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北摂賛歌  作者: ENO
第3話 梅田群青雨景
12/25

3

 この席からだと、雨に煙る梅田駅がよく見える。阪急グランドビルの三十一階にあるレストランから、夕と由美子は雨の大阪を眺めている。風がないためか、ただただ垂直に雨は地面へと落ちてゆく。レストランの中にいても、雨音ははっきりときこえた。

 二人のテーブルの上には、すでにワインと料理が並んでいた。夕はいま、二杯目の白ワインを飲み干そうとしていた。由美子はただ静かに、煙草を吸っている。

 ビッグマン広場で無事に合流した二人は、由美子が予約をしたレストランに入った。由美子が職場の同僚たちとよくくる店だという。瀟洒な雰囲気のイタリアンレストランだった。店にいる他の客は、ちょうど由美子たちと同じ年代であり、店内は騒がしさに溢れつつも、それは至って健全なものだった。

 会社帰りの由美子は、少し疲れているように見えた。ふっと気を抜くと、視線が宙を漂い、呆然としたような表情になった。夕はそれを見て笑いつつ、お疲れ様、と労わった。

「会社の出張っていいよな。移動時間も業務に含まれてるし、実質働くのって、三時間か四時間くらいしかないんじゃない?」

 由美子はいった。確かに彼女のいう通りで、夕の会社で出張となると、たいてい出張先の部署の会議に出席するか、もしくはイベントの運営をするかで、実質の勤務時間は五時間もないのだ。社内規則に則った息抜きが、出張といっていい。

「まあ、通常の業務に較べれば、出張は楽よね。そういう由美子は今日大変やったん?」

 夕がきくと、待ってましたといわんばかりの顔になって由美子は喋り出す。

「ほんと今日は大変。夕とのご飯があるから、早く仕事切り上げなあかんやろ? ただでさえ焦ってんのに、上司がばんばん仕事を振ってくるから、てんてこ舞いやったわ、今日は」

「それきくと、ほんとごめんって気持ちになるわ」

「ええねん。腹立つのはあの上司やし。仕事を人に任せっぱなしやねん。ちょっとは仕事してくれって感じ。こっちは残業増えて家に帰れへんくなるし。いらいらするわ」

 苛立ちを表現するかのように、由美子は紫煙を吐き出す。由美子が煙草を始めたのは、高校二年生くらいのころだった。つきあった年上の彼氏に、影響されたようだ。あのころは背伸びして無理に吸っていた印象だが、いま煙草を吸う彼女の姿は自然だった。

「わざわざ会ってくれてありがとうね」

 夕はいった。すると由美子は、やめてよ、といって笑った。

「夕が謝る必要なんてないよ。声かけてくれて、私もほんと嬉しかったし。だって、久しぶりの再会なんやで? 何年ぶりやろ、もう随分会ってなかったよね?」

「この前に会ってから、もう三年かなあ」

「三年もたつんや。まあ、私が大阪で、夕が東京やし、離れてたらなかなか会えなくなるよね。どう、東京にはもう慣れた?」

 由美子がそうきくと、夕の表情はやや曇った。

「いや、全然慣れへんわ。なんやろな、やっぱり大阪とは違うんよ」

「ふうん。それはたとえばどういうことなん?」

「なんていえばいいんやろな。街の雰囲気も、人の雰囲気も、価値観も、なんかこっちとは違うんよ。それに私は順応できてないだけ」

「それは、東京が嫌いってことなん?」

「それは違う。東京にも好きな場所はあるよ。ただ、好きとか、嫌いとか、そういう次限の話やないんやと思う。幼いころの記憶、風景、感覚。自分の生まれ育った街には、自分を構成する、あるいは構成してきたなにかが存在するからこそ、自分は溶け込こんでいける。でも、他のところはそうじゃない。目の前に真新しい街が広がっていても、自分は溶け込んではいけない。なぜなら、自分を形作ってきた記憶も、風景も、感覚も存在はしないから」

「だから、東京には馴染めへんってわけ?」

「…そういうことになるのかもね」

 夕は寂しげに笑う。

 思うようにはいっていないらしい、と由美子は夕の表情から、彼女の現状を推測した。

「興味深い意見やね。そういうことをいう大人に夕もなったんやなあ」

「そんなしみじみとした感じでいわんといてよ」

「でも、これからあんたはあっちで生きていくんやろ? 雄介君も東京やし。慣れないとか、馴染めないとか、いってる場合ではないんとちゃう?」

 夕はいま東京の会社に勤めている。恋人の雄介も東京で働いている。普通に考えれば、このまま東京で暮らしていかねばならない。故郷についてどうこういっていられる立場ではないはずだった。

「そうやろうね。ほんと、その通りやねんけど、東京には慣れへんね」

 自分の立ち位置を痛いほど認識しつつも、それでもやはり、といった調子で夕はいった。

 実のところ、由美子は夕の感覚を本当には理解できていない。なぜなら、由美子はいままで大阪を離れたことがなければ、大阪以外の別の街へ長く滞在したこともなかったからだ。異郷に暮らし、故郷との違いを噛み締める経験がなかった。そのため、夕を思いやることはできても、彼女の心情を本当の意味で理解はできていない。だから、前向きな言葉をかけてやるしか方法がない。

「これから馴染んでいくかもしれへんで。雄介君もいるんやし、二人でこれから過ごす時間が、東京での記憶や風景を作っていくかもしれへんやん? 東京での記憶が積み重なれば、大阪みたいに馴染むこともできるんと違う?」

 由美子はそういって夕を諭した。幼いころの記憶が絶対ならば、人間はその場所にしか留まれない。だが、現実はそうではない。人間は住む場所を変え、順応し、生活を試みる。ある意味でそれは人間存在の美徳といっていい。

「そうかもね」

 夕は寂しげな笑みを浮かべた。夕の言葉を否定もしないが、肯定もしない。

 東京。由美子の心の中に、その言葉が何度も浮かんでは消える。自分なら順応していけるという根拠のない自信が、由美子にはあった。由美子にとっては、東京はただの街でしかない。この大阪の街と、いったいなんの違いがあるのだろう。

「ほら、歌にあったやん」

 不意に夕はいった。由美子は、煙草の先を灰皿に押しつけながら、夕を見た。

「東京は愛せど、なにもない」

「椎名林檎?」

「そう。あの歌のように、あそこには、なんもないんや」

「雄介君がいるやん」

「雄介は…。雄介は、関係ないよ。これは、私個人の問題やから」

 そういった夕は、いつになく空虚で、憂いのある雰囲気を漂わせた。

 空になった夕のグラスに、私はワインを注いだ。こんな雰囲気の夕は、初めてだった。いままでの夕は、常に快活で、能天気といっていいほどで、屈託など微塵も感じさせない女だった。これまで知らなかった夕の一面に、由美子は内心驚いていた。

きっと東京での暮らしが、上手くいっていないのだろう、と由美子は思った。長年の恋人である雄介となにかあったか、会社での問題があるのか、あるいは両方なのか。順風満帆な人間は、こんな虚ろな一面を見せはしない。

「…いったいなにがあんたをそう思わるんやろうねえ。なにもない。本当に、そうなんかしら?」

「由美子も東京にくればわかるよ。くだらないと思えていた記憶や、どこにでもあると思っていた日常の風景が、実はかけがえのないものだって、痛いほどわかるよ」

「それをいわれると、私はなにもいえへんわ。…でも、こっちと向こうで、なにがどう違うんやろうか。私は、夕と同じ気持ちになれるんやろか?」

「きっと由美子もそうなると思うよ」

「それは、なんでなん?」

「私と由美子は、似てるから」

「まさか。見た目も、性格も、正反対やで」

「表面的にはそうやけど、深いところは似てるよ。価値観とか、ものの捉え方とか。せやから、きっと由美子にもわかると思う」

 夕は真顔になっていった。由美子は笑って首を横に振る。価値観などの根源的な部分で似ているといわれても、俄かには信じられない。だが、本当にそうなのかもしれないという気もして、由美子は困惑してしまう。

 二人は、果たして根源的な部分で似ていただろうか。由美子は過去を振り返る。そうだったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。情景が蘇る。二人で帰った道、二人ではしゃいだ放課後の教室、二人で雨に濡れた日。あのころ二人でなにを語りあっただろうか。価値観を語ることなど、あったろうか。記憶は、もはや曖昧だ。窓の外の景色のように、止まることを知らない歳月が、記憶を煙らせてゆく。

「東京のどこにも、私を形作った原風景はないんよ。それどころか、これから私を形作る景色が見つかるとはとても思えない。ビル、マンション、人込み、それだけ。愛着もなければ、愛着を生む源となる記憶さえ積み重ならない場所があるだけ。いつまでたっても、馴染めやしない」

「愛着を持てる場所を見つけようとする気はあるの?」

「…答えに困るなあ。最近、それがわからんくなってきた。もしかすると、自分の生きる場所は、東京やなくて、やっぱり大阪なんじゃないか、そんな風に考えてしまう」

「夕、あんた、大阪に戻りたいんとちゃう?」

「…わからへん。戻りたいと思う自分と、向こうにいたいと思う自分がおるねん」

「雄介君は? 彼には相談したん?」

「雄介の答えはいつも決まってる。あの人は、東京に留まるしかないねん。でも、あの人はなにも悪くない。いつも、いつだって、私に寄り添い、私を理解しようとしてくれてる」

 まるで雄介を庇うようないい方をする、と由美子は思った。夕の口ぶりからすると、夕は雄介には相談をしていないのだろう。悩みを明かさないのは、夕の悪癖といっていい。

 由美子は夕にどう言葉をかけていいのかわからなかった。夕の悩みを、本当にはわかってやれないのがもどかしかった。長く沈黙した末に、由美子は、どういう意図もなく、独り言のように言葉を発した。

「…ビルに人込みか。それいい出したら、梅田も変わりはあらへんのになあ。私には、東京も大阪もなんも変わりないように思えてくるわ」

「私も、東京にいくまでは、由美子と同じやった。なんも違いなんてあらへん、そう思ってた。でも、やっぱり違うんや。記憶や思い出、そんなもんがどれだけ大事なんか、思い知った気がする。ねえ、覚えてる? 由美子と初めて梅田で遊んだ日のこと?」

「もちろん。ほんと、しょうもない理由で映画につきあってもらって、ありがとね」

「こちらこそ。あれだけじゃなくて、買いもの、デート、受験、サークルの飲み会、就活…。いろんなことがここであったわ。でも、その記憶が、その思い出が、この場所を特別にするんや。いまになって気づいても、もう遅いのになあ」

 夕はしみじみとした口調で、そういった。どこか寂しそうな笑みが浮かんでいた。

 由美子は、どんな言葉をかけてやるべきか、わからなかった。

 気がつけば、二人は会話に夢中になっていて、ほとんど料理や酒を頼んでいなかった。二半ば慌てて注文をした。お互いのグラスに満ちたワインを、飲み、そして味わう。

 酔いが回ったのかどうかわからないが、悪戯っぽく微笑んだ夕が、なんとなしにいう。

「そういえばさ、由美子にききたいことがあったんやけど」

 本能が警告する。こういう顔をした夕は一番危ない。なにをききたいのかわからないが、由美子にとってきいてほしくないことをきいてくる、そんな嫌な予感がした。

「別になんもきいてくれんでええんやけど、なに?」

 由美子がそういうと、夕はさらに楽しそうに笑い、いうのだった。

「あのさ、私とわざわざ映画を下見までして、デートいくってゆってた男の子って、結局どういう人やったん? 教えてよ」

 夕がいい終わらぬうちから、由美子は顔を顰めた。いまになってなにをいい出すのだ、と由美子は思った。

「どういう人って、そのとき好きな子や。それだけ」

「ちゃうやん。だから、誰やったんってこと。高校二年くらいのころにつきあってた年上の彼氏とは絶対違うやろ? だって、映画が好きそうな人やなかったし。ねえ、あの人って誰やったん?」

 久しぶりの再会や酒の酔いを利用して遠慮なしにきいてくる夕に、由美子は少々の忌々しさを感じた。よくもそんな昔のことを覚えていて、それを掘り返そうとするものだ。

 もういまとなっては懐かしい記憶だった。だが、あまり思い出したくない記憶だ。あのころの自分の恋に対する幼さが、ほろ苦くて仕方ない。滑稽な空回りや勘違いを繰り返し、相手の男の子には迷惑をかけたという思いでいっぱいだった。ただ、あの恋があったおかげで、自分は次に進むことができたという気もする。

 夕に明かすべきか由美子は迷い、一度窓の外を見た。外にはなにもなく、ただ雨が降りしきる梅田の夜景があるだけだ。

「やっぱり、いわへん。あれは、墓場まで持っていく」

「えー、教えてよー」

「いいや、私はいわへん」

 由美子はそう断言した。夕はぶつぶつと文句をいったが、それをきかず、ワインと料理を楽しむことに専念したのだった。


【注釈】


東京は愛せどなにもない:椎名林檎の楽曲「丸の内サディスティック」の一節。

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