番外編 Lancelot
結婚するなんて考えたこともなかった。
俺に触れられ、正気でいられる女がいるなんて想像もしなかった。生まれてすぐに実の母に捨てられた人間なのだから。
女がこれほどまで、小さく、脆く、柔らかいとは。
女がこれほどまでに滑らかで、芳しい匂いがするとは。
女のささやき声がこれほどまで、胸を熱くし鼓動を速めるとは。
◇◇◇
この夏の悪天候のせいで、農産物が随分やられた。国王を悩ませる前に近隣の領主と集い、数日対策を練った後、急ぎキアラリーに戻るも既に深夜。そっと自室に入ると、エメリーンはクゥ……とかわいいイビキを立てて寝ていた。俺のベッドで丸くなるエムを見て、胸に安堵が広がる。屋敷を空けて、戻った瞬間の緊張感はなかなかなくならない。エムは小さい。次にいなくなったら探しだせるかわからない。はあ、と息を吐き、シャワーを浴びる。
サッパリした後ベッドに入り、エムをそっと背中から抱き込む。エムはいつもの白地に赤い小花の寝巻き姿。たまには新しいものを買えばいいのに『んー貧乏性なんで……ランス様に最初に買っていただいたコレが柔らかくて気に入ってるので、まだ買い換える必要なしです』などと言う。貧乏性とはなんだ?まあ、エムが赤を好んで身につけてくれるのは……堪らなく嬉しいが。
「ん……」
エムが身じろぐ。その動作でエムの甘い香りが立ち上る。一際匂い立つ白い首筋に顔を押し付けて、息を吸い込みキスをする。一輪赤い花が咲く。
「らんす、さま?」
「ああ、ただいま」
エムが目を閉じたまま体をひねり、慣れた仕草で首を伸ばし、俺の頰にキスする。
「おかえりなさいませ」
半分夢の中のエメリーン。そんな意識のない状態でも俺がそばにいること、抱きしめていることを許す女。
俺は奇跡の中にいる。
珍しくエムが腕を伸ばし俺の首に回してきてすがりつく。寝ぼけているからこその甘え。
「どうした?」
「寂しかった……おととい帰るって言ったのに」
息が止まるかと思った。
そうだ、俺がエムがこの部屋で待っていてくれるか不安なようにエムもまた、一人ここに残ることが不安なのだ。忌まわしい出来事のせいで。
「くっ……ごめん。昨日の豪雨、リングを走らせるのは酷だった」
「うん……わかってるの……もう一緒になったからいい……」
……スタンに叱られても、今度から連れて行こう。俺にしっかとしがみついて再び眠るエムを俺の体の上に乗せ、その上から毛布を隙間なくかける。エムは軽すぎる。飛んでいきそうだ。
頭をそっと撫でると、後頭部の王太子の襲撃で負った傷に指が触れる。あの時もしエムを失っていたら、俺は今頃人としてこの世にいなかっただろう。あの時点で、既にエムなしでは生きていけなかった。
ようやく伸びた細く柔らかな黒髪を指に巻きつけ、頭のてっぺんにキスをする。一度始めれば止まらない。髪、額、頰、手首、腕の内側、届く全てにキスをする。エムとのキスはどこであっても甘い。あの日俺にくれたハチミツの飴と同じ。思う存分エムを充電する。
くすぐったかったのか、エムの瞼がゆっくり開いた。初めて王城であった時、俺を真正面から受け止めて以来、一度も怯えを見せない、揺るがぬ信念を持つスミレ色の強く優しき瞳。思わずその二つの宝にも唇を寄せる。
「ランスさま……よかった。元気?疲れてない?」
「大丈夫だ。エム、おかえりのキスをしてくれ」
覚醒したエムに今一度、愛を請う。
エムは上半身を少し起こし、俺の髪に両手を差し入れ、ゆるりと微笑み、俺の唇にキスを落とす。鼻同士もかすめ合う。直後恥ずかしくなったのか俺の首元に顔を埋め、
「おかえりなさい、ランス様」
小さく囁き、グリグリと額を押し付けてくる。可愛すぎる。俺を殺しにかかってるとしか思えない。
世界でただ一人の特別な女、俺の女、俺だけの女。
「愛してる。エム」
身体を回転させエムに覆いかぶさり、頭を傾け食べるようにキスをする。夢中になる。
「あ……」
俺の女神。死神である俺と釣り合わないことなどわかっている。それでも、もう手放すことなどできない。
エムが両手で俺の傷だらけの顔を包み込む。何事かと数ミリ唇を離す。愛する人の瞳は潤み、赤く染まった唇は震えている。親指で俺の眉間をさする。シワがよっているのだろうか?
俺にだけ届く秘めやかな声。
「……ランスさま……私だって負けないくらい……だいすき…………」
◇◇◇
女がこれほどまでに優しく温かく男を包み込み、渇いた心を満たすとは……
エメリーン、私の運命の乙女。死神の命はあなたのものだ。
おしまい。
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