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雨は続いていた。雨の勢いから察するに、今日の夜はずっと、もしかすると朝方まで振り続けるのかもしれなかった。
レストランの入ったビルを出て、阪急梅田駅に向かう。梅田にあるビルはどこもたいていは地下街と繋がっている。雨を避けるため、二人は地下通路を使い、梅田駅に向かった。
梅田の地下街の複雑さは、新宿や渋谷と同等か、もしくはそれらを凌駕している。その面積の広さに加え、複層をなしているため、迷いやすい。初めて地下街を歩いて迷子になったことを夕は思い出した。しかし、いまでは、しばらく大阪を離れていたとはいえ、迷うことなく地下街を歩いていける。大阪にいたころは何度も何度も歩いたものだ。思い出が堆積したぶんだけ、道や構造を覚えていたのだ。
とりとめのない話をしながら、二人は歩いていた。どんな些末な話題になっても、笑みが浮かんだ。きっとワインのせいだろう。
エスカレーターを昇り、梅田駅の改札前に立った。雨でずぶ濡れになった人も目立つ。スーツに玉となった水滴が無数に浮かんでいた。
夕は高槻の実家に、由美子は茨木に借りたアパートに戻ろうとしていた。二人とも阪急を使って帰ろうとしている。
梅田駅の東側の端に、阪急京都線のホームはある。二人はそこに立って、河原町いきの特急電車を待った。高槻、茨木ともに特急の停車駅だった。梅田からだと二十分もあれば、到着できる。
電車を待つほんの十分くらいの間、それまで散々浮かんでいた話題が急になくなり、二人は少し気まずさを感じながらも、沈黙した。お互いなにか話題を考えなければと必死になるが、なかなか考えは出てこず、当然口にも出せなかった。ひたすら黙り込んだ末、ようやく口に出していったのは、こういう言葉だった。
「あんな、由美子。私、隠してたことがあるねん」
「なによ、急に?」
「実はな、大阪に戻ってきたのは、出張じゃなかってん」
「えっ、どういうことよ、それ? プライベートで大阪に戻ってきたってこと? 夕、仕事はどうしたんよ?」
「仕事は、有給使った。大阪に戻ってきたのは、完全にプライベートやな」
夕はいった。視線はただ前に向けられている。視線の先にあるのは、まだ電車が到着せず、がらんとした向かいのホームだ。
「…てっきり私は、夕は出張で大阪に戻ってきたんやと思ってたわ。…でも、なんで、会社休んでまで大阪に?」
由美子は心配そうにきいたが、夕は力なく笑うだけだった。
「…なんでやろな、私にもよくわからへん。ただ、なんか無性に大阪に戻りたくなってしもて…。なにしてんねやろ、私。会社休んで、雄介にまで嘘ついて、こうして大阪戻ってきて」
「ねえ、夕、あんた大丈夫?」
由美子には、力なく笑う夕の姿が、不気味に映った。由美子が目を離せば、このままホームに飛び降りてしまうのではないか、と思わせるものがあったのだ。
「やっぱりあかんなあ、私。いつまでたっても東京に溶け込めへん。溶け込みたくもない。こんなんやから、大阪に戻りたくなるねん」
夕は思いつめた顔で、些か自虐めいた言葉を吐く。夕らしくない、と由美子は思わざるを得なかった。同時に、夕の強烈といっていいほどの、東京への反発や大阪への執着の根源はなんなのだろうと考えざるを得ない。
「向こうの暮らしが辛い? それとも、仕事が上手くいってないの?」
「そういうわけやない。これといった不満があるわけでもない。ただ、なんとなく、東京にいる自分が虚しく思えるだけ。いつまでたっても東京は見知らぬ街のまま存在し、私自身は東京に根を張って生きている実感がなくて、ふと立ち止まって考えると、途方もない虚しさと宙吊りにされているような感覚に囚われてしまう」
「…ちょっと思い込み過ぎや。肩の力を抜かないと」
「…ごめん、変なこといって」
「ええんよ。夕がそんな悩んでるって、知っただけでもよかった。ねえ、夕、そんな思いつめたらあかんで。東京に馴染めなくったってええやん。そんな人、世の中にいっぱいおるはずや。辛くなったら、また今日みたいにぱっと戻ってきて、気分転換したらええんやから」
「…うん」
由美子の励ましに、夕は静かに頷いた。
河原町駅に向かう特急電車がホームに滑り込んできた。乗客を全員降ろして扉を閉めると、車内清掃を行い、そして扉を開けた。二人掛けの席があり、二人はそこに座った。夕は窓側で、由美子は通路側だった。
電車が走り出す。淀川を越え、十三駅へ向かう。窓の外は相変わらずの豪雨だった。切れ間の見えぬ太い線となった雨が、暗い色をした淀川の水面に突き刺さる。雨のせいか、外の景色は若干の青みを帯びている。
じっと外の景色を見つめる夕を、由美子はやるせない表情で見守った。夕がいまなにを考えているのかはわからなかった。だが、かつての夕が見せていた快活さはどこへいったのだろうと考えてしまう。快活でない夕など、由美子は見たくなかった。たとえ夕が快活な人柄と周囲から思われることに少なからぬ嫌悪感を持っていたとしてもだ。快活さのない夕は、夕であって夕ではない。
十三駅を過ぎてから茨木に着くまでの十数分間、二人の会話は、この雨がいつまで続くのかということだった。お互い、梅田駅でした話に戻ることは避けようとしていた。議論したところで、なにか明確な結論が出るわけはなく、空転を繰り返すだけだと二人ともわかっていたのだ。
摂津市を過ぎたあたりで、由美子は膝に乗せていたバッグを掴んだ。南茨木駅を越えれば、もう自分が住む茨木市駅である。
夕は食い入るように、外を見ていた。由美子にとってはありふれた、見慣れた景色に、いいようのない愛しさを感じているのだろう。夕の目の輝きが、高校のころと変わっていないことに、由美子は気づいた。
車掌が、茨木市駅に近づいたことを告げる。別れの時が、間近に迫っている。
由美子は席を立った。夕が由美子を見る。
「じゃあ、今日は楽しかった。また、会おう」
由美子はいった。湿っぽい言葉が出てくるかと思ったが、そうではなかった。
「うん、ありがとうね」
夕はいった。笑顔。あのころのままの笑顔だ。
そのまま別れようと思った。しかし、名残惜しくなって、足を踏み出すことができなかった。なぜかわからないが、もう二度と夕に会えないかもしれない、という気分になった。かつてと同じ、明るく無邪気な笑顔を向ける夕に、由美子は言葉をかけた。
「ねえ、夕。私は本当の意味であんたの気持ちがわかってやれない」
「いいよ。私が変なこといい出したんや。ごめん、悪かった」
「…ううん、こっちこそ、わかってやれなくて、ごめん。でも、夕と話してると、一つ思い出す言葉があった。これ、私の初恋の、その一緒に映画を観にいった人が口癖にしてたことがあってさ」
「なんなん、それは?」
「結局のところ、人は生まれたところを捨てられへん。それがその人の口癖やった」
夕は驚き、目を見開いた。
由美子は夕の表情を見る前に、彼女に背を向け、歩き出していた。
「由美子、その言葉って…」
夕は立ちあがり、由美子にきいた。
由美子は微笑んだ。
「相手は誰かいわへんよ。けど、けっこう夕にぴったりでしょ? …いつか、いつか私が夕の気持ちを理解できるよう、頑張ってみる。そのときは、また今日のようにご飯にいこう。じゃあ、元気でね」
そういって由美子は電車を降りた。追いかける間もなく、扉が閉まり、電車は再び走り出した。ホームに立つ由美子が、一瞬で遠ざかった。目の前に広がるのは、止まない雨に打たれる平凡な街並み。
高槻市に着くまでの五分間を、夕は由美子の言葉を延々と反芻しながら、ただただ窓の外を見つめていた。




