表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
北摂賛歌  作者: ENO
第2話 京、ジュテーム、堕落
8/25

4

 伊藤が予約をした四条高倉のレストランは、予想以上に人で混みあっている。切妻屋根がついた立派な迎門をくぐり、前庭を抜けて、レストランのホールに入ると、そう広くはない店にたくさんの人が入り、あちこちでグラスを乾杯する音がきこえた。ポマードを粋にきめた店員に導かれ、私たちは店の奥の席に座った。中二階の席で、人がびっしりと座る一階に比べれば、静かで落ち着いた席だった。店の外観は和風だったが、内装は洋風で、床にはフローリングが敷かれてあり、天井からはシャンデリアが吊るされていた。

 メニューを広げる。イタリア料理を主に扱っているとのことで、私と伊藤は赤ワインと前菜代わりにカルパッチョを注文した。数分もしないうちに、注文した品はほぼ同時にテーブルの上に置かれた。

「それじゃ、乾杯」

 伊藤がいった。私たちはグラスをあわせた。口に含んだワインを、舌の上で転がす。その味をしっかりと確かめる。匂いが強く、そして味が口内にずっと残る、重みのある赤だった。私は、ワインを詳しく知らない。銘柄や、味や、細かな薀蓄などはまったく無知であったが、ワインの持つうっとりとするような味が、私は好きだった。

 伊藤は酒ならばなんでも好むらしく、普段ビールを飲む時と変わらぬ顔で、ワインを飲んでいた。彼の喉仏がごくりと動く様を、私は見ていた。

 伊藤と会う時は、いつも決まって食事にいく。食事を楽しみ、酒に酔い、そして、セックスをして、惰眠を貪る。それがいつもの流れだった。

 人間が持つ基本的欲求とは、食欲、性欲、睡眠欲の三つであるといわれる。してみれば、私と伊藤は、笑えるほどその三つの欲求に忠実だった。私は伊藤とこうして食事をするのが好きだ、伊藤と汗まみれになって獣じみたセックスをするのが好きだ、シーツに包まって温かさを保ちながら夢も見ぬほどの深い眠りに落ちるのが好きだ。

 次々と運ばれてくる料理とワインを楽しみながら、私は食事のあとのことを考える。酒に酔い、ベッドになだれ込み、抱きあう二人。俗物的で、無邪気で、けれども背徳的な想像が、私の頭の中で展開する。

 想像と並行して、伊藤と取りとめもない会話をする。鬱屈のない伊藤の話は、素直に面白かった。職場でかわすくだらないやり取りや上司や後輩への愚痴を、実に楽しそうに、面白おかしく話してくれる。私の職場でもよく体験する話も多く、共感して、つい盛り上がってしまう。誰しもが、できない上司と部下にいらつき、不満を抱え、それでも我慢して仕事をしている。日々に重圧を感じ、押しつぶされそうになりながら、愛想笑いと低姿勢を武器に業務をこなし、苛立ち紛れに煙草を吸い、酒を飲み、徐々にくたびれていく。

 伊藤の語りにけらけらと笑いながら、私は思う。そう、このままでは、私はくたびれていくのだ。年老いて、活力を失って、私が嫌うような薄汚い上司にやがては成り果ててしまうのだ。仕事に追われ、若さを浪費する。私はそれが怖かった。まだ私は二十八歳なのだ。この漲るような若さを、どうして無駄遣いできよう。永続する愛などいらない。心温まる家庭など考えてもいない。ただ、この若さに見合う、圧倒的な快楽。ただただそれがほしくてほしくてたまらないのだ。だから私は、伊藤と寝るのだ。

 伊藤は先ほどから続いた漫談を終えると、突然私にこういった。

「なあ、店出たら、鴨川いかへん?」

 伊藤の提案に、私はきょとんとする。

「鴨川? なんでなん?」

「河原に座って、夜の鴨川を眺めるんや。いい酔い醒ましになるで」

「なによそれ。なんか、大学生のデートみたいやな」

「たまにはええやろ、そういうの」

 そういって、伊藤はにっこり笑う。

 三条から四条にかけての河原には、いつも恋人たちが集っている。彼らは川岸に座り、鴨川の緩やかな流れを眺めながら、恋人と語りあうのだ。他の恋人たちに干渉せぬよう、彼らは座る位置に異様なまでに気を配る。遠くから河原を眺めると、恋人たちは不思議な等間隔を作って、座りあっている。そんな恋人たちの背後で、彼らを冷やかすように、あるいは彼らの語らいの邪魔でもするかのように、大学生の一団が喧しく騒ぎあう。あの河原では、ありふれた光景だ。あの河原に集うのは、ほとんどが大学生やその年代に近い若者ばかりだ。あの場所にこれから私も混じるというのは、なんだか大学生のころに戻るような気分だ。

「なあ、いかへん?」

 伊藤は、実に楽しそうな顔で、私を誘う。

 私は逡巡する。

 そんな私の様子を見て、伊藤は畳みかけるようにいう。

「…それにな、夜の鴨川はええんや」

「なにがなん?」

「けっこう暗くてさ、誰にも見えへんねん。キスしたり、抱き合ったりするのが」

 また、にっこりと笑う。無邪気な顔をして、大胆なことをいう。

 吹っ切れたものだ。私は思う。私と関係を持つことに対するやましさや罪悪感を、このごろの伊藤は感じていないようだった。むしろ、私との関係を積極的に楽しもうという気になっている。その変貌ぶりに、私は妙な感慨を覚える。一人の男が深みに嵌り、鬱屈を捨て、罪悪感も忘れて快楽を追う姿に変わり果てたことに、臨床試験に成功した心理学者のような気持ちになる。なにより、私が彼を変えたという事実が、不思議な重みを持ち、奇妙な達成感と誇らしさを私に与える。

 伊藤の誘いが、私の心に火をつける。外の暗がりでキスをすると、どんな気分になるのだろう。羞恥心を堪え切れるだろうか。それとも、羞恥心を燃料にして、さらに欲望は燃え上がるのだろうか。

 迷うことは、私らしくない。恥じらいよりも、目の前の楽しさを追求しよう。伊藤と関係を持つのは、楽しむためではなかったか。

「…キスするかはわからんけど、いってみるわ」

 私は口元に笑みを浮かべ、そう答えた。

「なんか、学生のころに戻るみたいやね」

 私は続けていった。

 大学生のころ、当時の彼氏と河原に座り鴨川を眺めたこともあった。そんなことを、思い出す。

「懐かしいやろ。あそこで川眺めるのは、若いやつらだけの特権なんやで」

「私らにはもう似合わない?」

「そんなことあらへん。俺らまだ二十六や。学生ほどやないけど、十分若いさ」

 伊藤はそういって、私に微笑みかける。

 私たちは、まだ二十八歳だ。安定した生活を望むことも、精力を失い老け込むこともまだまだ早過ぎ、そして肉体は一番の盛りを迎えた時期なのだ。その時期を浪費することは、罪のように私には思えた。

 ワイングラスは空になり、グラスの底にタンニンの塊が残っていた。テーブルの上の料理も、みな平らげた。

 食事を終えてすぐの煙草は、この上なく美味い。伊藤はマルボロを、私はキャスターをそれぞれ吸う。なぜだかわからないが、気持ちが落ち着き、穏やかになる。

 伊藤がこうして煙草を吸いあう時間を好むことを、私は知っている。伊藤の女とは、こうした時間を共有できないからだ。私と一緒に煙草を吸っているときの彼は、夕凪の海を思わせるような平穏さを醸し出す。

 伊藤には癖があり、よく煙草を切らす。今も彼はマルボロを切らした。私は彼にキャスターを貸し、一緒に吸いあう。至福の表情を彼は浮かべ、私も彼を見て幸福感に浸る。

 ゆらゆらと紫煙が二人の間に立ち上り、やがてレストランの空間に溶けて見えなくなる。甘いバニラの香りに、私たちは包まれる。

「そろそろいこか」

 伊藤はいった。

 私は頷き、席を立つ。

 伊藤は慣れた足取りで店員に歩み寄り、勘定を済ませる。伊藤と腕を組みながら店を出て、四条通に向かう。四条高倉から鴨川の河原までは、歩いて十数分もすれば辿り着く。

 大丸のシャッターは下ろされていた。時刻は八時を過ぎていた。大丸、藤井大丸、高島屋は灯りをつけつつもそそくさと閉店している。だが、人々はこれからが宵の盛りといわんばかりの顔で、四条通をいきかう。学生やサラリーマンがそれぞれ群れを作り、声を弾ませながら、それぞれが飲み屋に繰り出していく。無数のタクシーが飲み会帰りの客を拾おうと待ち構え、そのタクシーの列や他の車両に市営バスの運行が滞る。四条通を運行するバスは、どうあがこうとも鈍い動きになる。京都では、時間通りにバスが運行することなどありあえない。

 そんな光景を横目に、私たちは四条通を歩く。鴨川に向かって、東へと歩く。新京極や寺町を通り過ぎ、四条河原町の交差点を渡る。かつては阪急百貨店があり、今は丸井が入るビルの前では、八時を過ぎても待ち合わせをする人々の姿が見受けられる。あのビルの前は、定番の待ち合わせ場所なのだ。

 先斗町の通りの脇にある、古臭い交番を越えた先に四条大橋が架かる。橋の横に河原へと下る階段があるのだ。

 先斗町と祇園の華やかな灯をわずかに受ける中間地点。それこそが四条の河原である。私たちは四条大橋の前に立ち、眼下の河原と、その先の鴨川、対岸に煌めく祇園のビルの姿を認めた。かつて学生だったころを思い出しつつ、そしてこのあとの夜を想像しつつ、私たちは河原へと下りていった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ