103 選択
泣きながら気を失ったシンジュラの体を癒し終え、レンフィはほっと息を吐いた。この空間を覆っていた邪悪な気配は消え、骨の隙間からは青い空が垣間見える。
これでもう大丈夫、と思ったのも束の間のこと。
背中にじっとりした視線を感じ、恐る恐る振り返る。
「リオル……」
最愛の恋人の顔にははっきりと「不機嫌」と書かれていた。
「ごめんなさい。勝手なことをして……お、怒ってる?」
「………………まぁ、いいけどさ」
リオルは肩の力を抜いて苦笑した。
「お前がこいつを見捨てるのは、らしくないと思うし」
あっさりと気持ちを切り替え、リオルは背伸びをした。
「で、これからどうすればいいんだ? シンジュラは止めたし、灰色の霧も消えた。外の魔物は……」
リオルが地上を確認しに骨の隙間を覗きに行った、その瞬間。
「…………え?」
身震いするほどの霊力に晒された。
視界の輪郭がぼやけて色あせる。歩き出したはずのリオルが止まっている。いや、自分以外の全てのものが停止していた。
突然の現象に焦り、レンフィは立ち上がってウツロギを振り返った。
「心配いらない。時を止めただけ。きみと二人きりで話がしたくて」
「ウツロギ様……どうして」
時の精霊術は想像を絶するような力だった。当然霊力の消費も大きくなるはずなのに、ウツロギは涼しげに佇んでいる。
ここにきて、自分とウツロギの力の差を思い知った。時を止めることでどれだけの影響が出るだろう。リオルや地上の兵たちはどうなる。
「まず、ありがとう。レンフィのおかげでシンジュラを無力化できた。一つ間違えば竜の屍にシンジュラの呪いが宿るところだった。間違いなくきみの優しさは世界を救ったよ」
怯えるレンフィを宥めるように、ウツロギはにこりと笑う。
「もう一つお願いがあるんだ。選んでほしい。このまま竜を再封印するか、空の精霊術で封印を解いて戦うか」
「な……どうしてそんなこと……」
レンフィはウツロギの目的が見えず、首を傾げた。
最初から、黒竜の屍にはもう一度封印を施すという話だった。もちろん封印を解いて倒してしまえればそれが一番いいのだろうが、あまりにもリスクが高い。
魔物の群れやシンジュラと戦った後に、黒竜の討伐をする余力があるとは思えなかったために、封印を解かないようにという前提でこの作戦は始まったのだ。
「戦うなんて無茶だと思います。こんな大きな竜を相手に……やっぱり何か隠していることがあるんですか? なら皆さんに相談を――」
「黒竜の封印には生贄が必要なんだ。約百人分の命と、光の寵愛を授かれるほど無垢な聖人の魂。その力で屍の呪いを閉じ込め、時と空の精霊術で結界を張っているんだよ」
レンフィは言葉を失った。
しかし、考えてみれば当然のことだった。これほど巨大な竜の封印をするのに対価がないはずがない。
「皆に相談してもいいけど、再封印するとなれば誰が生贄になるかで争いが起こるよ。ああ、百人の命は犯罪者や余命僅かな人間を無理矢理集めれば済むかもしれない。でも、封印の核となる光の聖人は、自らの意志で身を捧げなければならないから」
凪いだ湖面のような瞳で見つめられ、悟る。
レンフィが知る限り、光の聖人は自分以外にいない。いたとしても、名乗り出る者はいないだろう。名乗り出てくれたとしても、代わりに犠牲になってくださいとも言えない。
「どうして、今になってそんなことを言い出すんですか……?」
「そりゃ、最初に話してしまえば、黒脈の王たちはきみを生贄にするに決まっているからね。きみの大切な人の命を盾にして。古代の竜と戦うとなったら、兵が集まらないかもしれないし、同盟も成立しなかっただろう。だから黙っていた。これはレンフィに一番に話さないといけない。きみには選ぶ権利がある」
騙された気持ちになりながらも、ウツロギは自分に配慮してくれた。怒ることも嘆くこともできず、ただただ思考が空回る。
この竜の封印を解いて戦うことを選べば、犠牲者は百名を大きく上回るかもしれない。
再び封印をすることを選べば、自分が封印の核になるしかない。
レンフィはリオルの背を見つめて唇を噛みしめた。
必ず二人で生きて帰ると約束をした。死にたくない。しかし竜との戦いでリオルが死んでしまったら。
自分の命や幸せを優先して、他者を危険に晒すなんてできない。
だけど、リオルが悲しむようなことも絶対にしたくない。
選べない。選びたくない。
そもそもウツロギの話を鵜呑みにして良いのだろうか。信じたくない気持ちが、レンフィに疑念を抱かせた。
「ごめん。酷なことを言っているよね」
「……どうしてですか? このまま私に黙っていれば、簡単に生贄にすることだってできるはずなのに」
俯いて恐々と尋ねる。
「レンフィは聞いたことあるかな? 黒竜退治の伝説。黒の王が竜を倒して、大地に呪いが広がった時、白い旅人の女の子が舞によって呪いを鎮めた」
「はい、知ってます。もしかしてその女の子が、生贄になった光の聖人ですか……?」
ウツロギははっきりと答えた。
「うん。ボクの末の娘。ソフィーラっていうんだ。まだ十五歳だった」
「!」
レンフィは弾かれたように顔を上げた。全てが腑に落ちたような気がした。
「もう千年以上も昔。あの時は本当に封印するしかなかった。大陸中の全ての人が力を合わせて倒したのに、屍になっても竜は動いた。そのまま呪いが大地を侵食して、皆が絶望の淵に立った時、白と黒の神の天啓で竜を封印する方法を知った。老兵や負傷兵が志願して命を捧げ、ソフィーラが弔いの舞を……そして、竜の屍と寄り添うように眠りについた」
約束したんだ、と呟く声は震えていた。
「いつか封印を解いて、屍の竜を倒し、ソフィーラの魂を解放する。ボクの血を引くソフィーラは長命だ。もしかしたら生きているかもしれない。だから……」
ウツロギにとって、苦渋の選択だっただろう。世界を守るために愛する娘を生贄にする。希望のある約束をしなければ、決断できなかったに違いない。
そして、その約束は未だに果たされていない。千年以上経った今でも後悔が残っていると、レンフィにも痛いくらい伝わってくる。
ここにきて、彼の言葉に嘘はないと確信できた。
「当時の黒脈の王や聖人たちも、あの子に約束してくれたんだよ。絶対にいつか助けるって。でも、いつしか誰も彼女の名を口にしなくなった。たった数十年で人々は約束を忘れて、また国と国が戦争を始めて大地を汚し、しまいには聖人たちまで集まって教国を作って……ボクだけが変わらずに世界を彷徨った」
人々は伝承を歪めた。黒竜伝説の結末は「めでたし、めでたし」だ。
生贄になった少女との約束は時の彼方に葬られ、忘れ去られた。その方が都合が良かったのだろう。
誰が危険を承知で竜の封印を解く。竜のいない世界すら、生きていくので精一杯なのに。
「気が狂いそうだった。どうしてあの時ソフィーラを止めなかったんだろう。どうして必死に他の方法を探さなかったのかな。ううん。犠牲の上でしか成り立たない世界なんて、滅んでしまえば良かったんだ……」
ウツロギの瞳から、涙がこぼれ落ちた。
もっと自分に力があれば娘を守れたのに。
時の聖人という重責がなければ、世界よりも娘の命を選べたのに。
せめてもの抵抗に、ウツロギは可哀想な少女の物語を世界にばら撒いてみた。余計に無力さを味わうだけだった。
「時の聖人でも、死のうと思えば死ねるんだよ。でも、どうしても死ねなかった。ボクが死んだらあの子のことを覚えている者は誰もいなくなる。最初からいなかったことにされてしまう。娘の救済を完全に諦めることなんてできない。もう肉体は朽ちてしまったかもしれないけれど、せめて魂だけでも」
ウツロギは世界を彷徨いながら、時を待った。
人々が竜を倒せる力を身につければいい。世界の危機が訪れれば、きっと力を合わせて戦える。
「それが“今”だ。ずっとこの時を待っていた」
その言葉はレンフィの心に強く響いた。
「こんな話をするのは卑怯だよね。優しいきみは、ボクの望む答えを選ばざるを得ない」
ソフィーラの話を聞いて「自分が生贄になる」とウツロギに言えるはずがない。
「そうですね。ウツロギ様は卑怯だと思います。でも……ありがとうございます」
「礼を言われるのはおかしいよ。ボクはきみを唆して、共犯に仕立て上げようとしているんだから」
「唆されるわけではありません。私が一人で考えても、きっと同じ答えを選んだと思います。だって、私はもう聖女じゃないから」
レンフィはリオルの背を見つめた。
彼に相談するまでもない。自分が生贄になると言ったら、とてつもなく怒って反対する。そう確信できるくらい愛されていると信じていた。逆の立場だったら絶対に自分もそうするから。
自己犠牲の精神は、もうレンフィには残っていなかった。
リオルを一人残して生贄になんてなりたくない。一緒に生きられないのなら、一緒に戦って死んだ方がいい。
何より、リオルにウツロギと同じ苦しみを味わわせるわけにはいかない。
「巻き込んでしまう皆さんに、とても申し訳ないのですが……」
「後で謝ればいいよ。全員で生き残ればそういう機会もきっとある」
「一緒に怒られてくれますか?」
「もちろん。でもボクは思うんだ。この地で戦う者は、きみが犠牲になることを望まない。信じない方が怒られるよ。みくびるなって」
人間は、千年前以上昔とは比べ物にならないほど進化した。
かつて大陸を震撼させた伝説の竜が相手でも負けない。それを証明するためにも、兵士たちは矜持を胸に戦うだろう、とウツロギは断言した。
その言葉に気持ちを楽にしてもらい、レンフィは決心した。
「はい。私は生贄にはなりません。竜の封印を解きましょう。ソフィーラさんの魂を解放し、もう二度と誰も犠牲にならないように」
約束を破りたくない。絶対に死なないし、死なせない。
リオルだけではなく、今この地にいる誰一人、犠牲にはしない。
「必ず勝って、生きて帰ります」