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雨が、梅田に降り注ぐ。西から風が吹いていて、雨は風に乗り、垂直に落ちていくのではなく、湾曲し、地面に落ちる。耳元で風が鳴ると、前を歩いていた人の傘が、一瞬で吹き飛んだ。
由美子と夕は、阪急梅田駅の高架下にいた。傘が吹き飛ぶ光景を見て、雨の中に出ていく愚を悟る。
「地下道ってないの?」
夕がいう。
「テアトルまでは、そんなもんないよ」
由美子は答えた。
二人が目指すテアトル梅田という映画館は、茶屋町、つまりは阪急梅田駅の東側に位置している。梅田は迷路のごとく地下道が張り巡らされているというのに、テアトル梅田まで通じる地下道はなく、二人はこの雨の中を踏み出さねばならなかった。
高槻市駅を出たときは、こんな雨も風もなかった。阪急に乗って梅田に向かっている途中で、空がどんどん曇ってゆき、ついには土砂降りの雨になった。
踏み出そうか踏み出すまいか、由美子は迷った。傘はあるが、この雨と風だと、服が濡れてしまうのは目に見えていた。お気に入りの服を着てきたのに、天気は残酷だ。
「いっちゃえ」
隣で、夕が叫んだ。傘をぱっと開き、そのまま走り出す。夕のスニーカーが、ばしゃばしゃと水を撥ねる。
「あっ、夕」
飛び出していった夕に、由美子は慌てて追いつこうとする。青信号が点滅している。開きかけの傘で、走り出す。風で思うように傘が開かない。服が容赦なく雨に打たれる。
夕は道路を渡ったところで、由美子を待っていた。夕に追いついた由美子は、声を上げる。
「ちょっと、なんでいきなり飛び出すんよ?」
「だって、地下道ないんなら、いくしかあらへんやん」
笑いながら、夕はいった。
確かに夕のいう通りだが、夕の突然の行動に戸惑いを覚えずにはいられなかった。せめてどうするのか相談くらいしてくれてもいいのに、と由美子は思う。
「うわ、服が雨でびちょびちょや」
濡れたワンピースの裾を片手で持ち、由美子はいった。
「それ、私もや」
夕は肩にかかった雨粒を払う。夕の着るマリンボーダーのシャツに、雨による染みが浮かぶ。
「うう、お気に入りの服やのに」
そういって残念そうに自分の服を見つめる由美子を横目に、夕はこういってのける。
「ほら、早く歩かないと、さらに濡れてまうで。テアトルってどこなん? 由美子、詳しい場所を教えてよ」
夕は服が雨に濡れることをさして気にしてはいない。濡れたところで、なにがあるわけでもないと夕は考えていた。むしろ、服が濡れないようにするために、さっさと目的地へ向かった方がいいと考えている。
由美子はテアトルの位置を夕に伝えた。毎日放送のビルの向かい、ロフトが入ったビルの地下にテアトルはある。ここから歩いて数分のところだ。雨を跳ね飛ばしながら歩く。梅田芸術劇場の前までくると、右へ曲がる。ロフトの入ったビルがあり、地下へ下る階段が設けられている。その地下にあるのがテアトル梅田だ。シネコンばかりが集結する梅田にあって、数少ないミニシアターである。
なぜこの映画館にくることになったかというと、由美子の観たい映画が唯一上映されていたからだ。
昨日の学校帰り。由美子が突然明日映画にいくからつきあってくれと夕にいった。
なぜその映画を観たいのか、夕は由美子にききたくてもきけなかった。なぜならそのときの由美子の顔はいつになく硬く引き締まり、わけを話すのを拒むかのように見えたからだ。
座席が六十席と決して大きくはない劇場に、かなりの人が集まっていた。満席ではなかったが、それに近い状態ではないか。
由美子が観たいといっていた映画は、一風変わった映画だった。失恋をした男が、その記憶を消す手術を受けることになる。だが、手術中にその記憶の大切さに気づき、進行する記憶除去に抵抗する物語だ。記憶除去というSFめいた展開とそれに呼応する奇抜な映像表現が際立つ。さらに物語は時系列が意図的に入れ替えられ、主人公以外の脇役たちのエピソードも挿入されているため、ありきたりな恋愛映画とは異なる複雑さがこの映画にはある。
夕も由美子も、物語の展開に追いつくのに必死だった。上映中、悠長にコーラを飲み、ポップコーンを食べる余裕はあまりなかった。エンドロールが流れたときには、頭は軽い混乱状態にあった。物語の整理をするのに、時間が必要だった。他の観客も二人と同じらしく、場内が明るくなっても、席を立つ人は少なかった。それどころか、映画に関する議論があちこちの席からきこえてくる。
残っていたポップコーンを齧りながら、二人は映画の感想をいいあった。率直なところ、夕は少し難しい映画だと思った。脚本の複雑さゆえに、物語の主題を掴むことができなかったのだ。由美子は夕の指摘はもっともとしながらも、脚本と映像の独創性を高く評価し、熱を込めて語った。
「ねえ、どうしてこの映画やったん?」
映画の感想を語ったあとで、夕は由美子に問うた。きこうとしてきけなかったことを、ようやく問うたのだ。
きかれた由美子は、やはりそれをきいてくるかという顔をした。わずかな沈黙を置いて、由美子はいう。
「…まあ、前から気になってた映画やってん」
表情と口ぶりが、嘘だと伝えている。
「で、ほんとのところは?」
夕は容赦なくきいた。
「ほんともなにも、それがほんとやって」
「ちょっと、ちょっと。なによ、それ」
思わず夕は声を上げた。前の席に座っていた客が、ちらりとこちらを振り向いた。声の大きさを抑え、夕は続けていう。
「絶対由美子こういう映画好みやないやろ。他に理由あるやろ」
「そんなんないってば。ほんとに、この映画観たかってん」
「えー、ほんまに?」
夕はそういって、首を傾げた。
客が席を立って出ていく中、二人は無言で座っている。ポップコーンとコーラをかわりがわりに口に運びながら、夕は由美子からの答えを待った。由美子は由美子で、早く夕がそれらを食べ終わり、自分への追求を諦め、席を立つのを待っている。
人がいなくなった劇場の寂しさは、なにに譬えればよいのだろう。興奮や感動の残り香がそこかしこに立ち込めているというのに、肝心の客たちはすでにその場にいない。そう、それは祭りのあとに似ている。興奮や感動もやがては消え失せ、観客たちが残したゴミが倦怠感を生み出す。最後には、すべてが終わってしまったという途方もない空虚さが場を支配するのだ。
夕の手が止まった。ついに、ポップコーンとコーラのカップは、空になってしまった。夕は由美子の横顔を見る。
「ちょっと、教えてよ。絶対なんかわけがあるやろ?」
「だから、なんもないってば」
由美子の頑なさに、夕は口を尖らせた。夕の頬を人差し指でぐにぐにと押してやる。
「ねえねえ、早くいわないと、私、この席立たへんで」
由美子は夕の戯れに抵抗しないが、返事もしない。夕が戯れに疲れたとき、由美子はこういってのけた。
「私はもういくよ、夕」
そして席を立って劇場から出ていく。
「待ってよ、由美子」
夕は由美子を追いかけつつ、その背中に声をかけた。由美子はどんどん先へ進んでいった。映画館を出て、地上への階段を昇り、土砂降りの雨の中へ再び入り込んでいく。
「せっかく映画につきあったのに、事情を教えないなんて、ずるいわ。つきあった私はなんなんよ」
夕は雨の中、声を張り上げた。どこへ由美子は向かおうとするのかわからぬまま、彼女を追いかけている。
ひどい雨だ。人に溢れているはずの茶屋町の通りに、人がいない。みんな地下へ隠れてしまったのか。
由美子は返事をしない。それどころか、こちらを振り向きもしない。
「ああ、もう。この捻くれ者」
夕は走って由美子に追いつくと、その背中を掌でどんと叩いた。驚いた由美子が振り返る。夕は由美子の肩を掴み、揺さぶる。二人の傘は、地面に落ち、折からの風で二人から離れていく。
「ほら、話せえ」
夕は由美子に抱きつくように。あるいはしがみつくようにして、由美子に事情を喋らせようとした。
降りかかる雨と夕に由美子は悲鳴を上げる。雨が服にかかる、と叫ぶ。
何秒かの悶着のあとで、たまらず由美子がいった。
「わかった、わかったから、離してよ」
由美子の言葉をきき、夕は由美子から離れた。服がびしょびしょ、と無邪気に笑っていう。遠くへ転がっていった二つの傘を拾い、一つを由美子に渡す。雨で前髪がおでこに張りついている。頬を流れる雨粒のせいで、夕の笑顔は泣き笑いのように見える。
なぜ彼女は笑えるのだろう。由美子は夕のはちゃめちゃぶりを改めて思い知り、呆然と立ち尽くす。
ほら、と夕がいう。由美子が傘を開かずにいるので、夕が自分の傘の中に由美子を入れた。
「あのね」
由美子はいう。
「ん?」
夕はきき返した。
「あの映画をさ、今度男の子と観にいくんよ」
「うん、それで?」
「それでって…。いや、だからそれが、今日映画にきた理由」
由美子がいう。夕の表情が、固まる。二人して、少し黙り込む。
「いやいや、よくわからへんし。わざわざ前もって観る必要あるん? そもそも、私と観る必要あるん?」
夕はいった。由美子はなにをいっているのだ、という思いが湧いてくる。
由美子は、唇を噛んだ。そのあとで、口を開いた。
「もういい」
そういって、由美子は歩き出した。傘もささず、雨の中を由美子はゆく。
「ちょっと」
夕は声をかけるが、由美子は、もういい、と再び叫んだ。こちらを振り返ろうとせず、歩いていく。
「由美子、待ってよ」
夕は慌ててそういった。しかし、由美子の背中は遠ざかってゆく。
「もういいよ。夕を誘った私が悪かった」
怒ったような口調で由美子はいう。なんなのだ、という思いを堪えて、夕は由美子に追い縋った。
「ごめんやん。でも、わけをちゃんと話してよ。でないと、私もわけがわからへん」
「…」
「ねえ、由美子ってば」
「…気になる子と、あの映画観にいくから、下見したかってん。面白いかどうか、不安やったし。夕を誘ったのは、その…」
「その、なによ?」
「ほら、夕と仲良くなってから、まともにどっか遊びいったことなかったやん? せやから、せっかくの機会やし、二人で梅田をぶらぶらしようと思って」
由美子はなぜか恥ずかしそうに、少し顔を赤らめて、そういった。
そんな由美子を見て、夕は、なぜ恥ずかしがるのだ、と思う。要はデートの下見と、自分と遊びたかったという話だろう。この点、夕は能天気だったせいか、由美子の心の機微を上手く理解できてはいなかった。
「そんなの、早くいいなよ。別に隠すことなんかないやん」
「それはだって、いいにくかってんもん」
「…まあ、わからなくはないけれども。なんや、私は由美子のデートの下見につきあわされてたんか」
散々に焦らされて、ようやく知った真相が案外あっけなかったため、夕は率直にその思いを口に出した。ただ、夕にとってはあっけなくとも、由美子にとってはそうではない。由美子は複雑そうな顔をして、夕に向かっていう。
「つきあわせてごめん。やっぱり、こういうのは一人でいくべきやった」
顔を俯かせ、どこか暗い雰囲気を漂わせる由美子を見て、夕は遅ればせながら、彼女の心情を読み取った。
「ううん、謝る必要なんてないよ。私も、由美子とはそのうち遊びにいきたいと思ってたから、今日はいい機会かもね」
夕はそういって、由美子に優しく笑いかけた。由美子が自分と遊びに出かけたいといってくれたのは、素直に嬉しかった。
「でも、観にいくのはあの映画でええの? あれ、デートと向けとは違うんとちゃうか?」
「そうかもしれへんけど、一緒にいく子がな、あれを観たいっていってたから」
「ふうん、変わった人なんやなあ」
「上手くいくかなあ?」
「それは由美子次第やろ」
由美子の言葉に、夕は思わず笑った。
やっぱそうやんなあ、と由美子はいう。
「ねえ、そのデート一緒にいく人、どんな人なん? せっかくやから、教えてよ」
夕は由美子にきいた。すると、由美子はまた顔を赤らめた。
「それは口が裂けてもいえん」
「えーっ、なんでよ。ここまできいたんやから、教えてくれてもええやん」
「それは無理。絶対いわへん」
「ケチ。教えてよ」
「せやから、いわへんって」
そういって、由美子は再び歩き出した。阪急梅田駅方面だ。道すがら、夕は何度も由美子にデート相手のことをきこうとしたが、由美子は結局相手についてなにも明かさなかった。
【注釈】
テアトル梅田:大阪梅田、茶屋町に実在する映画館。毎日放送(MBS)の向かいのビルの地下にあり、インディペンデント映画やアーティスティックな映画の取り扱いが多い。
夕と由美子が観た映画:2004年公開の「Eternal Sunshine of the Spotless Mind (エターナルサンシャイン)」のこと。




