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北摂賛歌  作者: ENO
第2話 京、ジュテーム、堕落
9/25

5

 伊藤がいうとおりだ、と私は思った。

 鴨川はいい。ちょうどよい薄闇。川のせせらぎ。蒸し暑さは、川が発する冷気が和らげる。橋を渡る人々のざわめきも、河原に座る恋人たちの囁きも、快適な環境音としてきこえる。

 私たちは三条と四条のちょうど真ん中あたりまで、河原を歩いた。灯をあまり受けない、闇の濃い場所がそこだったのだ。幸い、人もほとんど見受けられない。人々は橋の近くに固まっていた。

 大学生のころ、私はこの河原でなにを話していたろうか。将来の夢や理想や、自身の価値観を、恥ずかしげもなくぺらぺらと男に喋っていたのだろうか。記憶は曖昧で、断片しか思い出せない。生意気で、醒めていて、そのくせひどく子どもだった自分の姿が浮かんだ。

 伊藤と私は川岸に腰かけ、鴨川の流れを見つめた。この川は、京都の歴史を目撃してきた。戦乱や政変、疫病の流行や地震の害をくぐり抜けた、京都という街をずっと見つめてきたのだ。そして現代になっては、毎日入れ替わりでなにごとかを語らう無数の男女たちを見つめるというわけだ。いや、平安時代や安土桃山時代でも、その時代でここへ訪れる男女を見つめていたのかもしれない。

 キスは、どちらともなく始めた。高校生がするような、啄む程度のキス。私の中にほんの少しだけ羞恥心が残っていた。いきなり舌を絡めるような荒々しいやり方をするのには、躊躇いがあったのだ。

 私たちは、少しずつ高ぶっていく。もの足りなさに耐えきれなくなったのは私の方で、私から舌を絡めるキスを始めた。伊藤も即座に反応し、舌をぬめりと動かす。息遣いは、荒くなる。

 きっとこうして外でキスしあうことも、伊藤の女は拒絶するのだろうな、と私は思う。わけのわからぬ潔癖症をこじらせた女。伊藤が気の毒になる。

 だが一方で、女に対しても私は気の毒さを感じている。どう言い訳をしようと、伊藤を浮気に走らせたのは、私なのだ。男に裏切られる女は、どうしようもいなく哀れなものだ。そういう境遇に貶めたことに、女への好き嫌いは関係なく、気の毒さを感じずにはいられない。

 私は女への憐れみを胸に秘めつつ、今の行為に熱中する。男を奪って勝ち誇ることがしたいわけではないのだ。目の前の男を堕落させ、最高の快楽を求めること、それがしたいのだ。

 気の毒で、哀れな女。申し訳ないな、と思いつつ、私は伊藤と激しいキスをし、陶酔を味わう。

 これからの夜は、どんな夜になるのだろう。期待は膨らむ。汗まみれで燃え上がる二人の姿を想像する。対岸の煌めきを目に焼きつけ、瞼を閉じる。

 そして私は、伊藤の口にまた舌を差し込んでゆく。

 夜の鴨川はいい。どんなに激しく睦みあっても、この闇が二人を覆い隠してくれる。私たちの堕落ぶりを、誰も視認できない。目を逸らしたくなるほどのふしだらな行為さえ、誰も気づかないだろう。私たちは、誰もなにも気にすることはないのだ。

 

 川岸で抱き合う二人を、私はじっと見ていた。

 夏だというのに、体は死んだように冷たかった。

 度を越した絶望は、街の煌めきに似ている。捉えようもなく、忘れようもない。心の中にずっと灯り続け、私を苦しめる。

 絶望は決して闇の色ではない。むしろ白く輝く色なのだ。だから、直視できない。

 あの人の煙草の匂い。私の前では、あの人は決して煙草を吸わなかった。だが、あの嗅覚を痛めつけんばかりにきつく、後に残る悪臭は、彼の服や鞄に、そして彼の指先に残っていて、私はその臭いをしっかりと記憶していた。

 だから、彼から違う煙草の匂いがしたとき、私は強い違和感を覚えた。彼の吸う煙草と違って、甘く、バニラに似た匂い。同僚や上司と一緒に吸っていた匂いが移ったのだろう、と初めは思った。だが、それが何度も続いた。疑いが、私の中に根を張った。決定打になったのは、いつもと違う銘柄の煙草ケースを見つけたときだ。しかもその中の一本には、女の口紅がついていた。一度吸いかけ、ケースに戻したのだろう煙草。疑いは、確信に変わった。

 あの人は、私が煙草を毛嫌いしているから、煙草のことなどなにも知らないと高を括っていたのだろう。彼の部屋の机に無造作に置かれた、違う銘柄のケース。そこに、私は彼の裏切りと私に対する侮りを見た。

 私のなにがいけなかったのだろう。怒りや悲しみの成層圏を突き抜けると、そんな疑問にぶつかる。私は、彼が望むような女であろうとした。彼に気に入られるような女であろうと精いっぱい努力した。なのに、裏切りが待っていた。

 苦しみに喘ぎ、何度も泣いた。私が、なにをしたというのだろう。私は、なにも悪くない。それなのに、彼は私を裏切り、苦しめる。

 耐えることは、無意味だと悟った。耐えたところで、私はなにも報われない。その境地に至った時、私は自然とある決意を固めていた。

 あの人の携帯を盗み見て、あの人と泥棒猫がいつ会うのかを知った。

 夕方の四条烏丸で、私は狂気の視線を四方に向けた。そして、暢気に携帯を操作し、煙草を吸うあの雌猫を見つけた。スーツに身を固めた、怜悧な顔立ちの女。いかにも分別をわかっているような顔をして、そのくせあの人と関係を持ったという事実が、私をさらに怒り狂わせる。

 あの女が、あの人と腕を組み、四条を歩いていく姿を、二人でレストランに入っていく姿を、私は髪が引きちぎられるような思いで見つめた。レストランから出てくるまで、私はじっと待っていた。店から出てきた二人のあとをつける。憎しみは、もはや抑えようがなかった。

 絶望を直視できれば、それを正しく乗り越えられる。だが、私にとっての絶望は、街の煌めきだ。闇の中で揺らめき、白く輝く。ゆえに直視はできず、私は、歪な方法を取らざるを得ない。

 川岸に座り、激しく抱き合う二人。

 私は、彼らの背後から音もなく近づいていく。

 まずは女だ。

 私はなんの躊躇いもなく、女の背に深々と包丁を刺し込んだ。どすんという衝撃がし、女の皮膚が包丁に反発する。しかし、一度反発を乗り越えると、包丁はずぶりと女の中に呑み込まれていった。

 女はかすかな呻き声だけ発したきり、まったく動かなくなった。笑えるほどたやすく、女は死んだ。

 私は包丁を抜く。血がどぷどぷと女の傷口から溢れ出た。

 私は血まみれの刃を、あの人に向けた。

 あの人は、悲鳴を上げることさえできず、目を丸くしていた。一瞬の後に、事態を悟り、顔が歪んだ。その体は、恐怖で震えていた。あまりにも惨めで、情けない顔。これが、私の愛した人だった。

 別人であってほしいと願ったが、やはり、私の愛した人だったのだ。

 夜の鴨川はいい。どんなことをしようとも、この闇が私を覆い隠してくれる。私の夜叉の顔でさえ、誰も視認できない。私の犯罪でさえ、誰も止められない。私は誰もなにも気にすることはないのだ。


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