102 灰と虹
リオルが振り上げた剣には、怒りが顕現したように赤黒い炎が宿っていた。
シンジュラも腰の剣を抜いて応戦する。彼の右手は灰色の靄に覆われ、人間の動きとは思えないほど不自然に動いた。背後の灰色の亡霊がシンジュラの体を操っているようだった。
激しい剣戟の音が響く。
「忌々しい! “我ら”を滅ぼしたその炎!」
「知るかっつーの! もう一回滅びろ!」
「なっ!?」
リオルの動きにシンジュラは驚愕していた。
二人がリッシュアで戦った時、リオルは肉の巨人との戦闘でかなり消耗していた。しかし今はほぼ万全な状態であり、シダールから魔力の支援を受けている。以前とは比べ物にならないほどリオルの剣筋は冴えていた。
愛する女性を侮辱されたことで、怒りがとめどなく溢れてくる。それらの感情は全て炎になって剣に注がれた。
「またレンフィを傷つけやがって!」
「くっ」
凄まじい炎に怯み、シンジュラは防戦を余儀なくされた。思考に靄がかかり、得意の魔法が上手く構築できない。未だに致命傷を負っていないのは、亡霊の手が文字通りリオルの足を引っ張っているからだ。
「くそ! なんだこれ!」
リオルには亡霊の存在がはっきりと見えていない。気味の悪い妨害に対し、攻めきれずにいた。
「…………っ」
レンフィは震える体を抱きしめた。全身に悪寒が走り、呼吸が上手くできない。
心の中で天秤が揺れていた。
先ほどまで哀れに感じていたシンジュラが憎い。
救いたいと思っていた相手を目の前から消してしまいたい。
不自然なほど強い衝動に襲われ、身動きが取れなくなっていた。
【憎め】
【家族の仇をとれ】
【感情に呑まれれば楽になる】
【殺せ殺せ殺せ】
頭の中にそんな声が聞こえてきた。灰色の亡霊が自分にも忍び寄ってきている。彼らの声が殺意を助長する。
今立ち上がれば、憎しみに任せてシンジュラを殺してしまうだろう。
どうして躊躇っているのだろう。
誰も自分を罪には問わない。むしろ称賛されるかもしれない。たくさんの人間がシンジュラを憎んでいるのだ。
自分もシンジュラが憎い。オークィと妹たちの仇を取りたい。そんな強い欲求が喉の奥からせり上がってきて、叫び出しそうになる。
「リオル……」
リオルはレンフィのために怒り、剣を振るっているのだ。いつまでも彼を一人で戦わせておくことはできない。彼のためにも立ち上がり、シンジュラを攻撃すべきだ。
たとえこの手を汚してしまったとしても。
「ダメ」
レンフィは込み上げてくるシンジュラへの殺意を抑え、首を横に振った。
やけに短絡的な思考に傾く原因に気づいた。いつの間にか亡霊に干渉されている。
レンフィから理性を奪い、憎悪に染め上げることが亡霊の狙いだろう。衝動的に人を殺したら、正気ではいられない。その動揺に乗じて体を乗っ取るつもりかもしれない。
なぜ自分が亡霊に狙われるのかも分かる。
空の精霊術を使って、この世界の区切りを破壊するつもりなのだ。この世界は灰色の世界の内側に創られた空間だ。内と外を隔てる区切りを精霊術で壊されたら、内側まで灰色に侵食される。
区切りを外すのは、白と黒の神が一つになって全ての世界を救う力を取り戻してから。順番を間違えてはいけない。
『汝は、力を示した。資格はある。しかし、あえて問おう。我が寵愛を求めるか。愚かで虚ろな内側の世界を愛せるか』
空の精霊と会話した時のことを思い出す。
あの時の自分は何を考え、どう答えたのか。
アザミは風の精霊術を風の魔法で相殺し、憎き仇に肉薄した。
オトギリには理性も知性も残っていなかった。動き自体は素早く、力も増強されていたが、少し観察すれば単調な動きにも慣れる。
この結果は必然であった。
アザミは魔力を込めた剣でオトギリの足を斬り落とすと、その勢いのまま瓦礫の中に突き飛ばした。
のたうち回るオトギリを見下ろし、アザミは大きく息を吐く。
ついにこの時が来た。
父の無念を晴らし、家族の仇を取る。
剣を持っていない左手が無意識のうちに懐に伸び、短剣を手にしていた。この状態でもオトギリに言葉は通じるだろうか。オンガ村のことを思い出させ、父の形見の刃でこの男を殺せば、これ以上のない復讐になるだろう。
しかし。
「アザミ様! 早くとどめを!」
周囲にいた部下の声に、アザミは我に返った。同時にプラチナブロンドの少女の姿が脳裏によぎる。
あの日、聖女の偶像を殺そうとして、部下たちを危険に晒した。あってはならないことだった。
「っ!」
今自分が纏っているのは、シダールより賜ったムドーラ軍の将を示す軍服だ。国のため、王のため、民のため、最後まで職務を全うしなければならない。
確実に目の前の敵を殺し、迅速に次の行動に移る。憎しみで判断を鈍らせ、私情に走るわけにはいかない。この短剣では仕留め損なう可能性がある。恨み辛みを語り聞かせるなど以ての外だ。
アザミは即座に右手の剣を振り抜き、オトギリの首を断った。
灰色の体が血の気を失った死体になり、次の瞬間にはぼろぼろと崩れ落ちた。断末魔一つ上がらない、呆気ない最期だった。
「…………」
何年も抱き続けた復讐心は満たされることはなく、泡が消えていくように萎んでいった。正直に言えば不完全燃焼だ。
しかし、これでいい。何も後悔はない。それどころか激情に駆られなかった自分を誇らしく思えた。
アザミは一息で呼吸を整え、剣を鞘にしまって踵を返した。
感傷に浸るのは戦いが全て終わってからだ。
愛しい人がいるから、この世界を守りたい。だから、世界を危険に晒すような真似は絶対にしない。
「……私は一人じゃない。間違えない」
レンフィは目尻に残った涙を拭い、凛然と立ち上がった。怒りも憎しみも携えず、ただリオルとシンジュラの戦いを真っ直ぐに見つめる。
その様子を、ウツロギが穏やかに見守っていた。
「ああ、良かった。きみは大丈夫だね。憎悪に我を失くしたりしない」
レンフィは涙をこらえて問う。
「薄情ですよね。私のために死んでしまった人がいるのに……」
「そんなことない。オークィはレンフィの幸せだけを願っていた」
「仇を取らなくても、許してもらえるでしょうか?」
当たり前じゃないか、とウツロギは笑う。
レンフィは頷き、水の刃を生成した。傷つけるのではなく浄化するために、さらに光の精霊術を重ねて施す。
狙いはシンジュラではなく、灰色の亡霊たち。リオルを援護するのだ。
そう思っていたのだが、一歩遅かった。
「おりゃあっ!」
リオルが亡霊に構わず力ずくで押し切り、シンジュラを斬りつけた。
攻撃自体は浅いが、剣から燃え移った炎がシンジュラの体を容赦なく焼いた。そのまま爆発的に炎が広がり、空間ごと焼き尽くす。
「ああああああっ!」
耳を覆いたくなるような絶叫だった。シンジュラだけではなく、亡霊たちもおぞましい叫び声を上げる。
レンフィは咄嗟に水を操り包み込むように炎を消した。
灰色の亡霊は霧散したが、シンジュラは全身にやけどを負い、酷い状態になって転がった。一部は既に灰のように崩れ始めている。今すぐに治癒術をかけなければ死んでしまうだろう。
「レンフィ、下がってろ。俺がとどめを刺す」
「待って」
「なんでだよ。まさか、こいつを助けるのか?」
「うん。ごめんなさい、リオル……でもこのまま殺しちゃいけない気がするの」
リオルは不満そうだったが、大きくため息を吐いて剣を下げた。呆れられてしまったのかもしれない。
敗北が決まってもなお、シンジュラからはどす黒い怨念を感じる。彼自身の世界への憎悪が膨大な魔力と混ざり合い、妖しく揺らめいていた。
レンフィはシンジュラの傍らに膝をつき、両手の指を絡めて祈った。白と虹色の治癒の光がその体を優しく照らす。
「……っ」
耐えがたい激痛の中で、シンジュラは自問自答を繰り返していた。
なぜ自分は負けるのだろう。
誰よりも強くて特別なはずの自分が、どうして誰よりも不幸で惨めなのだろう。
何を手に入れても、何を成し遂げても、満たされることがない。誰も自分を愛してくれないから、愛せない。
あらゆるものが憎かった。密かに恋焦がれていた“死”すら自分を安らかにしてくれそうにない。
ならば、この世界に呪いを残そう。命と引き換えの呪いは、強い力を発揮する。
自分がいなくなった世界でみんなが幸せになるのだと思うと反吐が出る。
全て壊して、巻き添えにして――。
「…………?」
痛みが和らぎ、シンジュラは呆然と目を開いた。
眩い光の中で、レンフィが祈りを捧げている。自分の体を癒しているのだと気づいた時、シンジュラの心は大きく軋んだ。
「やめろ……っ! なんのために僕を助ける」
「分かりません」
「馬鹿な!」
レンフィは瞳を潤ませ、初めて激しい感情を顕わにした。
「だって、私も助けてもらったから! 記憶を失くして、皆に憎まれて、怖くて辛くて死にたくなった時! リオルたちが助けてくれた!」
レンフィ自身も、かつてはムドーラの兵をたくさん殺した。
ムドーラ王国で目覚めてすぐは、自分を憎む人々に囲まれて敵意を向けられる日々を過ごした。絶望の底に沈んだその時に、最初にリオルが手を差し伸べてくれたから生きてこられた。実際には教主に人質を取られて脅迫されていたからだとしても、人を殺して教主の野望に加担した事実は消せない。
レンフィは、自分とシンジュラに大きな違いがあるとは思えなかった。
「あなたのことはよく知りません。でも、たくさん苦しんできたのは分かりました。私に憎まれて殺されたいみたいに振舞うのは、罪の意識の表れではありませんか?」
シンジュラは咄嗟に「違う」と呟いたが、声に力が入らなかった。
「全てが許されることは決してない……でも、あなたにも救われる機会があってほしい」
人間の感情は単純ではない。時には相反する気持ちを抱く。
憎いけど、このまま死んでほしくない。
許せないけど、許してしまいたい。
甘いと分かっていても、誰にでも善の心があるのだと信じていたい。
「どうか、悲しい気持ちのまま死なないでください」
悔い改めるならば、死以外の方法で償えるといい。
自分に贖いの機会が与えられたように。
そして、何かを成し遂げて満たされてほしい。この世界を肯定してほしい。
「……あり得ない」
シンジュラは呆然と呟いた。そのまま治癒の光の眩しさに目を細めたら、瞳から涙がこぼれ落ちた。
レンフィは底なしの馬鹿だ。
放っておけば祖父の仇が死ぬのに、どうして助ける。ここで自分を生かしたところで、何の意味もない。後で処刑されるに決まっている。
レンフィの行いは偽善に過ぎない。
人の死に関わりたくないだけ。誰にでも良い顔をしているだけ。後味の悪い想いをしたくないだけ。
そう思うのに、どうして涙が止まらないのか。
『可愛いシンジュラ……どうか全てを壊して。この世界は汚らわしい』
亡き母の言葉を思い出し、歯噛みした。本来無償の愛を注いでくれるはずの存在は、シンジュラに世界への憎悪を吹き込んだ。息子を復讐の道具にしたのだ。
一方レンフィは、家族の仇だというのに自分が救われることを願ってくれた。
レンフィにも分かっているはずだ。ここでシンジュラを蘇生することにはなんの利益もなく、むしろ多くの人間に詰られるような行為だ。それでも目の前で苦しむ人間を見捨てられないのだとしたら、レンフィばかりが損をする。
理解できない。
レンフィはシンジュラの価値観の外側にいる。別世界の存在だ。
自分を取り巻く世界がどれほど狭く、つまらないものだったのかを思い知らされた気がする。
視界が涙で滲み、虹色の光がより美しく瞬いた。
この世界は本当は汚れてなんかない。シンジュラは素直にそう思った。
その瞬間、都を覆っていた灰色の霧が晴れた。




