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「…なあ、東京はどうよ?」
突然、諒はきいてきた。
雄介は返事に困った。
「いきなりどうよといわれてもだな…」
「向こうの生活って、やっぱ大変なんか?」
諒は雄介を心配するかのように尋ねる。諒は、旅行などを除けば、生まれてこの方関西を出たことがなかった。
雄介は、大学卒業後、東京の会社で働くこととなった。年末の休暇を利用し、昨日の夜に大阪へ帰ってきたばかりだった。
東京の暮らしはどうだ。雄介が東京で働き始めて以来、地元の人間から繰り返し問われる質問。昨日も、両親から同じ質問をされた。いつだって繰り返される、ありふれた質問。
諒も、雄介が大阪に戻ってきて会うたびに、この質問をしている気がする。
「…なんにも変わりやしないさ。こっちにいた時も、東京に出た時も、なにも変わりやしない。朝起きて、仕事して、帰って寝る。それの繰り返し」
どこか素っ気ない口調で、雄介はいう。
「そりゃ俺だってそうやけど、なんか向こうならではの大変さとか感じへんのか?」
「あるにはあるさ。けれど、たいしたことじゃない」
「たとえば?」
「…たとえば、言葉遣いとか。大阪弁は封印するとかだな」
「それで、似非標準語を使うと」
「うるせえよ」
雄介がそう声を上げると、諒はけらけらと笑う。
東京で働き始めて、上司から受けた最初の注意が、大阪弁を標準語に矯正することだった。注意されてすぐは、自分のアイデンティティを否定されたような気になったが、郷に入れば郷に従えということで、標準語を喋るようになった。もっともそれのおかげで、地元に戻ると、周囲からひどくからかわれるようになった。大阪弁はなんだか似非大阪弁のようにきこえ、しかし標準語もまだ大阪弁の訛りが色濃く残り、妙な標準語のままである。中途半端な言葉遣いだと、自分でも思う。
「…俺だって、好きで標準語を喋ってるわけじゃないんだ」
「なら、こっちに戻ってるんやし、今くらいは大阪弁を喋ればええやんか」
「もうちょっと喋り続ければ、そのうち大阪弁になるよ」
「なんやねん、それ」
諒は鼻で笑い、そういった。
このドライブの間に、大阪弁を取り戻せるだろうか。諒はそんなことを考える。意外と難しい気がした。標準語の感覚が、口や舌から抜き取れないのだ。その瞬間に、東京での五年の暮らしが俄かに重みを帯びた。
「で、東京にはいつ帰るねん?」
「二日から仕事だし、元日に帰るよ」
「元日? えらい早いな。もっとゆっくりできへんのか?」
「二日に出社するって前から決まってた。戻るしかないな」
雄介が勤めている会社は、品川にオフィスを構えるユーザー系IT企業だった。サーバーやシステムを二十四時間、三百六十五日管理する必要があるため、会社では当番制を設けて、年末年始の休みにも人員を配置していた。雄介の当番は、新年二日から四日までだった。同期や後輩が大晦日や元旦にも出社していることを考えると、我儘はいえなかった。
「ほんと忙しないな、お前の会社は」
諒は呆れたようにいう。
「そういうお前のところはどうなんだよ?」
「俺はメーカーやから、のんびり休めるよ。」
「…メーカーは羨ましいねえ」
雄介は心からそう思い、いった。諒は大学卒業後も関西に留まり、住宅設備のメーカーで働いていた。きくところによれば、諒の勤める会社は、残業時間の削減や有給休暇の行使を積極的に勧める企業風土があるらしい。
「そいじゃあ、大阪にいるのは、昨日も入れてたった四日間だけか?」
「そういうこと」
「大学の友達とかには会ったか?」
「昨日と今日で、会える奴には会っておいた。バイト先の人とか、大学時代の友達とか。高校のころの奴は、たぶんお前だけだな」
「…そうか」
残念そうに諒はいった。
「どうした?」
「いや、伊藤って覚えてるか? あいつが、二日に高校の同窓会をやろうって企画してたんだよ」
「…二日は無理そうだな」
「…そうだよな」
諒は、自分を諭すような調子でいった。
雄介は、伊藤という人物を覚えていなかった。確かに知っていたような気がするが、顔も、どういう人だったのかも、靄がかかったようにぼんやりとして、結局思い出せない。諒にはそれをいえなかった。
高校生のころ、雄介の人間関係はかなり限られていた。諒や夕、それから数人の友人で構成される人間関係。たったそれだけだった。他の同級生たちは、名前や顔を覚えているだけで、つきあいのないただの他人でしかなかった。正直なところ、夕とつきあい、諒やその他数人と遊び回るだけで、雄介は満たされていた。人脈を広げるだとか、広範囲に友人を持つという考えは、当時の雄介にはなかった。
不意に、あのころの夕の姿が、脳裏に浮かんだ。青いシャツにブレザーを羽織った夕。黒髪のショートヘアは、昔から変わらなかった。ネクタイやリボンの結び方が、なぜかいつも雑で、曰く服装にまでとやかく文句をつける教師たちへの反抗の証だったらしい。成績優秀で、快活で、女のくせして親分肌で、撥ねっ返りだった夕。彼女がいるだけで、雄介の日々には、なんの不満もなかったのだ。
諒が、急にアクセルを踏み込んだ。その時のわずかな車体の揺れで、夕の幻影は脳裏から消えた。思考が、一気に現在に戻る。
すでに車は、茨木市内に入っていた。遠くにはすでに一七一号線が大きく曲がる地点、茨木インターチェンジが見えている。インターチェンジに近づくと、道が二手にわかれる。諒は左の道を進んだ。左の道は一七一号線と決別し、茨木市内を南に向かう道だった。春日丘高校や茨木警察署を通り過ぎてゆく。視界の左にはJRの線路があり、建築物の隙間から、猛烈なスピードで走り去る新快速が時折見えた。道をしばらく進むと、前方に中国自動車道の巨大高架が見えてくる。高架下の交差点で諒はハンドルを右に切った。一車線の道を進む。数十秒走れば、モノレール宇野辺駅の直下で、片側三車線の大阪中央環状線に合流する。宇野辺駅から数分走ると、吹田市である。
吹田市に入ると、都市の風景が様変わりする。住宅や工場が多く立ち並び、遠くに丘や山が見える以外は平坦な景色が続いた高槻や茨木と違い、吹田は丘陵地帯にあるためか起伏ある景色が続き、豊かな緑と多くの集合住宅が混じりあう、まさにニュータウンの風景が広がっている。
交通の要衝である吹田インターチェンジが横目で見える。インターチェンジのそばにある、白いマンション。高速道路の上を慎ましげに走るモノレール。子どものころから、ここの風景には、近未来的ななにかを感じていた。人工物で構成された、整然として、清潔で、けれどどこか冷ややかさを感じる景色。
緩やかな坂を上り、スイフトは中央環状線をひた走る。先ほどまで頭上にあった高速と並走する形になる。上空では、モノレールが運行している。万博公園から茨木市北部までを運行する彩都線の軌道が、中国道と中央環状線を跨ぐように空にかかっている。視界の左手には、存在をかき消されたかのような旧エキスポランド跡地が見え、右手には、万博公園と、夜闇に不気味な姿を曝す太陽の塔。
「思い出すなあ」
諒がいった。
「なにを?」
「夜の万博、忍び込んだろ」
脳裏に記憶が蘇る。夜十時を過ぎ、とっくに閉園した万博に三人で忍び込んだ。公園内の日本庭園や展示物の夜の姿を見たくて、そして不法侵入の興奮を味わいたかったのだ。
「ああ、あったな、覚えてるよ。警備員に見つかりそうになって、慌てて逃げ出したっけ?」
「そうそう。そしたら、俺が途中でずっこけて捕まりそうになってさ」
「あれはこっちまで焦ったよ。振り返ると、お前が地面に倒れてじたばたしてるしな」
「てめえ、あの時俺がこけてたのに、助けにきやんかったやろ」
「いきなりなんだ。俺だって、逃げるのに必死だったんだ。それに、なんだかんだ捕まらずにすんだからいいじゃないか」
「ったく、またそんなこといいやがって。あの時結局助けに戻ったのは、夕やったやないか」
冗談半分で諒は雄介を詰問した。が、夕の名を出した瞬間、しまったといわんばかりの顔になった。
「…すまん、あいつのこと」
申し訳なさそうに諒はいう。
雄介は少しの沈黙を置いたあとで、喋り出した。
「…いいんや。別に気を遣わんでええ」
「けどな…」
「ええねん。別にあいつの話をして、俺の気分がどうこうなるわけやない。だから、気にするな」
雄介は苛立った口調でいった。顔つきは、暗く、険しいものに変わっていた。
誰もがみな夕のことで雄介を慰め、気を遣う。結婚間際の恋人を事故で失った。その重みを慮って、友人だけでなく親までもが雄介の前では夕の話を控えるようになった。だが、彼らの心配りは、雄介にとって、夕のことを一切合財封印しているように思えて仕方がない。雄介は、そんな心配りをまったく望んでいなかった。
雄介は、遠い目をしていう。
「…あいつは、そういう奴やった。いつも真っ先に動き出す。後先を深く考えもしないで、いつも一番早く動き出すんや」
「三人でなにかしようってなった時、いつも話を持ちかけるのは、夕やったな。万博に忍び込もうなんて大馬鹿も、あいつがいい出した」
「なんでもかんでも、いい出しっぺはあいつやった」
「女子のくせしてよ。けど、あの万博の時は、本当に助かったで」
「ほんと、無茶ばっかりする奴やった」
そんな性格だから、夕は命を落としたのだ。