101 悪意
大聖堂は竜の骨に貫かれ、今にも崩れそうになっていた。
レンフィとリオルは安全な道を探したが、結局は大聖堂に入らずに骨を伝って登っていくことにした。骨の突起が階段のように連なっており、足場には困らない。肋骨のような回廊の隙間から内部に入ったが、灰色の魔物の気配はなかった。
都の騒音が遠く、不気味なほど静まり返っている。
「シンジュラがいるとしたら、城の上の方だね。全く骨が折れる……あ、今のなしで」
物陰からふいに声をかけられ、レンフィは短く悲鳴を上げた。
「え、ウツロギ様? どうしてここに?」
空間認識が鈍くなっているのは確かだが、全く気配がなかった。ウツロギは驚かせたことを詫びるように微笑を浮かべた。
「ボクはこの世界で唯一の時の聖人として、全てを見届けないといけない。心配しないで。二人の足を引っ張ったりしないから」
ウツロギは教国軍の聖人たちに精霊術の指導をしていた。今日も全ての戦いが終わってから竜の再封印を行うため、戦闘には参加しないと聞いていた。
何故だろう。レンフィはウツロギの登場に不安を覚えた。リオルもまた、同じように違和感を覚えたのか眉間に皺を寄せる。
「ボクが信用できない?」
「陛下が言ってた。ウツロギさんはいろいろと隠し事をしていたし、まだ隠していることがあるって。疑いたくはねぇけど、怪しすぎて心から信じるのは難しいな。何か他に目的があるんじゃねぇか?」
リオルの率直な問いにも、ウツロギは怯みもせず微笑んだままだった。
「ボクは嘘も詐欺も嫌いだ。でも、どうしようもない時もある。隠し事くらい許してほしいな。長く生きていると、世に出せない真実をたくさん抱えてしまうんだ。たまに気が狂いそうになるし、もしかしたらもう狂っているのかも……」
そして、降参するように手の平を見せる。
「神々に、精霊たちに、この世界の全ての人々に誓う。ボクは誰も傷つけない。一人でも多くの人間を救うために動いている。一緒に行かせてほしい」
レンフィとリオルは顔を見合わせた。
ウツロギの目的は全く見えないが、この言葉に嘘はないように思えた。
「分かりました。急ぎましょう」
「ありがとう」
ウツロギを加え、三人は骨の城を駆け上がった。
誰にも出会わない。城とは名ばかりの虚ろな空間だった。
やがて開かれた場所に出た。純白の骨が柱のように規則的に並び、隙間から灰色の空が見える。
まるで天空に浮かぶ神殿のようだが、その場に満ちる異様な空気は神聖さとは程遠かった。
レンフィはかつてないほど強い恐怖心を抱いた。
黒髪の少年。その背後に浮かぶ灰色の怨念。無数の人の顔と手がドロドロに溶けて絡まり合い、怨嗟の声が頭の奥に響く。
「本当に帰ってくるとは……ここは『おかえり』と言うべきか?」
シンジュラ・ブラッド・ルークベルは真っ直ぐにレンフィを見て言った。
美しい少年だった。シダールと比べても遜色ない。退廃的な空気を纏い、どこかぼんやりとした表情で佇んでいる。
その生気のない赤い瞳に、レンフィはただただ困惑した。シンジュラについて聞いていた印象とまるで違う。目の前の彼からは意志の強さを感じられない。
「随分と精神汚染が進んでる。それどころか、もう……」
ウツロギがやるせなさそうにぽつりと呟いた。
「ただいまなんて言うわけねぇだろ。レンフィの帰る場所はここじゃない」
リオルがレンフィを庇うように前に出た。
「貴様はリッシュアの……今度こそ名乗ってもらおうか」
「俺は、ムドーラ王国国王直属軍第三の将・リオル・グラント」
シンジュラは目を見開いた。
「リッシュアの剣士ではなく、ムドーラの? 確かレンフィと戦っていた……」
「ああ。ちなみに、今のレンフィとは恋人同士だぜ」
羨ましかろう、と言わんばかりに堂々と言い放ったリオルに対し、シンジュラは狼狽えるように体を揺らした。
「理解できない。敵同士だったくせに今は恋人? 記憶がないにしても、なぜそんなことが……」
「はっ、何があったか丁寧に説明してやりたいところだけど、時間がない。灰色の霧や無限に出てくる魔物はお前の力なんだろ? 今も仲間が戦ってるんだ。早くお前を倒して終わらせてやる」
剣を構えるリオルに対し、シンジュラは頭を抱えた。
「あり得ない。生贄のくせに、人形のくせに……僕よりも不幸で惨めな奴隷だったのに……どうしてお前が……!」
何がそこまでシンジュラを動揺させるのか、レンフィには分からなかった。
シンジュラの感情に揺り起こされるように、背後の怨念たちが膨らんでいく。
「ウツロギ様、あの、彼は一体どういう状態なのでしょうか?」
「うーん。見たところ、一度目の世界……滅びた世界の亡霊に取り憑かれているね。自ら体を明け渡してしまったのかな?」
レンフィは空の精霊に見せられたこの世界の外側の風景を思い出した。
神の怒りを買って滅ぼされた世界。誰もいない灰かぶりの景色。忘れられ、置き去りにされた時空。
「あの世界の亡き住人はね、白と黒の神に見守られながらのうのうと暮らしているボクらが憎いんだ。いつだってこの世界を滅ぼす機会を狙ってる。今回はシンジュラを唆したんだろうね。黒脈に憑依するのは、ボクが記録する限り初めてのことだ」
「そんな……どうして」
「シンジュラは教国の聖人と黒脈の姫の間に生まれた子。神に近い“白”と“黒”が混じり合っていて、限りなく“灰色”に近い存在なんだ。それ自体は珍しいことでもない。歴史上、聖人と黒脈が結ばれることはたくさんあったから。でも彼は愛によって生まれた子ではなかった。それどころか、憎悪と不幸に塗れた人生を送ってきたんじゃないかな」
シンジュラの世界を憎む心が、灰色の亡霊を呼び寄せた。強い力を持つ黒脈だからこそ、広大な範囲に灰色の霧を顕現させられているのだとウツロギは述べた。
「きっと黒の神は、大いに嘆いているだろうね」
レンフィは複雑な気持ちになった。
シンジュラのやったことは許されない。
過去の自分が受けた仕打ちについては判断できなくとも、彼がリッシュア戦線で行った非人道的な魔法は受け入れられないし、教国の都に住んでいた人も何が起きたのか分からぬまま犠牲になってしまった。
シンジュラの行いによってどれだけの人が死に、どれだけの人が大切な人を喪ったのだろう。
しかしそれも全て、灰色の亡霊に操られてやったことだとしたら。
剣を構えたまま隙を伺うリオルが、振り返らずに言った。
「レンフィ。あいつに同情するなよ」
「う、うん。倒さなきゃいけない人だってことは分かってる……」
分かっているが、シンジュラを哀れに思う心は止められない。
両親に愛されて育っていれば、寂しい時に誰かがそばにいれば、優しさに触れる機会があれば、こんなことにはならなかったかもしれない。
きっと、同じような境遇でも腐らず前向きに生きていける人間はいるだろう。しかしだからと言って、そうなれなかったシンジュラが悪いとも思えない。
何より、あのような恐ろしい亡霊に狙われて打ち勝てる人間がどれほどいるというのか。
「レンフィはシンジュラを救いたいの?」
ウツロギの問いに、レンフィは目を見開いた。
「そんなことができるんですか?」
「可能性はゼロじゃないかな。リオルの滅びの炎とレンフィの浄化の力があれば、灰色の亡霊を祓うことができると思う。シンジュラを生かすことも――」
「ふざけるな!」
叫んだのはシンジュラだった。
「僕を救う? 笑わせるな! そんなことは望んでない! お前なんかに見下されてたまるか!」
抜け殻のようだった彼の瞳に、強い嫌悪と拒絶の赤が浮かぶ。
「記憶を失って、人を憎む心も真っ新になっているのか? 僕がお前に何をしたのか知っても、そんな綺麗ごとが言えるとは思えないが」
「聞いています。あなたが、というよりも教主が私にしてきたことは……」
シンジュラの父である教主リンデンは、幼い頃からレンフィを虐待し、戦場での人殺しを強要し、少しでも親しくなった者も殺していった。同じ教会で育った妹たちの命を盾にされため、レンフィには歯向かうことができなかった。
そして、リンデンは黒の神に記憶を捧げる儀式の前に、妹たちをレンフィの目の前で惨殺した。
レンフィが知っていることを話すと、シンジュラは嘲笑を浮かべた。
「ああ、確かにそれらは父が、リンデンが主導で行ったことだが……これは知らないだろう? 僕はお前のたった一人の血縁者をこの手で殺している」
「え」
予期せぬ言葉に、レンフィの頭は真っ白になった。
「昔のお前も知らなかったはずだ。空理の聖人オークィはお前の祖父に当たる人物だ。可愛い孫娘を逃がした代償に、僕に殺された」
「……っ」
足元がふらつき、レンフィはその場に尻もちをついた。
以前オークィの話を聞いた時に、おかしいと思ったのだ。なぜ命懸けで自分を助けて逃がしてくれたのか。
答えを求めてレンフィはウツロギを見上げる。いつになく申し訳なさそうな顔をしていた。
「……ごめんね。きみとオークィに血の繋がりがあるのは確かだ」
「どうして、言ってくれなかったんですか」
「それがオークィの望みだったから。辛い過去を全部忘れて新しく生き直すために、きみが気に病むような事実は極力話さないでほしい、と」
黒の遺跡で真実を語った時、ウツロギはこう言った。
『どうか彼の死を気に病まないで。オークィの魂は、レンフィが幸せなら報われる』
その言葉の意味を真に理解して、レンフィは顔を両手で覆った。
自分にも血の繋がった家族がいた。祖父に命を救われていた。だけどもう会えない。目の前で傲慢な笑みを浮かべる少年の手で殺されたのだ。
妹たちが殺されたと聞いた時よりも、遥かに大きな衝撃を受けた。
誰かから家族の話を聞く度に、心の奥で思っていた。羨ましい。自分にも無償の愛を注いでくれる人がいたなら、どのような感じだろうか。
自分にもいたのだ。命懸けで守ってくれるくらいに自分を愛してくれていた家族が。その喜びが裏返って深い悲しみに変わる。
もう二度と埋まらない喪失感にのみ込まれて、レンフィは嗚咽を上げた。
「はは、まさか本当に悲しんでいるのか? 祖父の顔も覚えていないくせに! でもこれで、僕を救いたい気持ちなんて消え失せただろう? お前は人を憎む気持ちを知った」
シンジュラは大きな声で笑った。
「憎い相手は殺せばいい。僕はそうした。父も、うるさい聖人たちも、全部! お前が憎むべき相手はもう僕一人だ!」
感情が溢れてせめぎ合い、レンフィは何も言葉を返せなかった。心がボロボロになっている。
「どうした? 恋人ができて浮かれていた自分が恥ずかしくなったのか? それとも憎しみが足りない? なら、教えてやろうか。オークィがどんな風に死んで――」
「もう黙れ。最悪だよ、お前」
リオルの声は怒りに満ち、震えていた。
「絶対に許さねぇ」