踏切のある道
引き戸になっているドアを開けると、明るかった。渡瀬は未知の世界に降り立ったような気持ちになって、少しずつ方向感覚が戻ってきて、ここがどこか、これからどちらへ向かえばいいのか体が理解した。
渡瀬がそちらへ体を向けると、相田が入口の横の壁すれすれに立ってスマートフォンをいじっていた。
「あ、待っててくれたんだ。一人で戻れるのに……」
渡瀬は建物から出たときの酔いが抜けきらず、そこが頭の中であるように、考えたことが言葉に変わった瞬間に声にした。言ってから「しまった」と思ってもおかしくなかったが、このときはあまりに自然に口から出ていったので、疑いもせず過ぎたこととして認識していた。
渡瀬の言葉は渡瀬から離れず渡瀬の言葉として相田に届き、相田の中の渡瀬が受け取って再生していた。相田は一瞬間を置いてから渡瀬の顔を見た。渡瀬の顔を見た相田は無表情という感じだった。渡瀬はそのとき自然な表情をしているつもりだったが、もしかすると自分もこんなふうに見えているのかもしれないと思った。
「……当たり前でしょう」
相田は渡瀬の目を見ながらそう言って、言い終わるとすぐに目を逸らしてスマートフォンをしまった。渡瀬はうれしさのようなものを感じた。相田が会社の方へ歩き出したので、渡瀬も後に続いた。砂利が音を立てて、渡瀬は一瞬地面の方を見た。
相田の後ろを歩きながら、渡瀬はもしかするとさっきの「当たり前」は「待っててくれたんだ」ではなく「一人で戻れる」に対する言葉だったのではないかと思い当たって焦り出した。無表情に見えていたのは本当はあきれていたのだろうか。うれしそうにしているのを見て変なやつだと思わなかっただろうか。相田は前を向いて歩いていた。右足と左足が交互に動いていた。両足のかかとの位置が真っ直ぐに揃っていてきれいだった。落ち葉やマンホールがあっても乱れないのがすごいと思った。
渡瀬は相田の足から逃れた落ち葉を踏んで歩いていた。落ち葉はかすかに乾いた音を立ててつぶれた。渡瀬は一人のときのペースを取り戻しつつあった。
この道を歩くときは何も考えずに光や音、肌に当たる風や靴底の感触を収集するのが普段の渡瀬だった。往路では見かけなかった普段の渡瀬の姿がゴーストのように浮かんで渡瀬と重なった。渡瀬はいまの相田君は普段の相田君なのかなと思った。ふと、私は相田君が見えているので相田君について知ることができているけど、相田君は位置的に私を見ることができないのはよくないと思った。渡瀬は歩く速度を上げて相田の右側に並んだ。途端、渡瀬は相田に見られることを意識して、一人でいるときの渡瀬ではなくなっていた。渡瀬は並んだことを少し後悔したが、いまさら元の位置に戻るわけにはいかなかった。とりあえず何か話そうと視線をさまよわせると、マンホールが目に入った。桜の花があしらわれたマンホールだ。渡瀬はこのマンホールについて話すことができる。このとき渡瀬は何か話すことに意識が向いていて、そもそも何か話すべきなのかどうかは考えていなかった。ただ、マンホールの話題が適切なのかは検討していた。地雷というやつだ。残念ながら相田君にマンホールに関するトラウマのようなものがないかどうかはわからないが、マンホールは地雷率の低い話題だと思われるので大丈夫だろうと思った。
「私、買い物していくので先に戻ってください」
相田はそう言いながら少し歩く速度を速め、逆に遅くなった渡瀬の目の前を通って右手にあったコンビニの入口に立った。ほどなく自動ドアが開いた。
「あ」
相田は首を回して会釈しながらコンビニに入っていって、すぐに棚の陰に隠れて見えなくなった。自動ドアが閉まった。
渡瀬は前に向き直って歩き出した。蝉の声が降ってきていた。出どころは少し遠く感じるので、街路樹の桜並木ではなく我々を斜め前方から緩やかに見下ろしている公園からだろう。放たれた声は尾を引きながら着弾し、何度か跳ね回ってから蒸発していった。見上げると、葉の隙間から光が溢れて輝いていた。
ふと体が押し戻されるのを感じた。正面から風が吹いてきていた。渡瀬は両手を開いて風を受け、感触を楽しんだ。半袖の腕と顔にも風を感じていた。腕と顔は手と違って、受け止めるのではなく表面を撫でられているようだった。風が顔の横を通過するとき、風の音を感じた。少し遅れて、植え込みの木が揺れる音が聞こえた。その音は、木の真横を通り過ぎるとすぐに聞こえなくなった。
前から人が歩いてくるのが見えた。渡瀬は歩道の右寄りを歩いていて、人影も向こうから見て右寄りを歩いていたので、このまま真っ直ぐ進めばすれ違えると思った。
十メートルほどまで迫ったところで、前から歩いてきたのは同じ会社のSだとわかった。向こうも気づいたようで、目が合った。顔は知っているが仲がいいわけではないので、声は掛けずに会釈しながらすれ違った。Sも会釈しながら、すれ違うときに小声で「お疲れ様です」と言ったようだったが、渡瀬は一瞬息を止めただけで何も言わなかった。右から車庫のにおいがして、薄れた。
「ぉ、相田」
後ろからSの声がした。どうやら相田君が後ろを歩いているようだ。渡瀬は振り返って確認したい気持ちが湧き上がってくるのを抑えつつ、歩く速度を落とした。後ろから相田君が近づいてきているような気がした。渡瀬は後ろに意識を向けながら前へ歩き続けた。
警報機の音がして顔を上げると、踏切が目の前に迫ってきていた。相田はまだ渡瀬の視界に入ってきていなかった。このまま進めば遮断機が閉じる前に渡り切れることは確実だったが、渡瀬は止まる方を選んだ。渡瀬が立ち止まった直後、相田が渡瀬を追い越していって、遮断機から伸びている見えないラインの寸前で止まった。相田は渡瀬がいない方に顔を向けて、気づかないふりをしているようだった。黄色と黒の棒が近づいてきて、相田が一歩後ろに下がった。相田が渡瀬の方を見て、軽く会釈し合って、前に向き直った。
踏切の中の線路の上を電車が通っていった。電車の中は薄暗く、つり革につかまって立っている人の顔はよく見えなかった。警報音が止むと同時に遮断機が開いていった。
渡瀬は踏切に踏み込んで、線路の溝に足をとられないように慎重に歩いた。相田がまた少し前に出た。渡瀬は普段よりも速く足を動かした。一足先に踏切を渡り切った相田は、渡瀬の方を横目で見ながら右折を開始した。
渡瀬たちの会社は、この踏切を越えて二ブロックずつ北西に進んだところにあった。渡瀬一人のときはいつもどこで右折するか迷うのだが、誰かと歩くときはいつも渡瀬が踏み切りで遅れるので、少なくともここで曲がるかどうかは相手に任せればよかった。
渡瀬も少し遅れて右折を始めた。カーブの内側にいる渡瀬の方が曲がるのに要する距離は短いので、二人が右折を終えるタイミングはほぼ同時だった。渡瀬はいつもの習慣で線路の方を見た。柵の内側にはところどころに黄色や白の花が咲いていて、外側には隙間なくバラが植えられていた。咲いているものもあるが、上の方で切られているものが多かった。
「これってなんで切ってあるんだっけ」
渡瀬は独り言のように言った後、独り言にしては声が大きかったと思い、相田に話し掛けたのだと思った。
「さあ……、枯れたままにしておくのはよくないんじゃないですか。木を間引くみたいに」
「やっぱりそうかな」
やっぱりということは、私は相田君と同じようなことを考えていたのだろうか。確かにそんなことを考えていたような気がした。
左手の細道から車が出てくるのが見えて、エンジン音を立てながらこちらの方へ曲がってきた。渡瀬は少し右へ寄った。首のないバラがすぐ隣を通り過ぎていた。相田は歩く速度を一瞬速めてから右へ寄って、渡瀬の前に出た。渡瀬ほど右寄りではなかったので、渡瀬の目の前で相田の右肩が揺れていた。車は二人の左側を通過していった。車の左側面には会社名が書かれていたようだったが、二人とも読み取ることはしなかった。
車が通り過ぎた後も、相田は渡瀬の前を歩いていた。右の頬が見えていたので、右前方を見ているようだった。渡瀬は相田を見ていた。
相田の後ろ姿がかなり近くにあるのに気づいて、渡瀬はとっさに歩幅を狭めた。アスファルトが鳴って、自分の靴が音を立てたのだと思った。相田は一瞬首が伸びて、ゆっくり元に戻った。渡瀬はすぐに相田の左に並んだ。
「ちょっとつまずいちゃって」
「歳ですか?」
相田はちょっと照れたような表情で渡瀬の方を一瞥して、また線路の方を見ていた。
二人が左折する交差点が見えた。そこでバラが途切れて、ほとんど茶色くなったガードレールになり(バラに触れそうな端の部分だけ鈍い緑色に塗られていた)、道床の砂利や枕木がアスファルトや錆び付いたコンクリートに覆われて、黄色や白の花はススキに変わっていた。渡瀬はいつかの深夜、ここにトラックが止まっていたことを思い出した。