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五か月前の夏の日。夕は、雄介から三十メートルも離れていないところで、車に撥ねられた。別の歩行者を轢き逃げした車を止めようと、車道に飛び出したのだ。夕が急に飛び出してきたため、轢き逃げをした車は回避することも、急停止することもできなかった。夕は真正面から車に撥ねられ、頭を強く打って死んだ。皮肉なことに、轢き逃げされた歩行者は、軽傷ですんだ。
どうしようもない喪失感と、あえて飛び出す必要があったのかという疑問。夕の死を悼んだ者たちは、みなその二つに苛まれた。あとに残った皮肉な結末を前にして、夕の行為をどう評価すればいいのか、雄介でさえわからなかった。夕のことをなにも知らない人間たちは、夕の行為を讃える。だが、親しい人々は、決してそうではなかった。夕がずっと元気で生きていてほしかったからこそ、夕の行為に、複雑な顔を浮かべた。
夕の死から、五か月の月日が流れた。雄介はいまもあの日の夕の行為を、どう評価していいのかわからずにいた。
万博公園を通り過ぎても、未来的な景色は続く。人工物の象徴のような、モノレール、高速道路、団地、オフィスビル。それらとは対照的な緑の木々。対照的な二つが気味悪いほど織り交ぜられた風景。
諒がアクセルを強く踏み込み、スイフトを加速させる。千里中央に近づいていた。このあたりでは、並走する中国道がよく渋滞し、そこを走る車は減速しがちになる。一方で中央環状線は空いている。諒は、高速を走る車を追い越す快感を得たいのだろう。
雄介は、徐々に心がときめいてくるのを感じた。千里中央を過ぎてからの景色が、とにかく美しいのである。千里中央から柴原までの区間、そこでは大阪の平野を車窓から見渡すことができた。聳え立つ梅田の高層ビルや煌めく中層ビルの群れを一望できた。丘陵の上から下に降りていくような格好で、景色を見つめる。都市の煌めきに、心を奪われる。
大学生になって車が運転できるようになると、夕とのドライブで何度もここを通った。言葉に出さずとも、二人ともここの景色が好きだとわかっていた。夕は、千里中央を過ぎると、いつも言葉少なくなった。景色に見入っていたのだ。雄介も、時折視界の左手に映る景色を見た。夜でも、昼でも、夕方でも、そこから見える大阪の景色は美しかった。途方もない数の人を抱え込む梅田という大都市が、そこからだと、景色の中の一部分に過ぎない。ビルという無数の細い針が地表に突き立ったその上に、大阪の空がさっと突き抜けるような開放感をもって広がっている。
それまで速度を上げていたスイフトが、速度を落とした。その瞬間、雄介は諒が気遣ってくれたのだと理解した。
待ち望んでいた景色が、見えてきた。彼方に、自ら光を発し、輝く街が見える。梅田だ。散りばめられた硝子のように、輝きは無数に存在し、各々がきらきらと揺らめいて雄介を魅了する。漆黒の空が、その輝きの上に広がっている。星も月も見えない、ただの黒々とした空である。しかし、深い闇を湛えた夜空は、宇宙のブラックホールのように雄介の視線を吸い寄せた。あの闇に呑み込まれそうだ、そんな気がして、視線を手前の景色に移した。無機質な中層マンションが、そこにはあった。彼方の美しい都市の輝きと、眼前の冷たい都市の景色。その二つの対照が、全体としての景色に深みを持たせている。
やがて、数分もしないうちに景色は、絶え間なく建てられたマンションによって遮られた。
雄介は夢から醒めたような気分を味わう。顔を前に向けた。それまで上空を走っていた、もしくは並走していたモノレールの軌道が大きく曲がり、中央環状線と別れる。あのままモノレールは蛍池駅に向かい、そして終点である伊丹空港にいき着くのだ。
車はしばらくまっすぐに進んだ。住吉二丁目の池の上にとぐろを巻く立体交差を経て、府道十号線に入る。それまで西に進んでいたが、南に進路を変えた格好だ。阪神高速の横を走る。走井の大きな交差点を右折し、道を直進すると、伊丹空港の滑走路と地下道への入り口が見えてくる。伊丹空港の真下に走る長い地下道を通り抜ける。赤とオレンジの蠱惑的な灯を、雄介はずっと眺めていた。地下道を抜けて左折し、しばらくすると、大きな駐車場にスイフトは進入した。諒は、そこで車を停めた。夜の駐車場だが、車の数は意外と多い。
雄介と諒は車を降りた。白い息が、闇の中に浮かび上がり、儚く消えた。
「ぜってえ、カップルばっかりやぞ。絶対俺らなんか間違ってるで」
ジーンズの前ポケットに手を突っ込んだ諒が、雄介に向かっていう。
「んなもん百も承知や。ただ、どうしてもきたかったんや」
雄介はまったく泰然として答えた。カップルがどれほど溢れていようが、雄介にはまったく関係がないようだった。
二人は寒さに凍えながら歩き出す。諒は場違いだ、ゲイに思われると喚きながら。雄介はそんなことどうでもいい、誰も気にしてはいない、と冷静にいい返しながら。
コンクリート造の建物の横を通り、灰色の階段を昇る。その先には、滑走路を見渡す大きな公園が広がっていた。伊丹スカイパークという。飛行機の離着陸を間近で観覧できる公園であり、時期を問わず飛行機好きやカップルの姿が溢れている。
飛行機の離着陸のたびに、轟音が鳴る。空港のフェンスぎりぎりまで近寄ると、飛行機が生む風圧も感じることができる。鉄の塊が、なんの表情もなく滑走路に突入し、激しい音と風を作り出す。その禍々しさと迫力に、ただただ圧倒される。
雄介と諒は、公園の小高いところから空港の景色を眺めた。闇に包まれた滑走路。その滑走路に埋め込まれた灯火が、闇の中で整然と何百メーターにも及ぶ光の筋を作っている。景色の奥では、空港ビルと大きな照明が煌々たる光を放っている。空港の灯は、どこかオレンジがかった色をしていて、雄介を惹きつける。眠気を誘うような、夜の危うさ、妖しさを想起させるような光の色である。
昔、映画の中で夜の空港の景色を目にした。夜の闇、眩い灯、離着陸する旅客機、闇と灯を利用しながら鬩ぎあう刑事と犯罪者。あれはなんの映画だったか。映し出された空港の夜景が、息を呑むほど美しかった。あの映画とまるで同じの景色が、眼前に広がっていた。
遠くで、カップルがじゃれあう声がきこえた。
諒は羨ましそうな視線を、闇で姿がろくにも見えぬカップルに向けた。
雄介はその声をきき、過去を思い返す。
いったい何度ここにきたのだろう。雄介と夕は二人で、時には諒も交えて三人で、何度もこの公園に足を運んだ。景色を眺めるだけでなく、小学生のように公園の遊具を使って無邪気にはしゃぎ回った。夕と諒が共謀して、雄介を公園の噴水に無理やり突っ込ませてびしょ濡れにさせたこともあった。景色に見とれていた夕をわざと置き去りにして不安にさせ、半泣きにさせたこともあった。夕と雄介の二人だけできて、夕とずっと抱き合っていたこともあった。もはや再現することも叶わぬ過去である。じゃれあっていた二人の姿、はしゃいでいた三人の姿は、記憶の中枢から遠ざかり、色褪せていた。
やがて景色を眺めることに飽きた諒が、雄介に語りかけた。
「なあ、どうしてここへきたんや?」
雄介はじっと景色を眺めたままだった。顔の向きも、表情もなにも変えず、言葉だけを静かに発する。
「…理由なんて、あるようでないよ。なんとなく、ここへきたくなったんや」
「さっきはどうしてもきたかったってゆうてたやんけ」
「…なんとなく、どうしてもいきたいって思ったんや」
「なんやそれ。そのどうしてもいきたいって思うからには、理由があるはずやけどな」
諒はいった。
雄介はなにも答えなかった。ここへくる理由は、あるようでない。過去を懐かしむため、景色を記憶に刻み付けるため、友との再会を楽しむため、感傷を味わうため。そのどれにもあてはまり、そのどれにもあてはまらない。明白な理由などなくても、人は突き動かされる。理由を探し出すことなど、いまの雄介にとっては無意味だった。
諒は釈然としない顔で、雄介は虚無的な顔で、彼方の闇を見ていた。
長い沈黙のあと、突然雄介が口を開いた。
「…夕が事故に遭う、ほんの五分前にな」
急に喋り出した雄介に、諒は視線を向けた。
ちょうど大型の旅客機が飛び立った。轟音のあとに、閑とした静寂が公園に訪れた。
【注釈】
「映画の中で夜の空港の景色を…」:1995年の犯罪映画「HEAT」最終盤のシーンのこと。夜のロサンゼルス国際空港で、特別な許可を取った上で撮影された。