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誰かが見ているような、そんな気配がした、夕方六時過ぎの四条烏丸。物々しい石貼りの外壁をした銀行のビルの前に立ち、茜射す交差点を騒がしくいきかう人々を一瞥もせず、私は携帯の画面を見つめ、指先でそれを弄んでいた。
錯覚ではないと思う。誰かが、私に顔を向け、見つめている。携帯の画面から目線を離し、ふと交差点の景色を眺めた際、私は誰かの視線を感じた。だが、その視線の主は、見つからなかった。時刻はちょうど帰宅時。四条烏丸の交差点が、特に人でごった返す時間帯である。通り過ぎる人々の中に、視線の主は埋没した。
誰が私を見ていたのか。いや、この人通りだから、誰かが誰かを見ていたとしても、なにも不思議なことではないのではないか。それを考えていると、急に会社の携帯が鳴った。思索を止めて、私用の携帯を一度バッグにしまい、会社の携帯を手に持つ。上長からメールが入っていた。今から会社に戻り、契約書の内容変更を手伝えないか。上長には、今日はいつもより早く退社すると伝え、上長もそれを了解していたはずだった。私は苛立ち、舌打ちをする。そんな仕事くらい、自分でやればいい。部下の仕事は手伝わないくせに、自分の仕事の手伝いはさせる。私の上長は、そういう男だった。苛立ちをぐっとこらえ、もっともらしい理由をつけて、丁重に断りのメールを返した。ため息をつく。あんな男の部下から、早く卒業したかった。
メールを返すと、私はまた私用の携帯を取り出した。画面には、どんな着信表示も浮かんでいない。
夕暮れになり、昼間の勢いを失った太陽が、ビルとビルの狭間で熟れた色をして、空にしがみついている。昼よりましとはいえ、さすがに暑かった。首筋に、じんわりと汗が浮かぶ。八月に入ったばかりの、夏の夕である。
携帯の画面を、じっと見つめる。SNSの書き込みを、流し読みしていく。暇な時に、私はいつもそうやって時間を潰す。
約束の時刻は、六時半だった。
あいつが六時に竹田にある会社を出れば、烏丸線を使ってちょうど間に合うであろう。今日はいつにもなく待ち合わせの時間が早かった。梅田で働く私は、五時十五分に会社を出て、急いで阪急京都線に飛び乗らねばならなかった。
時間のことはさておき、あいつはいつも京都で私に会いたがる。あいつの職場が近いから、という理由ではない。本命の女の活動圏内から遠ざかりたいからだ。あいつの本命の彼女は、西淀川に住んでいるらしい。皮肉なことに、本命の彼女と私は淀川を挟んで近いところにいるわけだ。
私の目の前を、サラリーマンや学生が通り過ぎてゆく。まだこの時間帯は、学生の姿が目立つ。同志社や立命館の学生たちが、群れを作りながら、金曜の夕の、華やぎ始めた河原町に繰り出していく。中途半端に垢抜けた高校生のカップルは、周囲に二人の間柄を誇示するかのように、手をぎゅっと握り合い、歩いていく。大人たちはまだ仕事中の身で、疲れた顔、慌てた顔をしながら、交差点を渡ってゆく。ありふれた、いつも通りの四条烏丸の景色である。
時刻は六時半に近づいていく。あいつはまだこない。携帯の時刻表示が、六時半を告げる。顔を上げれば、夕闇の色が濃くなったことに、いまさら気づいた。
SNSの流し読みに飽きた私は、煙草を一本取り出し、口に咥える。ライターで火をつけ、口内に紫煙を充満させる。キャスターが持つ、バニラの甘い香り。私はそれを味わう。煙を吐き出す。仕事のストレスや、あいつがまだこないことへのストレスも、みんな一緒に吐き出した。
もう一度煙を吸い込み、味わう。その瞬間に、私の左目が、私を見つめる顔を捉えた。その顔が、行きかう人々をかき分け、私に近づいてくる。私は、そちらの方向に向き直る。
あいつだった。あいつはどこか余裕ある表情で、私に歩み寄ってきた。
「遅かったやない」
あいつの姿を認めるなり、私はそういった。
「悪かったわ」
そういうわりには悪びれる様子なく、あいつはいう。
「今日はえらい待ち合わせ早いけど、なんか理由でもあるん? 私、珍しく早上がりせなあかんかったんやけど」
「それは、あとのお楽しみや。理由があるにはあんねん」
「ふうん。じゃあ、期待しててもええん?」
「ちょっとだけならな」
「なによ、ちょっとだけって」
「思いっきり期待はするなってことや」
そういって、あいつは口元に笑みを浮かべた。中背で、細身のスーツをばっちりときめている。きらりと光るタイピン、胸ポケットから覗く赤のチーフ、襟につけた社章まで装備して、伊達男を気取っている。認めたくはないが、爽やかさと貫禄が見事に調和した姿。伊藤の顔からは、社会人六年目で仕事を順調に回せるようになった自信が見て取れた。髪型はショートで、髪をジェルで固めていた。
これが、伊藤周平だった。スーツ姿だけ見ると、服か車の営業マンのような派手な印象がある。この男が、これで銀行員なのだから、世の中はわからない。
そして私は、この伊藤とつきあっていた。
伊藤からすれば、私は、浮気相手である。