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北摂賛歌  作者: ENO
第1話 北摂賛歌
4/25

4

「…あいつと俺は、別れ話をしてた」

 諒は目を見開いた。

 雄介は表情を変えず、淡々としている。声だけが、かすかに震えていた。

「なんでや。あんだけ長いことつきあってたのに、なんでなんや?」

 発作的に、諒は雄介に尋ねる。顔も口調も、諒には似あわぬほど、強張ったものに変化した。

「…あいつは、東京が嫌になったゆうとった。東京のなにもかもが、好きになれんてゆってた」

 雄介の目には、あの夏の夕が映っていた。なんの前触れもなく、突然に、夕は仕事を辞め、大阪に戻るといい出した。

 大学を出て、雄介も夕も東京で働き始めた。勤務地が互いに一緒だったのは、幸運というしかない。雄介は、東京に出ても、二人が一緒なら、二人の仲はなにも変わらないと思っていた。

「仕事のこと考えると、向こうに留まる以外、俺には選択肢がなかった。でも、あいつは俺も大阪に戻ることを望んでた。それで、大喧嘩になって、別れようってなった。あいつが俺から離れてすぐ、轢き逃げが起きた。…さすがに、親や友人に、死ぬ直前に俺たちは別れてました、とはいえんかったわ」

「遠距離恋愛じゃあかんかったんか?」

「最初はそう説得したよ。遠距離で関係を続けようって。けど、あいつはきかんかった」

「なんでなんや?」

「俺もよくわからへん。たぶんやけど、俺は仕事を捨てられん。せやから、俺と一緒におるっちゅうことは、ずっと東京で暮らすっちゅうことや。あいつは、そのことが耐えられへんかったんとちゃうか」

「夕はなんで東京が嫌いになったんや」

「…理由は、あるようでないんや。思い当たることはいくらでもある。けど、そいつらが本当に当たってるのかは今ではわからへん」

「急に東京に嫌気が差して、大阪でずっと暮らしたい気持ちが強くなった。けど、お前はずっと東京。だから、別れるってか?」

「…それだけが、わかってることや」

「夕は、なんで嫌気が差したんや…?」

「…さあな。言葉に違いはあっても、他は大阪と全然変わらないのにな」

「あいつは、悩みを打ち明けたりせえへんかったんか?」

「…あいつは、悩んでるとこなんて、一度だって見せたことないやろ」

 雄介は苛立った口調でいった。諒も夕の性格を思い、納得する。夕は、いつだって悩む姿を見せなかった。一人で悩みを抱え込んでいたはずだが、そのことすら周囲に気づかせぬほど、迷いのない快活さをいつも人前で突き通していた。

「なんや、俺らはどっかですれ違ってたんや」

 雄介はぼそりと、自分を嘲るようにいう。

「…俺はあいつとわかりあえてると思ってた。あいつは、一番大事な友達で、一番大事な彼女やった。あいつとこの先も、死ぬまでつきあっていくもんやと、なんの疑いも持ってなかった。…けど、どっかでずれてたんや」

 雄介は暗く沈んだ顔で、俯いた。

 旅客機が着陸し、耳を塞ぎたくなるほどの音がまた二人を包んだ。

 音が静まってから、諒は雄介にいう。

「なんでこの話を俺に?」

「…なんとなく、お前には、ほんとのところを知っていてほしかった、そう思っただけや。親しい人みんなに嘘をつくのは、それなりにしんどい」

「秘密を知ってもうた俺も、しんどくなるで」

「それはすまんと思う。けど、俺には、ほんとのことをみんなに告げる勇気もない。美しい話を、みんなは知ってればいい。けど、お前だけは別や。お前は、俺にとっても、夕にとっても、大事な友達やった」

「とんだ貧乏籤や」

「悪いな」

 雄介は暗い顔のまま笑った。

 諒は、眉を顰めていた。だが、それでも、諒は秘密を共有し、それを他の誰にも喋らないだろう、と雄介は信じていた。諒ほど信頼の置ける友はいない。

 あまりにも眩い空港の灯、あまりにも深い夜の闇。美しさと、冷ややかさと、虚しさを呼び起こす景色だ。

 風が吹き、寒さに体が震えた。

 諒が、そろそろ車に戻らないか、という。

 雄介は、ああ、とだけ答えた。二人は無言で車に戻った。途中、振り返ると、フェンス沿いに空港を眺める人々の姿が見えた。カップルだけでなく、家族できている人もいた。あの人々は、なにを思い、ここまできたのだろう。ふと、そんなことを思った。

 スイフトは走り出した。高槻に帰るのだ。長い長い地下通路を抜けていく。

「しかしまあ、やっぱり空港の景色は、綺麗やったなあ」

 隣で諒が、ぼそりという。

「ああ。やっぱり、ええもんやな」

 ぼんやりと前を見つめながら、雄介は答えた。

「こんな変てこなドライブ、初めてやわ」

 諒はいった。

「暇な社会人には、いい時間つぶしになったやろ?」

「そりゃそうやけどなあ…」

「たまには悪くないよ」

「あとにも先にもこれっきりを願うわ」

 そういって、諒は苦笑いを浮かべた。

 きた道を戻っていく。反対側の車線を走るだけで、大阪の景色はまた変化する。

「…お前さ、地元が好きか?」

 雄介は何気なく諒にきいた。

「なんや、突然。地元? そりゃ好きに決まってる。不便なところもたくさんあるけど、なんだかんだ落ち着くし」

「やっぱそうやんな」

「なんやねん、その質問」

「…意味なんてないよ。ただ、夕は、どう思ってたんやろうって考えて…」

「夕が? 地元が好きでなかったら、あいつは戻るなんて絶対いわんやろ」

「なんでやろな。なんであいつは、そこまで地元が好きやったんやろうな」

 雄介は、流れゆく景色を見つめながら、問いかける。諒に向けて問いかけてはいるが、死んだ夕にも問うているようだった。

「…ええとこやと思うで。丘があって、坂があって、高速や電車があちこちに走ってて、それでも緑が多くて、どこか庶民的で。誰がなにをいおうが、俺は好きや。お前だってそうやろ?」

「俺? そりゃあ、生まれ育ったところやし、好きや。高槻はもちろん、茨木や吹田も好きや」

「住宅街もありゃ下町もある。けど丘と緑に包まれてて、のんびりできるやん。変に背伸びすることも肩肘張ることも必要ない。素のままでおれる。そんな街やん。千中から大阪を眺めてみろよ。梅田やミナミなんて、ちっぽけなもんやで」

 諒の言葉に、雄介は千里中央からの眺めを思い浮かべた。まったく諒のいうとおりだ。高台から眺めれば、大都市の梅田やミナミも、景色の小さな一部分なのだ。

「別に都会に住んでる人らを見下すわけやないけど、こっちにはこっちのよさがあるってことやな」

 諒はいった。

 雄介は、静かに頷いた。

 車は再び中央環状線に入った。ローソンや自動車取扱店を通り過ぎ、柴原の坂をのぼってゆく。並走していた中国自動車道は傾斜しないため、それを見下ろす格好となる。道路の左には、木々に包まれた大阪大学のキャンパスがある。モノレールの高架の隙間に、反対側の道路で見えた美しい夜景が途切れ途切れになりながらも見えた。

「…あいつが好きだった景色を見て回れば、なにかが見えてくると思ったんやけどなあ。…いなくなる前のあいつの気持ちを、ほんのちょっとでもわかってやれるかなって、そう思ったんやけどなあ」

 雄介は景色を眺めながら、呟いた。

「それで、なんか見えてきたんか?」

「なんにも。わかったのは、相変わらず大阪は綺麗やってことと、相変わらずこの地元が好きってことだけや」

 穏やかな、そしてなぜか切なそうな顔をして、雄介はいった。

 夕の気持ちを、本当に理解してやることが、結局はできなかった。その思いだけが、強く残った。

「…たぶんやけど」

 諒はいう。

「あいつは、俺らが思ってる以上に、地元が好きやったんとちゃうか? 俺らが想像できんほど強く、地元に愛着があったんやろ」

「どんだけ好きやってん、あいつは」

 雄介は、苦笑いする。

「…結局のところ、人は生まれたところを捨てられへん。そんなことを、誰かがいってた。あいつには、地元を捨てて東京で生きていくことが、できへんかったんやろ」

「東京は、そないに生きにくいところやったんやろか?」

「…それはなんともいえん。あいつにしか、わからんことや」

「…ほんと、勝手な奴や」

「いまさら気づいたんか。夕は昔から、勝手やったやろ。わかってないな、お前」

 諒は冗談っぽくそういって、笑った。

「…ずっと前からわかってたさ。あいつの勝手気ままさが、好きやったんや」

 雄介は、しみじみとそういった。

 雄介と諒は、切ない顔をして、笑いあった。

 雄介の脳裏には、出会ったころの夕の姿が浮かんでいる。いつも人を振り回し、馬鹿なことをしては、とびっきりの笑顔を見せる夕。雄介は半ば呆れながらも、その底抜けの快活さに心惹かれたのだ。

 本当に、地元に戻るという道しかなかったのか。どうしてもっと前に、自分は夕の思いに気づいてやれなかったのか。

 長くつきあった。夕以外の女は、誰一人として知らなかった。長くつきあうことで、二人の思いは同じ方向を向いていると思っていた。誰よりも夕を理解している自負があった。だが、実際には理解できていなかった。二人の思いはそれぞれ別々の道をゆき、雄介は夕のことを少しもわかっていなかった。

 その事実を、雄介はただ噛み締めるしかなかった。

 どれほど後悔しようと、どれほど未練があろうと、夕はもういない。結末を変えることは、もう叶わない。

 車が加速する。後悔や未練を断ち切るかのように、道を突っ走る。振り返るな、前を向け。諒はそんなメッセージを雄介に送っているのかもしれない。

 懐かしい景色が、どんどん流れていく。地元以外の人には、ただの平凡な景色かもしれない。工場や、家や、寂れたレストランや、地味なマンションが立ち並ぶだけ、遠くにさして有名でもない丘や山が見えるだけの景色かもしれない。たとえそうであっても、愛しさが、どうしようもなく込み上げてくる。誰がどういおうと、雄介もこの地元が好きだった。

 茨木市に入るまで、二人は無言だった。気晴らしのラジオすらかけなかった。

「…なあ、これから、どうすんのや?」

 中央環状線を出たところで、諒はようやく口を開いた。

「ドライブのあとのことか?」

「そうやない。これから先、どうしていくねんってことや」

 諒は、真剣な口調でいった。

「…なにも変わらへん。朝起きて、会社にいって、帰って寝る。それの繰り返しや」

 雄介は、静かにそう答えた。顔は横を向いていて、ずっと景色を見ている。窓ガラスに手をつき、茨木の丘陵を見ていた。

「あっ」

 雄介はなにかを思い出したように声を上げた。

「これからすることで、忘れてたことがある」

「なんや?」

「お前と飲みにいくこと、それから、大阪弁を直すこと」

 雄介は、なぜか真顔でいう。

 それが諒にはおかしく、ふっと笑う。

「なんや、それ。まあええわ、せっかくやから、つきあったるわ」

 諒は、雄介にいった。

 十数分もすれば、車は高槻に戻る。高槻のことはよくわかる。どこに車を置いていけばいいか、そんなことは考えるまでもない。

 諒は、アクセルを強く踏み込んだ。

 再び加速した車は、高槻を目指し、疾走を始めた。


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