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北摂賛歌  作者: ENO
第2話 京、ジュテーム、堕落
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2

 伊藤は、私が煙草を吸い終わるのを待ってから、私をエスコートした。

 いつもこの男の靴は、綺麗に磨かれている。目を見張るほどの光沢を、黒のバックルドシューズは放っている。彼が着る黒のストライプスーツからは、彼が愛煙するマルボロの匂いがかすかにした。私はその男らしくてきつい匂いにうっとりとする。

 四条通を、河原町方面に向かって歩き出す。伊藤からは、高倉にある洒落たレストランにいくとだけきかされていた。

 夜が迫り、宵の華やぎが四条通に灯る。過ぎゆく人々の顔が、これから大いに飲み騒ぐだろう宴への期待で高揚している。私も伊藤に手を引かれながら、今夜のディナーはいったいどんなものだろうと想像を躍らせる。

 四条烏丸から歩き出す際、また誰かからの視線を感じた。誰かが私を見ていた。けれど、歩き出して数歩で、そんな視線など頭から消えた。ディナー、ワイン、そしてそれあとの夜を想像し、それだけで頭がいっぱいになったのだ。

 時折伊藤が、優しげな笑みを私に向ける。私と伊藤は同い年だが、年下の男が見せるような、柔らかな可愛さを彼は持っていた。髪をくしゃくしゃにして、胸にかき抱きたくなるような、そんな可愛さである。学生のころの彼にはなかった魅力といっていい。笑いかけながら、職場での出来事を、面白おかしく私に語る。私は彼に可愛さを感じながら、けらけらと笑い返す。

 伊藤はいつだってとびきりの笑顔で、面白い話を繰り広げる。明るい、優しい、時々やかましい。周囲は決まって伊藤の性格をそう評した。

 私が彼と今年一月の同窓会で再会した時も、彼はその性格と話術で周囲を盛り上げていた。

 私と伊藤は、高校時代の同級生だった。もっとも、当時二人は特にこれといった接点を持っていたわけではなく、互いになんとなくその存在を知っている程度のかかわりに過ぎなかった。伊藤はバスケット部の腕利き、かつクラスの盛り上げ役として学年全体に名前を知られていた。私はというと、部活動に参加しない、映画館のバイトに熱心で、そのくせ成績は優秀という、風変りな女子として、周囲に認知されていた。高校という狭い社会では、明るく元気な者と風変りな者はすぐに目立つ。私は望まずとも伊藤の評判を耳にしたし、文化祭や体育祭で精力的に動く彼の姿を幾度となく目にした。伊藤も伊藤で、変り者の私の評判をどこかからきいていたらしく、私と再会した際は、高校のころの私は、めちゃくちゃ変わっていた、とろくに話したこともないくせにそういってのけた。

 今も昔も、私は自分が変り者であることに否定はしない。だが、一つだけ文句をつけると、私は部活動に熱中するよりも、服や趣味のためにバイトに精を出し、将来のために勉強を疎かにしたくないという、現実的で醒めた女子だったに過ぎない。

 さしたる接点を持たなかった二人が再会したのが、今年一月に伊藤が幹事となって開いた高校の同窓会だった。社会人となった同級生たちが、正月休みをいいことに呑んで乱れての大騒ぎをする最中、私と伊藤は同じテーブルに座り合わせた。

 お互いを当時よく知りもしなかったくせに、どうでもいい思い出話がなぜか二人を盛り上げた。共通の知人のこと、嫌いだった教師のこと、当時のお互いの印象。乱痴気騒ぎを横目に、私たちは語り合った。お酒の勢いもあったのかもしれない。いつしか二人は思い出話から、今現在の自分たちについていろいろと話をすることになった。

 私は京都の私立大学を卒業すると、在阪の専門商社に就職した。複数の企業から内定をもらっていて、年収や女性社員の活躍具合を考慮して、今の会社に決めたのだ。激務が続く日々だが、やりがいはあった。仕事はそつなくこなし、周囲からの評判は上々だった。不満があるとすれば、ろくでもない上司をさっさと替えてほしいことくらいだ。私生活では、大学時代からの彼氏と別れて以来、特定の男はいなかった。私にとって恋愛は波のようなもので、激しく燃える恋もあれば、ひどく淡白な恋もあった。つきあった男のタイプも、てんでばらばらだった気がする。恋愛面は小休止していたが、それなりに充実した日々を私は送っていた。

 伊藤は大阪の国立大を卒業し、三大メガバンクの一つに入行した。高校時代はバスケットボールに熱中していた伊藤だが、成績も頭の切れも私より優秀だったのだ。就職難といわれた時代に、難なく巨大銀行への就職に成功していた。配属先は伏見区竹田の支店ではあったが、そのうち大型店舗への異動も近いらしい。

 酒が入り、饒舌になった伊藤は、いまの仕事のやりがいや将来的な目標を私に語りきかせた。大型店への栄転、支店長への就任など、野心をぎらつかせてはいたものの、語り口は彼らしく明るく爽やかだった。そして、仕事について話尽くすと、今度は今つきあっている女の話を始めた。知人の紹介で知り合った彼女らしく、年下の、ひどく控えめで穏やかな性格の女だという。特に喧嘩をすることもなく、関係は良好である。伊藤はそう語った。だが、伊藤の顔には、明らかに、不満とまではいかずとも、それに近い表情が表われていた。皮膚に針が突き立ったような感覚が私の中を走り、私は伊藤の変化に勘づいた。私は彼の女の話をより深くきいてみよう、そんな気分になった。最初は、単純なからかいの気持ちや好奇心から、そう思い立ったのだ。仲は良いといい張り、別の話題に移ろうとする伊藤を引きとどめ、話を長引かせる。彼の警戒や拒絶を避けつつ、少しずつ彼の本音に迫っていく。そうした話のきき出し方は、女の得意技である。伊藤がようやく女への本音を語ろうと口を開く、その一歩前まで辿り着いた。だが、その瞬間に、邪魔者が闖入してきた。伊藤の部活動仲間数人が、伊藤に絡んできたのだ。伊藤は、彼らに別の席へ引っ張られていく間際、私にこう告げた。

 また、話をきいてくれや。

 そして彼は、一気飲みのコールが飛び交う、一番騒がしい席へと移っていった。

 残された私は所在なく、かつての女友達と静かに酒を飲み、同窓会を終えた。

 伊藤から連絡があったのは、会から三日ほどたってからだ。私の携帯に彼からメールが入っていた。まず思ったのは、どうやって彼は私の連絡先を知ったのだろう、ということだった。彼には連絡先を告げていなかった。怪しみながら文面を読むと、彼は共通の知人に連絡先を教えてもらったと書いていた。そして、同窓会の席で話し尽くせなかったことを話したいから、また会えないか、という。

 その時の私を突き動かしたのは、決してやましい気持ちではなかった。伊藤の本音はなんなのだろうと知りたくなる好奇心、そして話を途中で寸断されたという不完全燃焼感の解消、その二つが、私を動かしたのだ。私の指先は機械のように無駄なく動き、それではお互いの仕事終わりに、軽く一杯やりながら話そう、と返信をした。

 そして、私たちはその週の木曜に、木屋町の居酒屋で飲むことになったのだ。仕事終わりで、互いにスーツ姿だった。同窓会の席では私服で、それからスーツ姿に変貌したのを見ると、奇妙な感激とおかしさが込み上げてきた。二人とも大人になったというか、あの青臭かった高校時代が、まるで嘘のように思えてきた。伊藤も同じ気持ちだったのだろう。待ち合わせて最初にしたことは、二人して互いにスーツ姿を見比べ、互いにくすくすと笑いあうことだった。

 いかにも庶民的な、どこか昭和臭い雰囲気の居酒屋に私たちは入り、同窓会できけなかった話をした。伊藤の女。写真も見せてもらった。私には絶対に持ち合わせていない、清楚な印象を持つ女。清楚さと同時に、どこか意志の弱さを感じさせるような女でもあった。儚げとでもいえばいいのか。

 私はとりあえず、可愛い子やね、と女を褒めた。実際、容姿は間違いなく可愛らしい女だったのだ。

 伊藤は含み笑いをして、そうでもないよ、と照れ隠しでいう。

 遠回しにきく必要もないだろう。私はそう考えた。あえてはっきりと伊藤にいう。

 で、彼女のなにが不満なん。

 伊藤はしばらく押し黙った。その間、私は伊藤の指を見ていた。テーブルに片肘をつき、親指と人差し指で顎を支える。男のくせに、白く細い指だった。爪はきれいに切ってあった。この指で、あの女の頬を撫でるのか。

 沈黙に耐えられなくなったのは、沈黙を作った伊藤自身だった。伊藤は口ごもりながら、その重たい口を開いた。

 不満っていうか、なんていうか、退屈なんよね。

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