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熱い缶コーヒーを二本握り締め、上着の左右のポケットに突っ込んだ。缶コーヒーから伝わる熱が、十二月の寒さに凍えた手を温めてゆく。
背後で青く眩い光を放つのは、いつも見慣れていたコンビニ。年の瀬が迫る時期にあっても、店は時間や季節をなにも知らないかのように淡々と営業している。眠そうな顔をした店員、寝間着のような格好でやってくる客。彼らの振る舞いや表情には、年末らしさなど微塵も立ち上っていなかった。
井上雄介は体を縮こまらせながら、コンビニの駐車場に立っていた。寒さを紛らわせようと、ときどき小刻みに体を震わせたり、揺らしたりする。
阪急高槻市駅の南、国道一七一号線を越えたところにあるコンビニである。コンビニから二百メートル歩いたところには、雄介の実家であるマンションが建っている。
時刻は午後六時半だ。すでに陽は落ちて、周囲は闇に包まれている。街灯は、ぼんやりとしたオレンジ色の光を道に落としている。
握り締めている缶コーヒーの熱が徐々に下がり出したころ、駐車場に一台のスイフトが入ってきた。雄介は正面からスイフトのヘッドライトを受けた。眩さに目を細めた。
スイフトは雄介の前に停車した。扉が開き、雄介と同年代の男が出てきた。小林諒である。
「わりい。遅くなっちった」
諒はそういって、片手で手刀を切る。
「ああ、別にいいよ」
雄介は諒の遅刻を咎めたりせず、おもむろに缶コーヒーを差し出した。
「ほら、飲めよ」
「サンキュー。悪いね」
諒は缶コーヒーを受け取るとすぐに蓋を開け、一口飲んだ。コーヒーを飲み下したあとで、白い息とコーヒーの匂いが諒の口から洩れた。
雄介も諒にあわせて缶コーヒーの蓋を開け、それを飲んだ。諒にはブラックを渡したが、雄介のものはカフェオレだった。砂糖をぎっしり詰め込んだひどく甘いカフェオレは、すぐに飲み干すことができた。ゴミ箱まで歩き、空き缶を捨てた。
「そろそろいこうか」
雄介は諒に向かっていった。
「ああ、乗れや」
諒はそういって、運転席に乗り込んだ。雄介も助手席に乗り込む。
諒はエンジンキーを回すと、軽やかにスイフトを発進させた。車は駐車場を出て、片側二車線の国道一七一号線に滑り込んだ。そのまま道なりに進み、茨木市方面を目指す。
「…しっかしまあ、こんな時期にいきなり男二人でドライブとは、どういうことなんだか」
諒はいった。
「まさか本当につきあってくれるとは思ってなかったけどな」
雄介は笑いながらいった。
夜景を見にドライブにいこう、と諒を誘ったのは、雄介だった。昨日の夜に携帯で諒に突然電話を入れ、半ば強引に諒を誘い出したのだった。ご丁寧にも、どの場所をどういう経路で巡るか、そこまで雄介は諒に伝えていた。
今日は十二月三十日である。年末の慌ただしい時期で、夕方のニュースでは、梅田の百貨店や商業施設が大賑わいだったと伝えていた。買い物や遊びだけでなく、旅行や帰省といった理由で人が激しく動く時期である。そんな時期に、まさか諒が本当にドライブにつきあってくれるとは、雄介も思っていなかった。
「…まあ、時期が時期やけど、独身の社会人は暇やしな」
諒はいった。雄介と諒は社会人五年目の二十七歳だった。二人は、高校時代からの友人であった。
「…独身っつったって、お前、彼女いるだろ。彼女とは遊ばないのか?」
「クリスマスに散々つきあったから、年明けまではもういいよ」
諒はそう憎まれ口を叩く。諒には大学時代から長くつきあっている彼女がいた。雄介は一度か二度会ったことがあるが、利発で気の強そうな女性だったことは覚えている。どこかほんわかしたところがある諒には、ちょうどいい彼女なのかもしれない。
「クリスマスにはかなり散財したのか?」
「そりゃあもう。梅田の高いレストランでディナーだの、バッグのプレゼントだの、軽く十万はぶっ飛んだかもな」
「そいつは派手に使ったな」
「まったくやで。勘定する時に冷や汗が止まらんかったわ。ほんで、そんな俺を尻目に、あいつはにこにこと上機嫌でおるからな」
「全然いい状況だろ。彼女がすげえ喜んでるんだから」
「それはそやけど、もうちょっとあいつは加減ってものを知ってほしいよな。社会人なってから、あいつは金遣いが荒くなったで」
「そりゃあ俺らも一緒だろ。スーツだの、時計だの、車だの、いろいろ使っちまう」
「…まあな」
「なんにせよ、喜んでるんならいいじゃないか。きいたところ、関係は順調そうだな」
「上手くはやってるよ。もう長いしな。お互いの気持ちとか、考えてることとか、そういうのがぱっとわかるようになったから、喧嘩もなくのらりくらりやってるわ」
諒はいった。愚痴を零し、憎まれ口を叩くわりには、心なしか嬉しそうに見える。
「…互いの気持ちがわかる、か。相当仲よくないと、そこまでいき着かないな」
雄介は前を向いたまま、どこかしみじみとした口調でいう。
「仲がええのもあるけど、長くつきあってきた積み重ねってやつやな。楽しいことも、馬鹿なことも、くだらん喧嘩もいっぱいしたわ。そしたら、相手と自分が重なるっていうか、瓜二つになるっていうのか、相手のことがまるで自分のことのようにわかるようになってた。お前らにもそういうのあるやろ?」
諒は雄介にきいてきた。
雄介は、前を見つめたまま、答えなかった。わずかばかりの沈黙が、二人の間に訪れた。諒はその沈黙でなにかを悟ったように、慌てて言葉を発する。
「…ごめん、思い出させたか?」
「いや、気にしてないさ」
雄介はいった。諒は一瞬雄介の横顔を見やったが、彼の表情はまったくの無表情で、なんの感情も浮かんでいないように見えた。
芥川を渡る手前の交差点で、スイフトは信号待ちをしている。車内に音楽やラジオはかかっていない。静けさが、車内を支配している。
信号が青になり、スイフトはまた走り出した。国道一七一号線を、茨木方面へ。一七一号線は大阪の淀川以北、北摂と呼ばれる地域を走る国道で、京都南区を起点に、大阪を経由して神戸までを繋いでいた。通称はイナイチという。京都から茨木までは、ちょうど大阪平野を右上から斜めに切り込むかのように道が走り、茨木の中央で一度屈折すると、あとは神戸までひたすら真横に道が走っている。
スイフトは軽快に道を進んだ。珍しいことだ、と雄介は思った。普段なら、イナイチはひどく混雑するのだが、今日は驚くほど走る車が少なく、道が空いていた。年末で、誰も外に出たがらないからなのだろう。
「うおっ、今日は空いてるねえ」
諒も同じことを思っていたらしく、声を上げた。
あっという間に、明治製菓の高槻工場を通り過ぎた。板チョコレートの形状をした巨大看板が目印の工場である。高槻市の小学生は、社会科見学で一度はあの工場を訪れる。雄介も見学したことがある。訪問の記念にお菓子が配られたが、そのお菓子はチョコではなくなぜかカールだったことは、いまだに覚えている。
それまで車内が静かだったので、雄介は喋るいい機会だと思い、諒に話しかける。
「しかし、懐かしいもんだな」
「ん? なにが?」
「ドライブだよ」
「ああ、確かにそうやな。つうか、雄介とドライブすること自体、大学以来と違うか?」
「そういわれりゃそうだな。高校のころだな、それしかやることがないんかってくらい、ここらあたりを走ってたのは」
「しかも、原付でな。あれはアホやったなあ。夜景見たさに、ひたすら原付飛ばして…。いまみたいな冬の夜とかでもな」
「アホっていうか、馬鹿だよ、馬鹿」
「はは、そうに違いない」
前を見つめる諒の顔に、笑みが浮かんだ。諒は笑うと、人懐っこい子犬のようだ。初めて出会った高校生のころから大人になったいまでも、その可愛らしい笑顔は変わっていない。
雄介は、懐かしさを感じた。諒との会話が、諒の笑顔が、かつての高校時代を思い出させた。そう、すべてが懐かしい。目に映る高槻の平凡な景色も、いまかわしている会話も、懐かしさを感じずにはいられない。
高校生のころ、よく三人で原付を飛ばしたものだ。雄介、諒、そして夕。つきあっていた雄介と夕に、なぜか諒まで巻き込んで、高槻や茨城のあちこちを回った。高槻と茨木は高台から美しい夜景を見られる場所が多かった。夜景スポットを何か所も回った。それだけに飽き足らず、吹田や豊中にまで足を延ばし、夜の万博公園、千里中央から柴原にかけての夜景、そして夜の伊丹空港を見にいったものだ。三人が通っていた高校は、私立の進学校で、校則や勉強がひどく厳しく、毎日が雁字搦めにされているような気分だった。校則違反を承知の上で原付を乗り回したのは、日々の息苦しさから脱け出したかったからだ。うだるような暑さの夏の夜も、凍え死ぬほど寒かった冬の夜も、三人でよく出かけた。あの時感じた爽快感や解放感を、雄介はいまでも忘れることができなかった。
三人で過ごした日々は、すでに遠いものとなっている。それだけ時間が流れてしまった。そして、三人のうちの一人は、もうこの世にはいなかった。