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北摂賛歌  作者: ENO
第4話 塚本ウォーターフロント
15/25

2

 JR塚本駅は、大阪市北部、淀川区と西淀川区の境に位置する、JR神戸線の駅である。大阪駅からはわずか一駅、淀川を渡ってすぐのところにある。梅田までの近さに加え、神戸方面へのアクセスのよさなど、利便性はすこぶる高いが、駅の規模自体はさして大きくない。朝と帰宅時を除けば、大阪の下町らしさに溢れつつも、静かで落ち着いた駅だ。

 そんな塚本駅も、淀川花火大会の日だけは会場までの最寄駅ということで、終日慌ただしさに包まれている。

 改札を潜り、駅東口に出ると、花火大会のスタッフのみならず、多数の警察官がいて、交通整理や来場客への声かけを行っていた。そして、そのスタッフや警察官を圧倒せんばかりの人の群れがある。東口近くのコンビニに駆け込み、酒やつまみを買う人の姿が見える。すでにビールの缶を開けている者もいた。

 千里も健太も、大会に参加するのは初めてだったし、この塚本駅に降り立つこと自体初めてだった。遊びで梅田やその周辺に出ることなど、彼らにはまだ早かった。

 けたたましいアナウンスや既に出没した酔っ払い、多数の警察官に気圧されながら、人の流れを見極め、千里たちは会場を目指した。

 淀川花火大会は、七月末の天神祭、八月一日のPL花火大会と並ぶ、大阪屈指の規模を誇る花火大会である。主な会場となるのは十三と塚本間にある淀川河川敷で、花火は淀川の真ん中から打ち上げられ、大阪の夜空を彩る。

 会場まで歩きながら、千里と健太は他愛もない会話をする。人の流れは鈍く、会場に着くまで二人は暇で仕方がなかった。横たわる時間を沈黙で食いつぶすのは味気なかったのだ。

なあ、なんでここの花火見たかったん?

 健太は、千里にきいた。祭りの前だというのに、千里は興奮した様子も、花火に期待している様子も見られない。楽しそうにしている感じはまったくなくて、いつものように大人しく、そして醒めた雰囲気を漂わせている。健太からすれば、なぜこんな態度なのだろうと思わざるを得ない。

 健太から見て、千里は常に謎めいた少女だった。千里は自分のことを多く語らない。大人しいくせして危なっかしいところがあり、放っておけない存在でもあった。健太が花火大会にいくと決めた理由は、単に千里が気になるからだけでなく、たった一人でこうした混雑に飛び込んでいく千里を心配したからでもある。

 千里は健太から問われ、こう答える。

 楽しむためにきてるんちゃうねん。

 うん、そうなんやろな。

 健太は、お見通しやったか。

 楽しそうな顔、してないからな。で、なんでここにきたかったん?

 なぜ千里はこの花火大会にいきたいのか、健太はそのわけをきいていなかった。花火を楽しむのでないなら、なんのためなのだろう。

ここで、お父さんとお母さんが出会ったんよ。花火大会の夜に。

 千里は前にいる人の背中を見ながら、そういった。健太は千里の横顔を見つめた。人形のような生気のない顔立ち。くっきりと大きい目をしていて、瞳孔を囲む虹彩の輝きが、際立っている。無表情と目の輝きが、余計に人形を思わせる。

 それが、花火大会にいきたい理由?

 健太は問うた。

 千里はようやく健太の方を向く。

 ちょっとおかしいと思うやろ?

 自虐するように、千里はいう。口元には、かすかな笑みを湛える。

 健太は首を横に振り、いう。

 おかしくはない。ちょっと変わってるけど。

 ふふ、それ、フォローしてるようでしてないよ、健太。

 ごめん。

 ううん、ええねん。やっぱり私、おかしいんやわ。お父さんとお母さんが初めて出会った場所にどうしてもいきたいって気持ちが、前からあってん。

 なんでなん?

 理由をきかれたら、答えに困る。なんていうんやろ、自分はどこから生まれてきたのかを探ってるようでもあるし、もしかするともうおぼろげになってるお母さんの影を追いかけてるんかもしれへん。お父さんとお母さんが出会った場所にいって、自分が何者か、お母さんはどんな人なのかを確かめたいんやろうね。

 千里はいった。その視線は遠くにある。健太に向かって喋っているのではなく、まるで独り言をいっているように見えた。

 健太は千里の考えを理解しようと努めたが、なんとなくにしかわからなかった。母の影を求める、自分はどこからきたのかなど、健太はいままでそんなことを考えたことがなかったからだ。健太には、当たり前のように両親がいて、自分はその両親のもとで生まれ育った紛れもない事実がある。自分の存在に揺らぎを感じたことなど、一度たりともなかった。

 ごめん、お前の感覚が、俺にはまだわからへん。

 健太は素直にそういった。わからないものは、わからない。

 千里は一瞬目を丸くしたが、すぐに吹き出した。健太の正直さが、おかしかったのだ。

 ううん、いいねん。健太のそういうとこ、私好きよ。

 そういって笑いかける。健太は顔を赤くしたが、千里はそれに気づいていない。

 咳払いをした健太が、言葉を発する。

でも、なんでいまなん? 去年でも、一昨年でも、いこうと思えばいけたんとちゃうんか?

 健太は千里にそうきいた。

うん、それはそやけど。でも、ほら、いまうちって父子家庭やろ? お父さん仕事大変やのに、私が夜外出して、余計な心配かけたくなかってん

 じゃあ、今日はお父さんに一言いってきたんや?

 ううん。女友達と京都にいくっていってきた。

 素直に花火いくっていえばいいやん。

 お父さんに、お母さんのこと思い出させたくなかったんよ。お母さんのことは、お父さんにとって嬉しい思い出やけど、悲しい思い出でもあるから。

 千里はいう。脳裏に父の姿が浮かぶ。

 もしかすると、今日初めて父に嘘をついたかもしれない。母の思い出が幸福な悲劇であるのを千里は知っていた。思い出は常に父に途方もない喜びと痛みを与える。それを思うと、今日の行為を父に伝えるのは賢明でないと千里は考えた。そして、大嘘をついた。良心は痛んだ。

 わざわざ嘘をつく必要なんてあらへんのに。

 健太は千里の嘘に思うところがあったが、黙っておくことにした。

 淀川の土手に上がる階段が見えてきた。階段を目指して、人波はのろのろと動いている。厚さで首筋や背筋に汗が浮かぶ。千里は手提げ袋から水の入ったペットボトルを取り出し、ごくごくと飲む。水は暑さのせいで温くなっていた。

 健太の額にも汗が浮かんでいた。野球部の練習で慣れているのか、それでも健太は涼しい顔をしている。疲れもなさそうだ。

 階段を昇り、土手に上がった。景色が開けた。中層ビルやマンション、三階建ての住宅が混在する雑多な景色が一変、閉塞感を吹き飛ばすかのように、開放感に溢れた大阪の空と雄大な淀川が、視界に飛び込んできた。河川敷には会場が設営され、多数の人々がすでに集結していた。

 その景色を見ただけで、気持ちは昂ぶり、心は弾んだ。さながらコンサート会場にきたような気分だった。開演を楽しみに待つ気分は、花火もコンサートも同じだろう。

 無表情だった千里の顔が、一瞬で楽しそうな顔に変化した。いまの彼女は人形ではなかった。この景色や会場の雰囲気に呑み込まれ、興奮しているのがありありとわかった。健太もそうだった。たぶんいまの自分の目は、いつもよりくっきり見開かれているだろう。健太にとって感情を表すバロメーターは、目の見開き具合だった。

 千里は健太よりも先に会場に向かって歩き出す。健太は追いかけ、横に並んだ。千里の表情を見て、健太は笑った。

 なんや、やっぱり楽しそうやん

 健太がそう言葉をかけると、千里は答える。

 楽しいかそうでないかなら、楽しい方がいいに決まってる。それだけよ。

 素直やないな。

 自分もよくわかってる。

 千里はいう。彼女の歩く速度は速まり、立ち止まるとしきりに爪先立って、河川敷に目を凝らす様が、千里の気持ちを表している。

 素直ではなかったが、千里のその姿が健太には好ましく映った。

 千里より背が高い健太には、会場の様子がよく見える。会場は河川敷側と土手の斜面側の二つに分けられていた。河川敷、土手斜面ともに二メータ―ほどの幕と柵が張り巡らされ、出入場の管理がなされている。河川敷側と土手斜面側の間に通路が設けられ、会場入り口もそこにあった。千里たちは河川敷側の入場チケットを持っているから、河川敷側の入り口に向かえばよかった。

 陽は翳ってゆく。梅田の高層ビルの背後にある空の色が、哀愁のそれに変わりゆく。空の色などお構いなしに、ビルの群れは無感動に聳え立つ。対岸にある河川敷もよく見えた。梅田側にも会場が設けられていて、途方もない数の人が蠢いていた。

 人の流れに従い、会場入り口までくると、係員がチケットの確認を行った。確認が終わりさらに先に進むと、露店がずらずらと並んでいる。

ねえ、まだ花火まで時間あるし、食べもの買っていこうよ。

 千里が提案する。

 健太は頷いた。

 なに買う?

 私、お腹空いてるかも。お好み焼きとか売ってへんかな? 健太はなにするん?

 たこ焼きにしよかな。

 うん、ならそうしよ。面倒やし、それぞれで買ってこようよ。

 いいよ、俺が出す。

 別々に食べものを買ってこようという千里に、健太は強い調子でそういった。

 え、でも面倒やろ?

 いいから、ここは俺が出すよ。

 そういって健太は自分の財布を取り出した。中学生だから、大量のお札が入っているわけはなかった。それなのに自分がお金を出すのは、ただの意地でしかない。

 ごめん、ありがとね。

 千里は面倒だと思いながらも、健太を止めることができず、そういうしかなかった。友達なのに、いいところを見せてどうしようというのだろう、と千里は訝しがった。

 お好み焼きを先に買い、次にたこ焼き、ついでに飲み物も買った。並ぶ時間がもったいないと千里は思ったが、口には出さなかった。

 二人はチケットの記載された位置に向かった。柵と幕で囲われた会場内も、細かく席の指定が決められていた。二人が買ったチケットは価格帯としては中くらいのもので、花火が一番見やすい席の後方にあった。特等席ではないが、ほどほどの眺めは楽しめそうだった。持ってきたシートを地面に敷くと、二人は座り、買ってきた料理を食べながら、夕暮れの梅田を見ていた。

 梅田の街に突き立つ様々なビルが、西日を浴び、光を反射させている。視界のちょうど正面に梅田スカイビルがある。東西二つのビルを頂上部で空中庭園が連結している独特の外観は、視界に映るさまざまなビルの中で一番目立っていた。いつかあの空中庭園にいってみたい、と健太は考えている。千里は、両親のことに思いを馳せている。二人の会話は途切れ、それぞれが沈思する。周囲の雑音は二人を包むが、二人から声は出ない。夏の風が優しく二人を撫でるが、風が吹き抜けると侘しさが残った。

 夜が迫ってくる。二人に会話は生まれなかった。対岸のビルから漏れる光が、煌々とし始めた。健太は時計を確認した。まだ開催時間までは時間があった。コーラの入ったカップに口をつける。炭酸はすでに抜け切り、温くなっている。それでもあり余る時間を埋めるため、口をつけた。そのうちコーラはなくなった。視線を他の客に移す。その手に握るカップの中で、黄金色のビールが泡立ちながら八月の風に揺れる。いともたやすその液体は人々の喉の奥へと進入し、耐えがたい渇きを潤す。

 ほんとはあれが飲めたらええのにな。

 コーラが入っていた自らのカップに視線を落としながら、健太は思う。月のような色をした液体は、じりじりと体力を奪っていくこの暑さを和らげる特効薬に見えた。事実、大人たちはビールを飲むことで、至福の表情を浮かべている。

 大人は酒が飲めてええな。

 健太は思った。どさくさに紛れて酒を買おうとも思ったが、悲しいことに健太も千里も、誰がどう見ても子どもであり、酒を売ってくれる人がいるとは思えなかった。

なにをすることもなくなって、健太は困った。千里を見る。千里は、じっと彼方に目を凝らしている。

 その目はきっといまではなく、過去を見つめている。両親の幻影を探しているのだろう。

 親という存在が、そして親たちの出会いが、彼女にとってどういう意味を持つのだろう。健太は真剣に考えた。健太にとって、当然いるべき両親が、千里にはいない。それは孤独なのか、悲しみなのか、自分が何者かわからない悩みに陥るほどのことなのか。考えたが、答えは出なかった。しかし、千里への興味は湧いた。彼女の思いや悩みに触れてみたいと、そう思えた。いままで自分は彼女のなにを見ていたのか。彼女の容姿や表面の性格しか見ていなかったのではないか。その人形のように整った容貌に惹きつけられていたが、彼女は決して人形などではない。内面に複雑ななにかを抱え込んだ、紛れもない人間だった。その内面に少しでも触れたい、願わくは、理解してやりたい。

 健太は千里の顔を覗き込み、きいた。

 なあ、せっかくやから、教えてくれへんか?

 えっ?

 お前のお父さんやお母さんのこと。ここで出会ったんやろ?

 彼女を理解しようとすると、なにがええのやろう。

 健太は考えた末に、千里の両親の話をきくのが一番だと思った。彼女の始まりは、彼女の両親なのだ。

 二人が出会ったときの話をしてくれよ。

 健太はいった。

 千里は、静かに、しかし滔々と語り始める。

 


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