1 囚われた聖女
薄暗い部屋で、少女は目を覚ました。
体が岩になってしまったかのように重く、呼気が張り付いて声が出ない。
もがくようにベッドの上で身じろぎすれば、すぐそばで息を呑む音が聞こえた。人の気配に怯え、少女は下手に動くのをやめた。代わりにぼんやりとした頭を働かせようと試みても、何も浮かんでくることはなかった。
遠ざかっていった足音がゆったりとした足音になって戻ってくると、しわがれた声が響く。
「あの状態から持ちこたえたのかい……」
老婆の憐れみに満ちた声で、初めて自分が死の淵にいたことに思い至る。
灯りがともされ、少女はぼんやりと鉄格子を眺めた。確かに、生き延びたと喜ぶことはできなさそうだった。
「傷は塞がっているよ。血は足りないだろうけどね。ああ、まだ痺れが残っているね」
それから首筋に手を当てられたり、瞳を覗き込まれたり、手を握るように言われたり、体中を調べられた。
診察らしきものが終わると、老婆が浄化魔法を施し、着替えを手伝ってくれた。目に見える範囲では体に傷は残っていない。
ただ、どうしようもない倦怠感がある。
特に、両手首に嵌められた錆色の腕輪からは嫌な感じがした。鍵穴はなく、どうやって嵌められたのか、どうやって外すのか、まるで見当がつかない。
「精霊術は使わせられないよ。ここがどこか、分かっているだろう」
少女は返す言葉が見つからず、老婆もまた、それきり会話を拒絶するような空気を纏っていた。
足音がもう一つ近づいてくるまで、二人は終始無言だった。
「おーい、ばあちゃん。そろそろ準備はいい? もうみんな集まってるんだ」
「なんだい。せっかちな男どもだね」
部屋の、否、牢の中に入ってくる男がいた。
赤茶色の髪に金色の瞳の、少年と青年の間のような若い男だ。腰に剣を下げている。
ベッドに腰掛けた少女は見下ろされる形になり、身を縮こませた。男からは圧倒されるような生命力を感じる。
男は安堵したように笑った。
「ああ、良かった。見間違いじゃない。やっぱり本物の聖女サマだ。こんなところで会うなんて変な感じだな」
聖女、と口の中で呟いてみたが、少女は戸惑うばかりだった。
「んん? なんかぼんやりしてるな。俺のこと分かってる?」
「毒も薬もまだ体に残ってるからね。あと、連れて行くのは勝手だけど、歩けないよ」
「え、そうなのか?」
「宰相殿のご命令さ。切れた腱を繋いでない」
男はため息を吐いて、ちらりと少女を見た。
「……まぁ、仕方ないよな。我慢しろよ。暴れたら落とすからな」
軽々と少女の体を抱きかかえ、男は牢を出た。
老婆の言葉通り、脚が動かない。痛みどころか感覚もない状態で、抵抗などできるはずもなかった。落ちるのが怖くて、男の鍛えられた体にぎゅっとしがみついてしまったくらいだ。
男は訝しげな表情をしたが、そのまま少女を抱え、しっかりとした足取りで石の床を進んでいく。
かなり大きな建物だが、誰ともすれ違わない。少女はますます不安を覚えた。
「随分と大人しいな。いつもみたいな憎まれ口も叩かないし。この状況じゃ、さすがのお前も強がってられないか。可哀想に……って言ったら怒る?」
どこか気安そうに男が問いかけてくる。
怒りはなかった。男に対する感情が、何もない。
「知ってるか? この国には、白亜教国みたいな残酷な刑罰はないよ。ちゃんとした裁判もないけどな。だからお前がこの後どうなるか、俺にも分かんねぇ」
不安を煽るような言葉に、少女は男を見上げる。
男は笑っていたが、どこか寂しそうな顔をしていた。
「まぁ、もしこの場を生き延びられたら、また話そう。あのときの約束、俺はまだ覚えてるから」
少女は何も言えなかった。
男が足を止める。いつの間にか、大きな扉の前に辿り着いていた。
「国王直属軍第三の将、リオル・グラント。白虹の聖女を陛下の御前に」
その申し出に応えるように、ゆっくりと扉が開く。
左右から殺到する視線に少女は震え上がった。
冷たい目、下卑た目、憐れみの目、憎悪の目。どれもこれも自分を一心に見ている。
その中でも一際異質なのは、進む先にあった。「近づきたくない」という願いが通じたのか、長い赤絨毯の半ばで自分を抱える男が足を止めた。
「あ、どうしよう。誰か椅子持ってきてくんない? こいつ、脚が動かないんだって。つーか、靴忘れたな」
「別にそのままで構わないでしょう。非公式な謁見ですし、その場に降ろしなさい」
「そっか。じゃあ」
男は言われるがまま、少女を床に降ろした。人肌が離れて途端に心細くなったが、剣の柄に手を置いた男に取りすがることなどできなかった。
「ほら、前向けって。陛下に失礼だろ」
足を崩した状態で座り込み、少女は恐る恐る赤絨毯の先を見る。
「…………」
玉座にだらしなく腰掛ける男と、目が合った。
この世の者か疑わしいほど、美しい男だった。
赤い艶のある不思議な黒髪に、同じく赤い光を携えた黒い瞳。嗜虐性を帯びた表情で少女を見下ろす姿は、まさしく玉座にふさわしい傲慢さであった。
少女からすれば、不吉な存在に思えてならない。
自分の命を握っている相手――国王は、青ざめて怯える少女を見て、口の端をわずかに釣り上げた。
それだけでもう、少女の心は折れかけていた。
王の隣に立つ初老の男が一歩前に出た。
「白虹の聖女レンフィ」
少女は答えない。
「あなたは三日もの間、昏睡状態でした。目覚めてすぐに申し訳ありませんが、我らの王は回りくどいことを嫌う性質でしてね……此度のあなたの行動には謎が多いですからね。毒持ちの魔物と戦い、相打ったというのも奇妙な話。あなたほどの聖人ならば――」
続く言葉のいくつかは入ってこなかった。
心臓が激しく脈打って、冷や汗が止まらなくて、頭の中はいつまでたっても混沌としたままだ。
体の震えが止まらない。
「――さて、お答えいただきましょうか。なぜ敵対するマイス白亜教国の聖人が、我がムドーラ王国の遺跡に? 雪解けまでは休戦のはず。我らを悪の王国と罵りながら、聖なる国は約定を反故にするのですか?」
四方から殺意の籠った視線を受け、少女は今にも気を失ってしまいそうだった。
初老の男は、少女の反応を探るように矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。
「目的は黒の遺跡の破壊か盗掘か。はたまた要人の暗殺? それにしては間抜けな結末ですがね。まさか自分が身を挺して助けた方が、どなたかお分かりでなかったとか? それとも生かしたまま攫う指令を受けていたのでしょうか」
下手なことを言えば死ぬ。殺される。
それが本能的に分かっていても、少女はその一言を口にした。
「分かりま、せん……」
声が引っかかり、少女は咳き込んだ。久しぶりに発声した喉が、心と同じく悲鳴を上げている。
しん、と静まり返る謁見の間。少女は痛みごと飲み込むように咳をこらえた。
「ふざけるな!」
どこからか怒号が飛ぶと、続く声が止まらなかった。少女に対する罵倒の嵐。
血も心もない悪魔、神の奴隷、教国の殺戮人形。
許さない、殺してやる、仲間の仇をとってやる……!
そんな物騒な単語が耳に飛び込んでくる。
しかしこうまで憎まれる理由すら、少女には分からない。まるで身に覚えがなかった。
「少し黙れ」
黒髪の王の言葉に、再び場に沈黙が落ちる。
先ほどまで浮かべていた笑みを消して、王自ら問うた。
「もう一度だけ聞いてやろう。聖女よ、なぜ我が王国にいた。真実を答えるのであれば、明日の命は保証してやろう」
少女はか細い声で、たった一つの愚かな答えを返す。
「分かりません。本当に、何も……分からない……」
瞳から涙が溢れていた。
目覚めてからずっと蓄積していた不安が、ここで堰を切ったのだ。
「何も、思い出せません。ごめんなさい、わたし、私は――」
どうしてここにいるのか、今までどこにいたのか、足が動かない理由も、罵声を浴びせられる謂れも、あの男としたという約束も、何もかも。
家族の顔も、故郷も、自分自身の名前も、あらゆる全て。
記憶の一欠片だって少女は持っていなかった。
答えを探すように、少女は謁見の間を見渡し、最後に王に向かって首を傾げた。
「誰、なんでしょうか?」