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大気圏の背中 -the bottom of the atmosphere-  作者: 鈴山浩美
第二章 研修スペースにて
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予鈴

 会社のロゴが目の高さに描かれているドアを手前に開き、ドアを押さえながら中に入ろうとすると、すぐに手からドアの重みが消えた。無人の受付を素通りして右手に会議室のある廊下のようなスペースを進むと、広々としたオフィスに出た。まだ昼休みなので人はまばらで、机に突っ伏して寝ている人もいた。渡瀬は左に曲がり、さらに左手の開け放されたドアを通って、薄い壁で区切られたスペースに入った。


「あ、おつかれさまです」

「お疲れさまです」


 中村は自分の席で弁当を食べていた。


「先生に教えてもらったお弁当屋さん、気に入っちゃいました。毎日通っちゃいそうです」

「それはよかったです。でも、山川さんは不満そうじゃなかったですか?」


 渡瀬は今朝の報告会で山川から文句を言われていたのだった。


「え、いえ、そんな風には見えませんでしたけど……」

「そうですか。それならいいんです」

「あとで聞いてみますね」

「いや、大丈夫です、忘れてください」

「そうですか、わかりました」


 中村はちょうど食べ終わったところで、容器などを袋に入れると、捨てに行った。渡瀬は軽く伸びをして、講師用の席に座った。相田は自分の席に着いてPCを起こした後、足元に置いてあった鞄から文庫本を出して読み始めた。渡瀬の位置からだと灰色っぽくて何も書かれていない裏表紙しか見えず、どんな本なのかわからなかった。視線をずらすと、白っぽい紙に何本もの縦線が並んでいるのが見えた。それが文字なのだということはわかったが、渡瀬の視力ではまったく読み取れなかった。


 渡瀬はあきらめて、この後のことを考え始めた。今日は午前中が山川の担当で、午後からは渡瀬の担当だった。昼過ぎは講義で、夕方は演習だ。演習中は待ち時間が多いので、自分が所属しているチームの様子を見て、この席からでもできる雑用でもこなしながら見守るつもりだった。


 講義や演習のプログラムは昨年も使ったものをマイナーチェンジしたもので、資料もだいぶ前に完成していたので研修が始まる前に目を通して予習済みだった。受講者のレベルによっては研修中に見直す必要があるかもしれないと覚悟してはいたものの、始まってみるとほぼ想定通りの反応で、研修も後半に差し掛かったいまではほとんど準備はいらなくなっていた。講師に指名されたときはどうなることかと思ったが、本業の方で大きなトラブルが起こることもなく、研修という点では順調に進んでいると言えたし、上司にもそのように報告してあった。研修は順調なんだけど……。


 相田が横目で渡瀬の方を見た。しまった、つい口に出してしまったのだろうか。何か言い訳をしようかと思ったが、相田の視線は何ごともなかったように本のページに戻っていて、声を掛けるタイミングは一瞬で過ぎ去っていた。目が合ったわけではないので、相田が渡瀬を見たことに渡瀬が気づいていると相田が思っているかはわからなかった。渡瀬は気づかなかったふりをすることにして、スマートフォンを取り出してSNSに書き込んだ自分の投稿のリンクをタップした。ブラウザが一篇の詩を表示した。




  植物はとほくけぶる外輪山の緑のいろ。


  ここはたゞ白昼


  玉座の怒る噴煙である。


  生ものとては火口に飛び交ふ燕のむれだ


  断崖の影にかくれて


  燕窩にならぶ幼い卵だ飛翔の夢だ


  お、晴れるぞ霧が。


  海をしたがへ


  雲をとばし


  てつぺんに僕を飾つてひらく山岳!




 この間渡瀬が中村に教えてもらった、仲村渠の「頂上」という詩だった。仲村渠は「なかむら・かれ」と読み、那覇生まれの詩人で、本名は仲村渠なかんだかり致良と言うそうだ。渡瀬はそれを聞いたとき、名字が氏名になるなんてなんてうらやましいと思った。


 中村は登山が趣味で、月に一度は登っているらしい。この詩は、それを聞いた相田が教えてくれて、なんとなく親近感を覚えたのと、後半の勢いが気に入って、いつも山頂に着くとこの詩を思い浮かべて心の中で「山岳!」と言ってとても誇らしい気持ちになっているとのことだった。渡瀬もその話を聞いてから、もやもやした気持ちを解きたいときにこの詩を眺めるようになっていた。


 そこに受講者の二人が戻ってきて、それぞれ中村と相田の隣の席に着いた。渡瀬はそれを契機にスマートフォンをしまい、資料の冊子を繰って今日の最初にやる予定のページを開いた。腕時計を見ると、十三時十分を指していた。あと五分で昼休みが終わり、研修を始めるはずの時間になる。しかし中村がまだ戻ってきていなかった。


「中村君、見ませんでした?」


 渡瀬は発声練習も兼ねて大きめの声を出した。


「中村なら山川さんと話してましたよ」


 中村の隣の席に座っているKが言った。渡瀬が応えるより先に、


「あの二人、仲いいですよねぇ」


 と、Kの向かいのAが言った。そのとき、Aの隣で相変わらず本を読んでいた相田君の頭が少し揺れた気がした。


「そうですか、ありがとう」

「呼んできますか?」

「いえ、大丈夫です。時間になっても戻ってこなかったら私が呼んできます」

「わかりました」


 そう言ってKはAの方を向いて不満そうな顔をした。AはニヤニヤしながらKの視線を受け止めていた。相田はまだ本に目を落としていて、ちょうどページをめくるところだった。渡瀬はオフィスチェアーの背もたれに背中を預けて天井を見た。白くて細長い円柱形の蛍光灯がいくつも光っていて、白い光はときおり灰色に瞬きながら部屋を照らしていた。

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