のそれに等しく、崇拝に足るものであった。聖人をまとめるためにも、民の信頼回復のためにも、これ以上の人物はいなかった。
「有難いことです。ウツロギ様がいなければ、今頃聖人同士で争う羽目になっていたでしょう」
しかしフリージャたちは、まさかウツロギに引き受けてもらえるとは思わなかったようだ。
ウツロギは「竜の封印を勝手に解いちゃったお詫び」と、世界情勢が落ち着くまでは協力の運営に尽力することを約束したのである。
「でもね、ボクだけじゃ民の信頼を勝ち取れないみたい。ずっと表舞台から逃げてきたミステリアスな時の聖人より、今を時めく白虹の聖女ちゃんの方が人気なんだ……ボクってそんなに胡散臭いかなぁ。確かにフレッシュさはないけど、落ち込んじゃうよ」
遠い目をしてため息を吐くウツロギ。
ここは慰めるところだろうか、それとも突っ込むところだろうか。レンフィは助けを求めてフリージャを見た。
「ごほんっ……失礼。それでですね、協会の幹部会のことを“白指会”と呼ぶことになりました。もちろん幹部の席は最大で十です。全ての席が埋まることは難しいでしょうが、一人でも滅私の精神を持つ聖人の協力が必要です。レンフィ様にもぜひ協会の象徴として幹部の席に……!」
フリージャは力説した。
卑劣な白亜教の企みにより記憶を失い、死亡を発表されていながら、黒の王国の助力を得て都に舞い戻り、数々の奇跡を起こした白虹の聖女レンフィ。
勝利の立役者であるレンフィの人気は高く、元白亜教徒はもちろん、黒の王国の軍にも熱狂的な信者がいるほど。
今、大陸の聖人の中で最も信頼され、影響力のある存在となっている。
「実は先日とある町の町長に言われてしまいました。『なぜレンフィ様はムドーラに行ってしまわれたのか。あの御方が所属していないということは、協会に何か問題があるんじゃないか』と」
「そんな……私はただ……」
リオルと一緒にいたかっただけだ。
「分かっています。ですが、何も知らない民がそう思うのも仕方がないことかと……まぁ、僕らのやることなすことに難癖付けたがっているだけだと思いますけどね。ああ、いやだいやだ、ほぼ無給な上に無休で働いてるって言うのに、文句ばかり言われて。なんだかんだ今まで白亜教の恩恵を受けてきたくせに、少し風向きが変わっただけで手の平を返す。そんな奴らばかりですよ、困っちゃいますよ本当に」
「……大変な苦労をされているんですね」
フリージャは我に返り、深々と頭を下げた。
「どうかご検討ください。レンフィ様に来ていただけるなら、どのような条件でも飲みますので!」
藁にも縋る想いで頼んでいるのが伝わってきて、レンフィは首を横に振れなかった。
「あの、えっと、少し考えさせてください……」
そう答えるのが精一杯だった。
ウツロギとフリージャを空間転移で教国領に送ってから、レンフィは自室に戻り、ベッドの上で膝を抱えた。
結論は既に出ている。
やはり自分は旧教国領に戻るべきだ。聖人としての力も、不本意ながら得てしまった名声も、困っている人々のために使うのが正しい。
その答えを後押しするかのようなタイミングで、部屋に戻る途中で偶然兵たちの噂話を聞いてしまった。
『知ってるか? また難民の団体がムドーラ方面に集まってるらしいぞ』
『げ。まだ増えるのか。もうこれ以上面倒見切れないだろう?』
『仕方ないさ。うちには奇跡の聖女様がいるからな』
『あー……俺たちも早く家に帰りたいが、当分は無理そうだな』
どうやら先の“屍竜災”で住処を失くした民は、レンフィがムドーラ王国にいることを聞きつけ、頼りにすべく流れてきているようだ。軍の仕事が山積みになっている一因は自分にあったらしい。
このままではムドーラ軍の負担になってしまう。ここを離れて聖ソフィーラ協会に所属すれば、難民の流入を少しは止められるだろう。
「どうしよう……」
だけど、リオルと離れたくない。バニラやマグノリアたちとも別れがたいが、リオルと毎日会えなくなるのは致命的な問題であった。
せっかく恋人になれて、結婚の約束までしているのに、今別れるなんて考えられない。
では、付き合ったままで別々の国や組織に所属してやっていけるのだろうか。遠距離恋愛というものが大変なのは想像に難くない。
離れている間にリオルの気持ちが離れてしまったら、やはり“白”と“黒”の人間同士では上手くいかないと思われてしまったら。
そんな不安に支配され、想像するだけで涙が込み上げてきた。
「暗い顔してどうしたんだ、レンフィ」
「わっ!?」
自分の顔を覗き込むリオルと目が合い、レンフィは飛び上がった。
「ノックしたんだけど、気づかなかったか?」
「ごめんなさい、ぼうっとしていて……おかえりなさい。魔物は大丈夫だった?」
「おう、ただいま。二か月ものだったからな。ガジュとピノだけで余裕だったぜ。怪我人もなし」
「そう。良かった」
リオルは部下と魔物狩りに出かけていた。久しぶりに書類仕事から逃げられたからか、ご機嫌な様子である。
帰ってきて真っ先に会いに来てくれたことが嬉しい反面、レンフィは慌てた。
「それで? なんかウツロギさんとフリージャが来てたんだって?」
「う、うん。えっと、いろいろ挨拶を」
「ふーん。なんか言われただろ」
少し目を逸らしただけでバレた。リオルに隠し事はできない。相談せずに決めることもできない。
レンフィは心の整理がつかないまま、正直に協会に勧誘されたことを話した。
「まぁ、そういう話だよな。いつかはこうなるって思ってた」
リオルはレンフィを片手で抱き寄せ、あやすように肩を叩いた。
「で? 行くのか?」
「…………行かなきゃいけないと思う」
「めちゃくちゃ嫌そうだな」
「あ、えっと、私にちゃんとできるのか不安だけど、頼ってもらえたことは嬉しかったの。必要とされて、尊重してもらえて、安心した部分もあって」
「そっか」
「あのね、怒らないで聞いてほしいんだけど」
「ああ」
レンフィは恐る恐る口にした。
「わ、私の力は、普通よりずっと強くて……みんなもそれを知っているから……聖人として真面目に生きないといけない。私もこの力を役に立てたいし、社会の輪の中にいたい。でも、その道を選んだらもう普通の暮らしはできないのかも」
国王が政治を行うように、農民が農作物を作るように、聖人は世界を浄化する仕事をするのが自然だ。そして聖人の信頼が問われる今、より大きな責務が課せられている。
空の精霊の寵愛を受け取った日から覚悟していたが、やはり当たり前の暮らしができなくなってしまうのが辛かった。
「レンフィが思う普通の暮らしって、どういうのだ?」
穏やかな問いかけに、レンフィは泣きそうになりながら答えた。
「家族と一緒に、生きていくこと……」
好きな人と結婚して、子どもを産んで、美味しい料理を作って、家をきれいに掃除して。生活費を稼ぐために働く必要だってある。大切な家族を守るために、みんな毎日忙しく生きている。
「協会に行ったら、それができなくなると思うのか」
「だって、きっと忙しくて、自分のことは優先できなくなって……リオルに会いに行けない。リオルのためだけには生きられなくなっちゃう」
たくさんの人間の命と生活が懸かっている。重要で責任感の求められる役割だ。寂しいからとムドーラに頻繁に行けるほど甘い仕事ではない。レンフィとて、民や他の聖人に迷惑をかけたくはない。
「ごめんなさい。勝手なことばかり言って……リオルはどう思う? 私、どうすればいいのかな」
心は正直なもので、レンフィは「行くな」と言ってほしかった。リオルに「他の奴のことなんか気にするな。俺と一緒にずっとムドーラで暮らそう」と言ってもらえたら、どんなに罪悪感に駆られると分かっていてもこの国に残るつもりだった。
しかし、そんな卑怯な願いが叶うはずはなかった。
「俺は、レンフィの好きに選んでほしいな」
「……うん。そうだよね。自分で決めないとダメだよね」
レンフィはしょんぼりと俯く。
「いや、二人で決める事だろ。一緒にいるためには」
「? どういう意味?」
少し体を離して顔を上げると、リオルは清々しい表情で言った。
「レンフィが協会の仕事をしたいって言うなら、俺もついて行くよ」
「え!?」
虚を突かれたレンフィの頬を、リオルはそっと突いた。
「お前の考え方は極端なんだよ。なんでその選択肢がないんだ? 俺は嫌だぜ。離れ離れになるのは」
「それは、私も同じだけど、でもリオルが協会に行くなんて……軍はどうするの? みんな困るよ」
「いやぁ、そんなには困らねぇんじゃねぇかな。しばらくは戦争がなくなるし、頭使う仕事が多くなるなら、むしろ俺以外の奴が上に立った方が効率良いかもな!」
レンフィは一気に混乱した。軽い調子で話すリオルを見ていたら、自分が深刻に考えすぎているだけなのではと思えてきた。いや、そんなはずない。
「ずっと軍のお仕事、頑張ってきて、せっかく将軍になったのに……」
「そこにこだわりはねぇよ。出世したくて軍人になったわけじゃない。最悪だった国が少しでも良くなるならって、陛下に仕えたくなっただけだしな」
「じゃあシダール様が怒るんじゃ」
「まぁ、多少機嫌は悪くなるかもな。何か別の方法で恩返しするよ」
「第三軍のみんなは……」
「あいつらは分かってくれると思うぜ」
前提として、二人は離れ離れにならない。リオルの中では二人でムドーラに残るか、二人で協会に行くかのどちらかの選択肢しかないらしい。
「これからの時代は戦うしか能がない俺よりも、みんなの役に立つ力を持ったお前が輝ける選択をすべきだと思うんだ。あ、もちろん俺もちゃんと働くし、お前をしっかり支える。協会にも警備隊とかあるよな? 治安が悪いって聞いたし、そういう仕事をもらえないか聞いてみる。ウツロギさんなら少しは融通してくれると思うし」
リオルの本気具合が伝わって、レンフィは胸が痛くなった。
自分の選択にリオルを付き合わせてしまうことが申し訳ない。そして、今まで築き上げたもの全てよりも自分と一緒にいることを選んでくれることが、言葉にできないほど嬉しい。
「また泣いてるし」
「だって、だって……」
リオルは満面の笑顔を見せた。
「もう最初から諦めるなよ。ちゃんと“普通の暮らし”ができるように、一緒に努力しような!」
あまりにも眩しくて、レンフィは愛しい人の顔を直視できなくなった。
こんな素敵な男性と両想いになれて、これ以上幸せな出来事は自分の人生には起こらないと確信でき、ますます涙が止まらなくなるレンフィだった。
後日、リオルが軍を辞めたい旨をシダールに伝えたところ、「この忙しい時に一人逃げは許さない。引継ぎ含めてあと三か月は働け」との返答があった。
やはり現実はそこまで甘くない。それでも三か月で許してくれる辺り優しいなとレンフィは思った。
次回はレンフィとリオル以外のその後のエピソードを予定しています。
よろしくお願いいたします。