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北摂賛歌  作者: ENO
第2話 京、ジュテーム、堕落
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3

 伊藤はいった。なにをするにしても、思い切り楽しんだ感覚を味わえないのだという。普段のメールや電話も、デートやセックスも、なんとなく相手の性格に無理に自分を合わして過ごしている。ほどほどには楽しい。充実感もある。おそらく、将来この女と結婚をすれば、それなりに幸せな、慎ましい、間違いなく諍いのない家庭を築けるであろう。そんな確信さえも持てる。けれど、スポーツで体験するような、頭が真っ白になるくらいに楽しい瞬間、それが今つきあっている女では、経験したことがない。伊藤は、そういうのだった。

 高望みだとはわかっている。だが、胸にしこりがあるような感覚を捨て切れない、と伊藤はいう。

 話をききながら、私は伊藤にかすかな共感を覚えた。私が淡白な恋愛をしていた時期に感じていたことと同じだ。好きだけれど、燃え上がる感覚がない。平穏で、安定しているが、極端に楽しいことがなく、飢餓感に襲われる。その飢餓感を解消したくてたまらず、煩悶するのだ。

 無理に相手に合わせているのが悪いのかもしれない。

 伊藤はそう語る。女にはどこか潔癖なところがあって、例えば思い切り酒を飲むことや煙草を吸うこと、激しくセックスすることさえ、嫌う傾向があるのだという。伊藤は女に気を遣って、というより、女とぎくしゃくしないように、自分自身を抑えていた。本来の伊藤は、酒をしこたま飲めば、煙草も吸い、そして激しいセックスも好む。自分の享楽的な本性を抑圧するから、退屈さに襲われるのだ。そんな言葉が口から出かかった。人間、快楽には抗えない存在のはずだ。だのに、それに無理に抗うというのは、自然の摂理に反している。酒や煙草はともかく、遺伝子の次元から人に宿命づけられたセックスへの欲求を抑制するというのは、私にはちゃんちゃらおかしなことに思えてならない。伊藤は変に女に対して遠慮をし過ぎていたし、女は女でお上品ぶって恥ずかしがっているだけだ。苛立ちが多分に入り込んだ女に対する嫌悪感が、私の中で沸々と湧き上がってきた。どうやら私のようにざっくばらんであっけらかんとした人間には、伊藤の彼女のような女とは、相性がまったくよくないらしい。

 とはいえ、結局は私の問題ではなく、伊藤の問題だった。今抱え込んだ退屈さとどのように向き合っていくのかは、伊藤自身に委ねられていた。

 私は、私の考えを彼には伝えなかった。酒を呷りながら、ただ彼の煩悶を、どこか醒めたように見つめていただけだ。

 伊藤は酒が進むにつれ、深い鬱屈に沈んでいった。

 その日の食事は、伊藤の悩みをきくだけで終わった。どんな意見も彼には伝えなかった。彼は少しふらついた足取りで祇園四条駅に向かい、私は何事もなかったように河原町駅に向かった。阪急京都線、特急が桂川を渡るころ、彼からメールがきた。また会って話をきいてくれないか、という。

 私はメールを見て戸惑った。伊藤は、私になにを望んでいるのだろう。長岡天神を過ぎてから山崎の駅まで、車窓から見える天王山の黒々とした山際を眺めながら、私は伊藤へどう返信すべきか考えていた。特急が私の住む茨木市に近づいたころになってようやく私は伊藤にメールを送った。

 ええよ。話をきくことくらいしかできへんけど。

 次の日の朝、伊藤からメールがきた。

 ありがとう。ほな、今度も木屋町で。今度は居酒屋やなくって、もうちょっと雰囲気のあるところで飲もう。

 私は伊藤の策略に嵌っているのだろうか。そんなことを思った。二人で会って、また次の約束まで交わしている。誘い出されたという気もしなくはない。伊藤と会うことが、なんとなくやましいことのように思えた。また次に会ってもいいとメールを返してしまったのは、私自身も酒で判断力が鈍っていたからだろうか。

 ともかくも、次の週末、私たちはまた木屋町で会って、食事をした。店は、三条木屋町の北側にあるビルのレストランだった。レストランはビルの十階に入っていて、伊藤はわざわざ窓際の席を予約していた。席からは、夜の鴨川と三条大橋を見下ろせた。ミニチュア人形のように、橋を行きかう人々は小さく見えた。目線を元に戻せば、鴨川以東の街並みと、黒々と聳える東山の姿が認められた。大文字山の大の字が、ほんのわずかに視界の端に映る。歯の浮くような演出。何人もの女を、伊藤はここに連れてきたのだろうか。私はそんなことを考えた。だが、それは口に出さず、胸にしまい込んでおく。

 私は、伊藤が気障ったらしく私を口説きにかかると思っていた。実際、口説くには最高の状況ではないか。だが、私の予想は外れた。ワインを一杯も飲み切らぬうちに、伊藤はひどく真剣な顔で、私に語る。

 お前の意見をききたいんや。このままあいつとつきあっていくのがええんやろか。それとも、別れた方がええのか。

 私は戸惑い、答えに窮した。そして、その戸惑いを、彼に率直に伝えた。

 なんで私なん。なんで私にそんなんきくん。私は、伊藤の彼女のことなんてよく知らへんし、もっというと、伊藤のこともよく知らへん。高校の同級生ってだけやのに、そんなんで、どうしたらええかなんて、答えられへん。

 私の言葉をきいて、伊藤は、そりゃそうよな、と頷く。

 そして、奇妙な沈黙がやってきた。私は景色を見つめ、伊藤はワインを口にする。数秒だったか、一分だったか、その沈黙の時間は覚えていない。静寂を破ったのは、伊藤だった。ぼそりとした口調で、話し出す。

 高校のころ、お前、自分自身がどんな目で見られてたか、覚えてるか。

 そういわれ、私はまったく覚えていない、と答える。

 伊藤はいう。

 お前、高校のころ年上の彼氏とつきあってたやろ。そんで、お前がよくその彼氏と梅田や四条で見かけるって話が、なんでか知らんけど、噂になってた。学校行事でみんな私服で学校来た時も、お前の私服姿がすごいお洒落やって、評判やったし。なんていったらええんやろな、他の奴よりも大人っていうか、恋愛のこととかよく知ってる、そんな印象が、みんなの中であったんや。

 私は驚き、笑いながらも、慌てて否定する。それは周囲の誤解に過ぎない、と。確かに年上の男とつきあってはいたが、だからといって恋愛に詳しくなるはずもない。お洒落をするのは今も昔も好きだったから、周囲に私服姿を披露する際、念入りに服を選んでいたのは事実だ。恋愛に詳しそうだという、当時の評判に、私は笑いが込み上げるのを堪え切れない。

 伊藤は、私の評判がでたらめだと理解を示しつつ、その上で語る。

 俺の中では、お前は恋愛面に詳しいって当時の印象が残ってたから、そんなお前にアドバイスもらえたらいいな、と思って、こうして会ってるんや。

 私はため息をつく。適当な評判や噂をばら撒く当時の同級生たちに、心底呆れる。そして私はいう。

 結局、決断するのは伊藤自身だと思う。私からは、どんな提案もできない。ありきたりなことしかいえない。その女とつきあっていくのが退屈なら、さっさと別れればいい。その女に少しでも未練があるなら、つきあい続ければいい。

 退屈で、だが、それでも未練がある場合は、どうすればいい。

 伊藤はいった。

 なにをいう。私は思った。

 彼女は大事だ。彼女を捨てられない。けれど、死ぬほど退屈だ。

 ワインを一気に飲み干し、上気した顔で、伊藤はいった。目はとろんと潤み、酔いが回っていることを示していた。

 この退屈さをどうしたらいいのか、わからない。

 伊藤は、ぼそりという。そうしてまた、この前と同じような鬱屈に沈んでゆく。びしっと決めたスーツが、今の彼の表情にはまったく似合わない。

 私は、機械人形のような冷たい目をして、伊藤を見つめた。中途半端な倫理観に囚われ、放埓に憧れるも、放埓になり切れない男を、冷たく無慈悲な目で見ていたのだ。

 そこで私は沈思する。私の心の奥底に、光を当てる。たとえば、いまこの男と寝るとしたらどうだろう。私には義理立てするような、特定の男はいない。今、目の前の男を、彼が潜在的に望んでいる堕落に引きずり込み、私は快楽を貪るとしたら、どうなるだろうか。きっと退屈はしないだろう。背徳感に苛まれながら、肉体を弄び、快楽の極みに昇りつめてゆく。本命の女を意識の片隅に浮かべながら、伊藤と私は、互いの体を舐めあい、絡めあい、ぶつけあう。想像するだけで、悪寒にも似た快感が走った。誰かを裏切りながら、私たちは互いの望みを叶えあうわけだ。伊藤は退屈さを解消し、私は刹那的な快楽を手に入れる。伊藤の女には気の毒な話だが、それがどうしたというのだろう。想像が産み落とす愉悦に、私はたまらなく欲情する。あの女はただ少し気の毒で、哀れなだけ。

 私もワインを飲み干した。酔いの勢いを利用し、前のめりになるようにして、伊藤に顔を寄せる。低い声で、あえて挑発的にいってやる。

 はっきりいえばええやん、他の女と寝たいって。

 伊藤の目が、見開かれた。反論の言葉が、口から出かかった。しかし、私は伊藤の言葉を遮り、さらにいってやる。

 退屈なんやろ。他の女に手を出すことが、なんでできへんの。

 セックスしようだとか、抱いてくれだとか、そんな言葉を私はいわない。ただ、砂の城を少しずつ崩していくように、伊藤の心の箍をじわりじわりと外していくだけ。そして彼が躊躇しつつも待ち望む方向に、ふわりと、しかし残酷に背中を押してやるのだ。

 伊藤も私も、無言だった。互いの視線だけで、会話を為した。

 言葉はいらなかった。言葉を交わす意思など微塵もなかった。私たちはホテルを出て、高瀬川を渡ってすぐのラブホテルに駆け込み、服を脱ぎあい、そして抱きあった。言語とは到底呼べない叫びや喘ぎを発しあって、溶けていった。酒で火照りに火照った体を絡め、互いの体臭を嗅ぎ、快楽に浸った。彼の頭をかき抱きながら、彼の激しい息遣いを耳元で感じる。私は安っぽいラブホテルの天井をおぼろげに見つめながら、高みへ昇りつめてゆく表情を浮かべて、心の中でほくそ笑んでいた。伊藤はまんまと堕落に引きずり込まれた。そして私は、彼を体の中に迎え入れて、ベッドを激しく軋ませながら、閃光のような快感を味わっている。男を背徳へと追いやり、自身は快楽に溺れる。なにもかも、思った通りではないか。これで、心中でにんまりと笑みを浮かべないわけがない。そして二人に訪れた絶頂は、いままでの人生で体験したことがないくらい壮絶で、快かった。

 ことが終わり、闇の中で、汗が引くのを待つ。棒が二つ並んでいるように、私たちはベッドに横並びして、天井を見つめていた。伊藤は腑抜けにでもなったかのように放心の顔をし、それが数分に一度暗く、憂鬱そうな顔に変わる。まるで女を裏切った罪悪を感じているような顔。それを見て、私はなおさら喜悦を味わう。男の惨めさとだらしなさが、哀れで、可笑しく、愛おしかった。

 私は伊藤に抱きつき、キスをした。ぬめりを帯びた肉体を、同じようにぬめった肉体に絡みつかせた。欲望が再び蘇り、私と伊藤は再び、底なしに思えるほどの深みへと堕ちていった。

 朝。目が覚めて、私はおもむろに煙草を取り出し、火をつけた。煙を燻らせ、窓辺に差し込む光を見た。部屋の窓からは、道を挟んで建っている喫茶店や音楽スタジオの入った京町屋の並びが見えた。

 私の隣で伊藤はまだ眠っていた。鬱屈や堕落や背徳を忘れ去ったような、無垢な寝顔を、伊藤は浮かべていた。目が覚めて、彼はまずどんな思いを味わうのだろう。後悔なのか、惨めさなのか。自分の浅はかさに絶望するか、それとも、心の底の欲望を満たし、充足するか。

 私は頭の中で残酷な想像を楽しみながら、キャスターの甘い甘い味を存分に味わうのだった。

 伊藤の純真そうな顔は、立ち上る煙草の煙で霞んで見えた。

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