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大気圏の背中 -the bottom of the atmosphere-  作者: 鈴山浩美
第二章 研修スペースにて
5/17

講義

 中村は十三時十三分に戻ってきた。


「すみません、遅くなりました」


 きっと山川さんがなかなか離してくれなかったのだろう。


「おかえりなさい。まだ時間になってないから大丈夫ですよ」


 相田君もまだ本を読んでいる。


 中村は会釈しながら席に着いた。その直後、相田が本を鞄の中にしまった。腕時計を見ると、十三時十四分になったところだった。中村は相田に向かって、小声で


「お待たせ」


 と言った。相田は中村の方を見て、口を少し開きかけたが、何も言わずに口を閉じて首を軽く横に振った。中村は微笑んで資料の準備を始めた。KとAはその様子を横目で見ていたが、渡瀬に見られているのに気づくと資料に目を落とした。その視線のやり取りを相田が気づいたようだったので、渡瀬は失敗したと思った。


 中村が資料を出し終えたのを確認した渡瀬は、


「では、そろそろ午後の講義を始めます。今日はいい天気なので、居眠りしないようにがんばりましょう。よろしくお願いします」


 と言って四人の顔を見た。


「よろしくお願いします」


 四人は体をこちらへ向けて、軽く頭を下げながら声を揃えた。こういうとき、初めに声を出すのは不思議と相田君のことが多いのだった。もう少し詳しく説明すると、相田の「よろ」に続いて中村とKが「し」の辺りから入り、Aは「お」から入ってくる感じだ。他の三人が誰かが声を出すまで待っているのか、自分のタイミングで言おうとしているのかはわからなかった。




「きみ、中村君に変なこと吹き込んだでしょ」

「はい?」


 朝の報告会が終わり、会議室から出る列の最後尾にいた渡瀬の前を進んでいた山川が急に振り向いて唐突な発言をしたので、渡瀬は反射的に聞き返してしまった。山川は肩を寄せて、


「はい? じゃないよ、もう。私が魚苦手なの知ってるよね?」


 と言って机に左手を乗せた。渡瀬はその手と、反対側で半分ポケットに入れられている右手を交互に見て、今朝配られた書類はどこだろう、と思った。もう一度机の上に置かれた手に目をやると、その下に書類があった。手首には金属ベルトの腕時計が巻かれていた。視線を引くと、渡瀬の左手にも腕時計があった。先輩にもらった革のベルトの腕時計。山川は唇を結んで戸惑ったような表情で渡瀬を見上げていた。渡瀬は腕時計に触れた。山川の脚は少し傾いていたが真っ直ぐに伸びていた。




「先生、一分経ちましたけど」


 渡瀬は中村の声で我に返った。渡瀬は研修スペースの講師用の机に座っていた。中村は顔を渡瀬の方へ向けて正面から渡瀬を見ていて、KとAは渡瀬と資料の間くらいを向きながら渡瀬の方を見ていて、相田は資料の方を向いたまま横目で渡瀬を見ていて、渡瀬が顔を上げると一人だけ目を逸らした。


「あ……ごめんなさい。じゃあ、いまのページで気になることがある人は、発言してください」


 渡瀬は首を動かして四人を見渡した。KとAは資料に目を落とし、中村は三人の様子を横目と上目で見た。相田は中村を見返して、軽くあごを動かした。中村は相田に向かって軽くうなずくと、渡瀬の方を見て


「いいですか?」


 と言った。渡瀬は中村の方を向いてうなずきながら、


「どうぞ」


 と言った。腕時計が蛍光灯の光を反射して白く光った。




 あの頃、渡瀬は腕時計をしない主義だった。時刻の確認は携帯電話で事足りていたし、肌に金属が当たっているのがどうしても慣れなかった。就活中はさすがに付けるようにしていたが、付けている間ずっと左手首が気になって仕方がなかった。一度、集団面接か何かで腕時計をどこで買ったかという話になり、家電量販店で買ったとは言えずにいとこにもらったことにした。この質問に限らず、当時の渡瀬はプライベートな質問に対していくら面接とはいえ失礼だと思って憤っていたものだが、何も本当のことを言う必要はないのだし、現に渡瀬もとっさの思いつきとはいえそうしていたのだった。いまやっている研修だってその延長線上にあるはずなのに、雰囲気がまったく違うのはなぜだろう。立っている場所が違うからなのか、それとも向きが変わっているのか、その両方なのか、渡瀬にはわからなかった。




 中村が発言している間、KとAはうなずきながら聞いていた。Kのうなずきにはメリハリがあって、自分が肯定できると思ったところでうなずいているようだったが、Aは肯定するというよりも話を促すためにうなずいてるような感じだった。相田は軽くあごを上げて資料を下目で見ながら聞いていて、ときおり資料に何か書き込んでいた。なだらかな弧を描いた人差し指がきれいだった。


 発言を終えた中村は、


「以上です」


 としっかり発声して、手をひざの上に置いてから息をついた。


 渡瀬は「ありがとうございます」と言って、中村の発言に対してコメントを始めた。渡瀬は喋りながら、坂口安吾の「教祖の文学」の一節を思い浮かべていた。




 彼の昔の評論、志賀直哉論をはじめ他の作家論など、いま読み返してみると、ずゐぶんいゝ加減だと思はれるものが多い。然し、あのころはあれで役割を果してゐた。彼が幼稚であつたよりも、我々が、日本が、幼稚であつたので、日本は小林の方法を学んで小林と一緒に育つて、近頃ではあべこべに先生の欠点が鼻につくやうになつたけれども、実は小林の欠点が分るやうになつたのも小林の方法を学んだせゐだといふことを、彼の果した文学上の偉大な役割を忘れてはならない。




 渡瀬はこの部分が嫌いだった。


 渡瀬がコメントし終わると、中村は渡瀬の方を見て、正面を向いて上を見た。


「なるほど……そうですね。その方がよさそうです」


 中村は言い終わる辺りで渡瀬の方を見た。


「はい。まあ、ここは演習でやるので、できれば両方のやり方を試してみてください。もし、中村君のやり方の方がいい理由が見つかったら、ぜひ教えてもらえるとうれしいです」


 中村は軽くうなずいて、


「わかりました」


 と言って目を落とした。


 中村は資料に向かってメモを取り始めた。KとAも何か書いていて、相田は頬杖をついていた。何か考えているようだった。視線の先はあいまいだったが、渡瀬は中村の手元を見ているような気がした。

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