10 unlucky?
私は縦抱きされたまま、城の中に入る。
「ロニー!」
ランス様が叫ぶと、ロニー様が小走りでやってきた。
「俺の支度ができ次第出る。エムを頼む」
「……ってことは私は今回留守番ですか?」
「エムが『領主の妻』になるまでは、お前が妻適任だ」
……まあまだ『領主の妻』の何たるかもわかってないからね。
ランス様がようやく私を床に下ろした。
「どちらへ?」
「討伐だ。詳しくはロニーに聞け」
そう言ってくるりとどこかに行きそうになったので慌てて腕を捕まえた。
「どうした?」
私はちょいちょいと手招きし、ランス様に屈んでもらった。
ランス様は内緒話と思ったのか私に向かって耳を寄せた。ちょうどいい。
ちゅっ。
ランス様の頰にキスをした。
「ランス様、いってらっしゃいませ。ご武運を」
どやあ!ちゃんと『領主の妻』らしいことしたぞぉ!それも絶対ロニー様が出来ないこと!
私はランス様ににっこり笑った。
何故か、ランス様は固まっていた。頰に手を当てて。
「ランス様?」
「……行ってくる……」
ランス様はよろよろと、壁にぶち当たりながら少し先のドアに消えた。
「ロニー様、あの部屋は書斎ですか?」
「いえ、リネン室です」
「リネン室?こんな入り口近くにリネン室っておかしくない?ランス様リネン室にどんなご用事が?」
「……シーツ替えたいんじゃないですか?」
「!さすがロニー様!私、領主の妻失格ですわね!次からは自分で気づいて進んで替えますわ!」
「く、く、くはーっはっは!苦しー!エムちゃんサイコー!はあはあ、さあさあ、ここにいるとランス様が出てこれないから本当の書斎に行きましょうね!」
ロニー様が体をくの字に曲げて笑いながら、私を先導する。ロニー様、知的な眼鏡美人の印象だったのに違ったのか。残念。
日当たりが良く重厚な焦げ茶で統一された書斎はまだガランとしていた。これからランス様の荷物や本が増えていくのだろう。
「さあ、奥様、こちらへ」
そう言って示されたのは窓際の一際大きい机の向こうの、ランス様の、この家の、この領の主人のための、大きな黒い革張りの椅子。
そこは、座れないわ。さすがに。
私は机の向こうに周り、その椅子の背もたれに、手を乗せて、横に立った。
「立ちっぱなしでは疲れませんか?」
「次回は椅子を持ち込みます」
ロニー様が少し笑って、机の上に地図を広げた。
「この丘を背にした丸い円が現在地です。そしてここから南のここ、この森で狼が群れをなして平野に降り、人間の領域に入って荒らしています。領主はその討伐に向かわれます」
「この地図の縮尺がわからないわ。どの程度の距離なの?」
ロニー様が私をチラリと見て、言葉を続ける。
「馬で半日。でも今朝から我々が動いた距離よりも遠いです。平野ですので先程よりも飛ばします」
「狼の群れの規模は?」
「報告では20〜30。全て成獣のようです」
「……ランス様が赴く必要あるの?」
「地形をご自分で全て把握するまでは、自ら先頭にお立ちになります」
ふーん。完璧主義なんだ。ってことはしばらくランス様、休み無しになりそう。ブラックだ。
「ロニー様はこの討伐、どのくらいで収束すると思うのですか?」
「まだ土地勘がないので……三日でしょうか」
「その三日間、私は何をするのが最善かしら」
「とりあえず、この城を覚えて、疲れを取って、その後はおいおい、ということで」
私は素直に頷いた。
「ところでさっきの頬っぺたへのキスは即興ですか?」
急に振られて何のことか一瞬わからない。
「え?……あ、え?即興って何?父が出かける時は母は必ずキスを贈ってたのですが……まさか東ではタブーでしたの?」
「いえいえ、問題ありません。そうですか、バルト伯爵家は仲睦まじいのですね。くくく……」
ロニー様が、しばらくお待ちください、と笑いながら部屋を出ていった。気を持たせる去り方してからに。
手持ち無沙汰になり、窓の外を見ると、兵が十騎ほど門から走り出ていき、しんがりをランス様がダグラス様と話しながら駆け出していった。
行ってしまった。
窓枠を掴んでランス様が消えた方向を眺めていると、ノックの音がする。返事をした。
ロニー様がずらずらと三人連れて入ってきた。
「奥様、この城の者を紹介いたします。まず、執事長のスタン」
「はじめまして、よろしくお願いします」
「はあ???」
背の高い上質な黒いスーツを着たおじいさんが私に向かって耳を突き出した。
「あ、スタンは耳が遠いんだ。大きい声で言って?」
耳が遠い執事ってありなの?まあ執事長なら実務は若い人に任せるからありなのか?声を張り上げる。
「スタンさん!エメリーンと申します!よろしくお願いします!」
「はいはい、よろしく」
「こちら、メイド長のサラ」
「よろしくお願いします」
おしきせのメイド服を着た中年の女性に無言で頭を下げられ……頭を起こすタイミングでしっかり睨まれた。何故?
「そしてこいつは軍を抜けて私たちについてきた、クレアです。お困りのこととかお使いがあるときはクレアに申し付けください。女性同士の方が頼みやすいこともあるでしょう」
いや、この若い、黒のサラサラストレートの髪が美しいクレアさんもまた、わかりやすく私を憎々しげに見てるけど……。
「では、私、用事を済ませてまいります。奥様、必要と思われることをすり合わせてください」
ロニー様はせかせかと出ていった。まあやることはいっぱいあるのだろう。
「……よくも、よくも私たちの英雄の顔に泥を塗ってくれたわね!!!」
ロニー様が退出した途端、クレアさんは目を釣り上げて私に食ってかかってきた。
「意味がわかりませんが?」
「意味もわかんないなんて、傷物の上にバカなの⁉︎あんたみたいな欠陥品、英雄ランス様にふさわしくないのよ!ランス様が気の毒すぎる!」
ランス様の……ファンなんだ、クレアさんは。でも、
「王命ですので」
「あんたが汚い手を使って王命使ったんでしょ!!!」
むちゃくちゃだ。王命を私ごとき小娘がどうこうできるものか。
キリキリと歯を鳴らすクレアさんの横で、メイド長のサラさんが私の頭から足の先までジロジロと見る。
……私はもちろん馬臭い少年の格好のままだ。
「本当に嘆かわしい。あなたなどがこの栄誉あるカリーノ領の……夫人だなんて」
「カリーノ領?キアラリー領ですよ?」
「誰もメイドを連れて来なかったのですの?」
無視された。
「何しろ急だったので。みんな都合があるでしょう?」
私は笑って言ってみた。本当はカノンをはじめ、私に付いてきてくれると心配して言ってくれた姉のようなメイドは何人もいた。でもここはあまりに遠くて、家族と引き離すのが気の毒で断った。今猛烈に後悔している。夫婦揃って後悔で始まる領地一日目。
「全く、これだから貧乏貴族は……」
……我慢だ、今は。言いたいことはとりあえず全部吐き出してもらった後だ。生徒指導の鉄則だ。
「この家の女主人はエレーナお嬢様が継ぐはずだったのに!閣下が婿に入って!それをあなたのようなずるい人が無理矢理横から!!!」
「エレーナお嬢様?」
「カリーノ伯爵令嬢、この家で生まれ、この家で育った、私のお姫様です。あなたのせいで、ここを出て行くことになった。閣下とお似合いでしたのに!」
ランス様は前領主の娘さんと結婚してここを継ぐという段取りだったのだろうか。そしてそのエレーナお嬢様と恋人だったと?ランス様はモテなかったと言ってたけれど実はそれは謙遜で、恋仲だったけど〈祝福〉のせいで一歩先に踏み出せなかったってこと?
モヤモヤする。
「……とりあえず、この家のルールを教えてくださらない?起床時間であるとか、食事の場所であるとか?」
「あなたが女主人、自由に決めるとよろしいわ」
ツンと顔を上げ、サラが出て行き、その後クレアももう一度私を睨みつけ、その後に続いた。コイツらはもう心の中で呼び捨てだ。
こんな『自由』が欲しかったわけじゃない。
「ほっほっほ」
白髪頭の穏やかそうなスタンさんがニコニコと笑ってる。
その白髪と目尻の皺を見て、前世の祖父を思い出す。
「よろしく……お願いしますね?」
私はスタンさんの手を両手で包み、握手した。